⑷陽炎

 揚げたてのコロッケにキャベツの千切り。

 洒落た洋食屋みたいな良い仕上がりだったのに、湊の作った切り干し大根の味噌汁が全てを台無しにしている。テーブルの上に並べていたら、湊が昔噺みたいな山盛りの白米を運んで来た。




「そんなに食えるの?」

「残したことないだろ?」




 湊が問い返す。

 確かに、残したことは無い。軽く二人分は食べているのに、背丈は自分よりも小さい。食べた分の栄養は何処に消えてしまうのか、いつも不思議だった。


 洗面所からドライヤーの音がした。

 シャワーを浴びた侑は、金色の髪を無造作に流していた。こんな容姿で生まれたら、人生の大抵のことは上手く行くんだろう。


 三人で食卓を囲むのは久しぶりだった。

 湊が手を合わせて「いただきます」と叫ぶ。近所迷惑なくらいの大声だった。




「侑って、公安に知り合いがいるの?」




 箸でコロッケを割ると、湯気の中にジャガイモが見える。息を吹きかけていると、侑と湊が目配せした。

 話を濁すなら、追及しないつもりだった。侑は意味深に笑った。




「俺は元々、公安に所属していたんだ」

「公安って警察だよな?」

「そうだよ。スパイみたいなもんだな」




 侑は快活に言った。

 公安警察所属の殺し屋。かなり異色の経歴ではないだろうか。フィクションの世界では、スパイは足抜けするのが難しく、最期は組織に始末される。今の侑は、どうなんだろう。




「その時の知り合いが、エンジェル・リードを買ってくれてる。俺達は警察の捜査にも協力してるし、フィフティフィフティの関係だよ」




 エンジェル・リードの活動範囲は広い。

 基本的には芸術方面に投資しているが、社会の未来に投資すると言って、今では殆ど、何でも屋である。




「外務省から、アフマドが入国したって聞いたぜ」




 湊の手が一瞬、止まった。

 その動揺を誤魔化すみたいにリモコンを掴み、テレビが点く。普段、食事中にテレビなんて見ない癖に。




「アフマドって誰だ?」




 航が問い掛けると、侑が小首を捻った。

 エメラルドの瞳に微かな動揺が映る。湊がテレビの音量を上げ、リビングはバラエティ番組の空虚な笑い声に包まれた。




「アフマドは、赤い牙の実質的な主導者だよ」




 国際テロリストの代表格だと、湊が言った。

 抑揚の無い、フラットな口調だった。




「赤い牙の構成員なら、航は会ったことあるだろ」

「俺が?」

「覚えていないの? プリシラ・チハマドだよ」




 危うく、箸を取り落とす所だった。


 プリシラ・チハマドは、赤い牙の構成員だった。組織を抜けてからは中国青龍会の幹部の護衛となったが、権力闘争の末に日本に亡命して、ハヤブサに暗殺された。


 航は、一度だけ会ったことがあった。

 プリシラを始末する為に、翔太と共に誘き出す囮役を買って出たのだ。あの氷のような眼差しと、押し潰されそうな威圧感を今でも覚えている。


 プリシラが言っていた。

 戦場でしか生きられない人間の渇きを、お前は知らない。


 赤い牙は、両親を奪った爆弾テロの首謀犯とされている。

 真実は、分からない。




「プリシラは、赤い牙のゲリラ部隊だった。あのレベルの強敵はそういない。だから、大丈夫だよ」




 言い聞かせるみたいに、湊が言った。

 何が大丈夫なのかさっぱり分からないが、湊も侑もそれ以上説明するつもりは無いらしかった。テレビでは芸人が鶏の鳴き声の真似をしている。


 あのくらいなら俺も出来ると湊が言って、やらせてみたら予想以上に上手くて笑った。特に、縊り殺される鶏の断末魔はぞっとする程だった。












 11.ダイヤの原石

 ⑷陽炎












 仕事に行くぞ、と侑が言った。

 月曜の朝だった。


 侑は品の良いグレーのスーツを着ていた。商談でもあるのかと思ったら、行き先は都内の美術大学院だった。


 白い箱のような大きな建物は、教会に似た清浄な空気に包まれている。自然に囲まれたキャンパスには真面目そうな学生達が多く、ひっそりと静かに存在している。


 エンジェル・リードは、若い芸術家に資金援助をする。

 オークションやアートバーゼルで芸術家を見付けることもあるが、偶に大学に行って青田買いすることもある。湊は感性がゴミなので、買い付けは専ら航と侑の仕事だった。


 混凝土打ちっぱなしのだだっ広いアトリエに、大掛かりな作品が置かれている。全長七メートルの巨大なカンバスに、航には理解出来ない抽象的な魚の絵が描かれていた。


 学内では評価が高いようだが、航の好みでは無かった。侑はその作品を素通りして、針金のように繊細な彫刻を見ていた。何を表現しているのか全く分からないし、部屋に飾りたいとも思わない。


