エピローグ
飛ばない鳥
赤い屋根の上、野良猫みたいに航が座っていた。
侑がバイクを停めている間、航は毛を逆立てるみたいに警戒しながら此方を見下ろしていた。湊が後部座席から飛び降りると、航の目付きは硝子のように鋭くなった。
湊と航は、二卵性の双子らしい。
産まれる前から一緒に育った彼等が、道を違ったのは一体何故なのか。苦い後悔を噛み締めていると、湊が中指を立てた。
「追い越したのは、身長だけか?」
安い挑発を口にして、湊が不敵に笑った。その瞬間、航の瞳に怒りが迸った。
航が屋根の上から飛び降りて、獣のように襲い掛かる。咄嗟に体が動きそうになるが、如何にか堪えた。これが彼等のコミュニケーションらしいので。
航の拳が、湊の顔面を狙った。空気を切り裂く音が鮮明に聞こえる。湊が闘牛士のように身を翻し、その腕を取って膝を振り上げる。かなり良いタイミングだったのに、体格差が大きいので振り払われる。
裏社会で命懸けの生活をして来た侑には、まるで野良猫の縄張り争いのように見えた。
航は、体格とセンスでリードしている。湊が紙一重で躱し、小癪に笑ってみせる。二人は暫くキャットファイトを続けていたが、互いに一撃を入れ合ったところで倒れた。俺は一体、何を見せられていたんだ?
二人は大の字になって、芝生に転がっていた。二人分の荒い呼吸が閑静な住宅地に響き、呑気な顔をした隣人が覗き込む。
「あーあ、またやってる」
眼鏡を掛けた男が、呆れたように溢した。
侑が目を向けると、男は同情的に言った。
「いつまで経っても、ガキのままだねぇ」
そう言って、男は立ち去った。
倒れ込む二人を見ながら、侑は胸の中に奇妙な温かさを感じた。彼等は昔から、こういう殴り合いの喧嘩をして来たのだろう。意見の衝突、不満の解消、コミュニケーション。言葉に出来ない感情を拳に乗せて、相手が分かってくれることを疑わない。
なんて幸福な子供達なんだろう!
どれだけ傷付いても、落ちぶれても、彼等は此処に戻って来たら等身大の自分でいられるのだ。それは湊の尽力であるし、航の忍耐である。そういう関係性を構築し、維持し続けている。
「……バシルと喧嘩したぞ」
空を仰いで、湊が言った。
何処か晴々とした顔付きだった。航は小馬鹿にするみたいに喉の奥で笑った。
「お前が他人と喧嘩出来るのかよ」
航が言うと、湊は嬉しそうに口元をむずむずさせた。
湊は喧嘩と言ったが、侑にはそう見えなかった。大抵の場合、湊が一歩引いたり、譲ったりして、如何にか丸く収めてしまう。そして、譲らなかったという事実が、彼にとっての勲章だったのだと気付いた。
湊はちょっと得意げだった。
「だって、腹が立ったんだ」
そりゃ、そうだ。
俺だって、聞いていて腹が立った。善意を理由に、正論で相手を貶める。俺達の尽くした最善を、何もしなかった奴等に否定されるなんて理不尽だと思った。
「なあ、湊」
芝生に寝転び、航は肘を突いた。
潔癖のような印象を持っていたが、意外と逞しいのかも知れない。
「俺も、叶えたい夢があるぜ」
航の言葉に、湊が体を起こす。
見詰め合う二人の間に、見えない糸が繋がっているみたいだった。
「店を開くんだ。トラットリアでも、カフェでも良い。俺の作った料理と、湊の煎れたコーヒーで、呑気な客の退屈をぶっ壊してやるんだ」
「へえ、面白そうだな」
「嫌な客も来るだろうし、訳の分からないクレーマーもいる。そいつ等は、侑が裏で締める」
湊が噴き出した。
俺は荒事担当かよ、なんて侑は笑った。だけど、彼等の夢に自分が含まれていることが、心地良かった。
「お前は時々、旅に出るんだ。綺麗なものを探して、世界中を回る。疲れた時には帰って来て、土産話をして、俺のメシで復活するんだ」
侑は、航という青年を見縊っていたと思った。
ナイフのように鋭く尖り、何者をも寄せ付けず、周囲を威嚇して毛を逆立てる。そんな苛烈な青年だと思っていたけれど、どうしてなのか、彼は温かくて、泣きたくなるくらい優しい。