 作品の紹介パネルは漢字だった。

 航は読めなかった。




「なんて作品なの?」

「しがらみ、だってさ」

「シガラミって何だっけ?」

「知らん」




 侑が笑った。

 意味は知らないが、あんまり良い意味ではないんだろうと思った。絡まった針金みたいな彫刻は、大きな石から削り出したとは思えない程に精妙な作品だった。これを作った奴はきっと、下らないことをいつまでも考えて腐っている陰気な人間だ。


 アトリエには、油絵も多く飾られていた。

 卓越した技量を感じさせる見事な作品もあれば、航でも描けそうな拙い抽象画もあった。壁に掛けられた作品を順に眺め、航は或る作品の前で足を止めた。


 それは、写実的な油絵だった。

 青々とした春の草原に、紫紅色の花が咲き出でる。雑草の一本、花弁の一枚さえ丁寧に描いた巧緻な作品だ。花の匂いや暖かな風すら感じさせる、まるで写真のような一枚だった。


 写真を撮れば事足りるものを、敢えて労力を費やして描く。其処に人間の真価があると思った。




「すごいな」




 感心したみたいに、侑が言った。

 侑は、難解で斬新な表現よりも、厳かで美しい古典美術が好きなようだった。近代美術は大衆に向けて制作されているが、古典美術は神の為に作り出されている。航は神なんてものは信じていないが、人知の及ばないものに対して魂を込めて作り出されたものは美しいと思う。


 紹介パネルを見るが、やはり日本語だった。

 漢字が混ざっていると、面倒臭さが込み上げる。この国は全然、グローバルじゃない。




松雪彩人まつゆき あやとだってさ」




 航の苛立ちを諫めるように、侑が言った。

 作品名は、侑も読めなかった。もしかしたら、読み方なんて無いのかも知れない。


 侑は作品をまじまじと見詰めて、独り言みたいに溢した。




「湊に見せてやりたいな」




 侑は、悪戯っぽく笑った。




「あいつ、こういうの好きだろ?」

「湊は絵画の良し悪しなんて分からないだろ」

「芸術の話じゃなくてさ、景色のことだよ」




 航は納得した。それは、好きだと思う。航だって好きだ。

 写真撮影は禁止だった。侑は購入も検討しているようだった。




「作者に会おう」




 航が言うと、侑が頷いた。それが一番、手っ取り早い。

 作者は大学院生で、26歳の男子生徒らしかった。年齢を考えると、二年くらい留年している。飛び級制度を利用して来た自分達とは対極に位置する人間だ。


 松雪は、どうやら大学院のアトリエで作品制作に打ち込んでいるらしかった。スタッフに案内されて到着したのは、日の当たらない北側の部屋だった。


 息苦しい密室に、シンナーのような臭いが立ち込める。暖房は付けられておらず、足元から冷気が立ち昇るようだった。室内には数人の学生がそれぞれ作品を制作していた。絵画に彫刻、陶芸と幅広い。部屋の奥に、まるで貧乏神みたいに陰気な男子学生がいた。


 壁に向けられたカンバスに、一心不乱に絵筆を立てる。松雪は、浅黒い肌をしているのに血の気が無く、栄養失調で今にも倒れそうに見えた。


 頬の肉は削げ落ち、ちょっと脅したら何でも頷いてしまいそうな気弱な印象がある。




「アンタが、松雪さん?」




 側で声を掛けると、松雪は発条みたいに跳ねた。

 座っていた椅子が引っ繰り返り、絵筆が宙を舞った。侑が猫みたいに空中で捕まえる。




「何かしてしまいましたか?」




 おどおどしながら、松雪が早口に言った。

 目が合わない。松雪は逃げるみたいに壁際に寄ると、助けを求めて視線を彷徨わせる。航の周りにはいなかったタイプの人間だった。


 侑は松雪の正面で屈み込むと、殊更優しく言った。




「貴方の作品を見て、感動しました」




 率直な褒め言葉だった。だが、松雪は嬉しそうな顔もせず、壁にのめり込みそうな程に後退した。

 侑は辛抱強く称賛していたが、松雪は目を逸らして謙遜するばかりで、会話は噛み合わない。二人の遣り取りを聞いていると、航は苛々して、松雪の胸倉を掴んでやりたくなった。