思えば、いつもそうだった。
航は、相手の心を受け止めることが出来る。此方が真摯に向き合えば、鏡のようにそれを返して来る。
航は起き上がって、指を突き付けた。
「店の名前は、エンジェル・リード」
再起の場所さ。
得意げに航が言った。
湊は子供時代を終え、航も大人になったのだ。航は泣きそうな顔で微笑んだ。
湊は蕩けそうな笑顔を浮かべていた。
「航は接客なんて、嫌いだろ」
「面倒な奴等は、お前に任せる。俺は厨房から出ない」
「酷いなぁ」
なんて、湊が肩を竦めた。
濃褐色の瞳が見上げて来る。その目は出会った頃と変わらず、春の日差しのように温かく、透き通っていた。
「じゃあ、俺の手に負えなくなったら、侑を呼ぶからね」
頼んだよ、と湊が笑った。
まるで、天から金貨が降って来たみたいだった。侑は穏やかに笑う二人を眺めた。――新が生きていれば、彼等が語るような明るい未来が与えられたのだろう。
だけど、あの時、新がいなければこんな世界は訪れなかった。俺の目の前で笑い合う双子は、新の遺した希望そのものだった。
店の場所とか、間取りとか。
店のメニューとか、開店時間とか。
二人は芝生に胡座を掻いて、未来の話を語り合っていた。そんな姿を見ていると胸の中が温かくて、締め付けられるように痛む。
なあ、新。
胸の内で、死んだ弟に呼び掛ける。
この世は理不尽と不条理で溢れた、クソそのものだ。だけど、時々綺麗なものが転がって来る。それは、見ようとしなければ見えない、無形の財宝だ。
お前が遺したんだ。
明るい未来を、幸福な風景を。
こいつ等が笑っていられる世界を、お前が守ったんだよ。
なあ、新。
お前、死んだ甲斐があったな。
飛ばない鳥
熱砂の国で、カミール・ラフィティが死んだことを聞いた。
後を継いだのはムラト・ラフィティ。中東の石油王の長男である。ムラトは国王と会談し、どんなカードを切ったのか知らないが、熱砂の国では身分階級の撤廃が進められている。
武装蜂起も、テロも、クーデターも起きていない。
国民は不安を抱え、その政策を否定し糾弾する声もある。だが、誰も死んでいない。今は、まだ。
それを教えてくれたのは、湊だった。部屋着のようなラフな服装で、外国語で書かれた膨大な契約書類を纏めているところだった。
侑は適当な相槌を打ちながら、ソファでテレビを眺めていた。
ニュージーランドのドキュメンタリー番組が映っていた。鬱蒼とした森の中で、ずんぐりむっくりとした鳥が呑気に歩いていた。
鳥の名前は、キーウィ。
ニュージーランドの広大な保護区や国立森林公園に生息し、天敵に備えることもなく地面の餌を探している。
キーウィは飛べない鳥である。
飛翔する為の胸筋が付着する竜骨突起や尾羽が無い。その鳥は飛行能力を持たず、人間によって守られている。
「飛べない鳥も、いるんだな」
テレビを眺めながら、侑は零した。
鳥は空を飛ぶものだと思っていた。飛べない鳥は可哀想だとも感じた。だけど、その丸っこい茶色の鳥は決して不幸には見えなかった。
リビングテーブルで、航が顔を上げた。大学のレポートを作っているらしい。
「ダチョウやペンギンだって、飛べないぜ」
パソコンを広げたまま、航がそんなことを言った。確かに、そうだ。ダチョウもペンギンも、鶏も飛べない。だけど、種として今日まで生き残っている。
湊は書類の束を纏めながら、研究者みたいに言った。
「飛翔能力の代わりに、別の器官が発達した鳥もいる。環境に適応する為に手放した鳥も」
「……いつか飛びたいと思っても、翼が無いなんてこともあるのかもな」
侑が零すと、航は不思議そうに首を傾げ、湊は楽しそうに笑った。
「その時は、また翼を手に入れようとするんじゃないかな。人間が空を目指して飛行機を開発したみたいにね」
飛べないから可哀想なんて、鳥に言わせれば余計なお世話なのかも知れない。
失われたものは戻らないなんて、決め付けてはいけない。
今すぐに手に入れることは出来なくても、諦めなければいつか届く。俺は夢が叶う瞬間を見た。止まない雨も、明けない夜も無いことを知っている。
「お前等は?」
ソファに寝そべって、侑は問い掛けた。
湊と航は顔を見合わせて、悪戯っぽく笑った。
「俺達は、助走を取ってるところさ」
二人の声は、示し合わせたみたいにぴったりと重なっていた。疑うつもりは無いけれど、本当に双子なんだと思うと感動した。
「つーか、環境への適応なんて格好良く言ってるけど、単純に楽な方を選んだだけだろ」
航が揶揄うみたいに言った。
「安全に餌が手に入るなら、飛翔なんてリスクの高い手段は選ばないだろうさ」
「飛ばない鳥は、見方によっては幸運なのかも知れないね」
湊はそんなことを言った。
飛べないのではなく、飛ぶ必要が無くなった。侑は、目の前でリラックスする双子を重ね見た。
夢がある。
いつか、湊がそう言った。
大切な人が笑っていて、幸せな明日を考えながらベッドで眠り、期待通りの朝が来る。そんな日常がずっと続いて行くこと。
俺はね、世界中の綺麗なものを探すんだ。金銀財宝でも、芸術作品でも、美しい景色でも良い。そういうものを探して、時々、家に帰る。最高の人生じゃない?
――ああ、そうだな。最高の人生だよ。
帰るべき家があって、守るべきものがあって、叶えたい夢がある。明日が来ることを信じて眠り、期待通りの朝が来る。
飛びたいと思った時には飛行の手段を探し、疲れた時には巣に戻る。まるで、渡り鳥のように。
テレビを眺めて、二人が海の向こうの動物について語り合う。誰も傷付けず、何も奪わず、時間は穏やかに流れて行く。形容し難い幸福感と全能感が全身を包み、つい笑みが溢れた。
――侑が心から幸せな未来が見てみたい。
湊が、航が言った。あの夢は、もう。
「どうした、侑?」
航が心配そうな声で、覗き込んで来る。
侑は自嘲するように鼻で笑った。両目が熱いのは、何故なんだろうか。喉が詰まったように苦しいのは、何でなのか。胸が痛いのに苦しいのは、どうしてなのか。
「夢って、叶うんだな」
侑が言うと、湊が言った。
「諦めなければ、きっとね」
湊と航が柔らかに微笑んだ。
航はパソコンを閉じると、夕飯の下拵えの為にキッチンへ向かった。今夜はビーフシチューを作るらしい。
すっと伸びた背筋が綺麗だった。航は愛用の黒いエプロンを付けて、水盤の前に立っている。湊はテーブルに肘を突いて、御伽噺を語るみたいに言った。
「落ち着いたら、ベネチアに行こうと思うんだ。サン・マルコ大聖堂とドゥカーレ宮殿を見て、余裕があったらサーフィンも」
「へえ、良いな」
ベネチアは水の都だ。
日本という閉鎖的な孤島で育った侑にとっては、まるで天国のように遠い世界に思えた。湊は微睡むようにゆっくりと瞬きして、問い掛けた。
「一緒に来るかい?」
商談でも偵察でもなく、ただの娯楽として。
余暇なんてものは、侑の人生には存在しなかった。
侑はキッチンに立つ、航の後ろ姿を見遣った。
「お前が望むなら、何処でも行くさ」
帰るべき場所のあることが、どれだけ幸福であるか。
人並みの人生なんて望んでもいなかったのに、俺の手から沢山のものが零れ落ちたのに、どうして温かいものは降り注ぐんだろう?
夜明けを告げる鐘の音が聞こえる。それは福音のように厳かに尊く、美しく響き渡る。窓から差し込んだ春の日差しが、室内を白く照らし出す。スポットライトが当てられたみたいだった。
いつかこいつ等が飛びたいと願った時には、俺が翼になろう。新の分まで、こいつ等の両親の分まで、俺が俺である為に。
コトコトと鍋の煮立つ音がする。
この世を去った弟が、天国で笑っているような気がした。
The world is a fine place and worth the fighting for.
(この世は素晴らしい。戦う価値がある)
Ernest Hemingway
Fin.
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