 喋り慣れていないのか、滑舌が悪く、早口だ。

 目も合わないし、コミュニケーションが不得意なのだろう。

 傲慢な奴も嫌いだが、陰気な奴はもっと嫌いだ。冷えた豚肉みたいな喋り方が不快指数を上げて行く。


 侑は息を吐くと、姿勢を正した。

 懐に手を入れて、松雪に名刺を差し出す。




「貴方の作品を評価します。気が向いたら、連絡を下さい」




 松雪が受け取らないので、侑は頭の上に名刺を置いた。

 頭の上に名刺を載せた松雪は、酷く間抜けに見える。侑は踵を返して、さっさと部屋を出て行ってしまった。


 松雪は一人だけ時が止まったかのように停止している。これ以上の話は頭に入らないだろう。航は社交辞令的に会釈して、侑の後を追った。


 大学院を出た時に、侑が言った。




「俺って、怖い?」




 困り果てたみたいに、侑は眉を下げていた。

 航は首を振った。経歴は兎も角、平素の侑は草原のように穏やかだ。




「侑は見た目にインパクトがあるから、びっくりしたんだろ」

「ふーん」




 侑は納得したようでは無かったが、それ以上は何も言わなかった。


 松雪が、会話出来ない程に気の弱い男だとは思わなかった。侑で無理なら、航にだってお手上げだ。これでは買い付けどころか、自己紹介すら儘ならない。


 次の機会があれば、湊を連れて来ようと思った。

 自分よりは、弱そうだからだ。


 事務所には行かず、住居に戻った。ムラトの行動範囲と重ならないようにしているらしい。キッチンでは湊がまた飽きもせずにお好み焼きを作っている。


 リビングテーブルの上に、コピー用紙が広がっていた。航には理解出来ない数式が、余白を埋めるようにボールペンで書き殴られている。




「これ、何?」

「代数幾何学」




 振り向きもせずに、湊が言った。

 狂ってる人間は、自覚が無いらしい。数式の書かれたコピー用紙を捲ると、下から子供の落書きみたいな絵が出て来た。




「これは?」

「それは、ロゴマーク」




 お好み焼きのタネを混ぜながら、湊が言った。

 数式よりは理解出来そうだった。エンジェル・リードのロゴを考えていたらしい。デザインはダサいが、アイデアだけは豊富だった。


 湊はボウルを抱えて振り向いた。どうしたらそうなるのか、小麦粉が頬に飛び散っている。




「シンボルがあると、分かり易いだろ?」

「あるのか?」

「考えてるところ」




 航は曖昧に頷いた。

 確かに、社名よりはシンボルの方が印象に残るかも知れない。


 ボツになったロゴマークを眺めていると、付けっ放しのテレビがドキュメンタリー番組を映した。


 去年、日本の首都圏で起きたホロコースト。

 川の中洲に作られた埋立地は、防災モデルタウンとして話題になっていた。去年の夏、SLCは対岸に繋がる橋を落とし、住民を閉じ込めた。或る男が銃器を乱射して、逃げ惑う人々を虐殺した未曾有の大量虐殺事件。


 死傷者数は千人を超え、被害者達は今も事件の後遺症に苦しんでいる。世間を恐怖の渦に叩き落としたその事件は、国境を越えて許されざる犯罪として歴史に刻まれた。


 犯人は、自殺したとされている。

 情報は開示されない。

 その事件の裏で何があったのか、犯人が何者だったのか。


 だけど、航はそれを知っている。

 犯人がどんな人間で、何が起きていたのか。どれだけの人間が手を尽くし、そして救えなかったのか。


 被害者達の怒りと嘆き、遺族の悲痛な慟哭が流れる。

 犯人が憎い。許せない。人間じゃない。

 凄まじい憎悪と怨嗟は、空気さえも歪ませるようだった。


 その時、ぱっとチャンネルが変わった。

 湊は鉄のような無表情だった。クルーネックの首元で、銀色のドッグタグが光る。




「……ソースが少ないから、買って来てくれない?」




 一切を拒絶するような笑顔を貼り付けて、湊が言った。否定を許さない強い口調は、殆ど恫喝だった。航は眉を寄せた。




「お前が買って来いよ」




 喧嘩なら、買ってやる。

 湊はボウルを置くと、額を押さえた。




「分かった」




 作り掛けのお好み焼きを置いて、湊がコートを引っ掴む。逃げるみたいに部屋を出て行こうとするので、航は咄嗟に胸倉を掴んだ。




「逃げてんじゃねぇよ!」




 拳を振り上げたのは、条件反射だった。

 兄の情けなく弱った顔を見ると、殴ってでも現実に引き留めたくなる。このまま何処までも落ちて、二度と戻って来られないんじゃないかと恐ろしくなる。


 航の振り上げた拳は、乾いた掌に吸い込まれた。

 侑が、絶対零度の目で見下ろしている。




「ガキみてぇな喧嘩すんな」




 航は舌を打った。

 湊を突き飛ばして、航は玄関を飛び出した。初春の空は薄く曇り、雨が降り出しそうだった。


 未曾有の大量虐殺事件。

 兄の表情の意味を知っている。誰が殺したのか知っている。

 烏のような黒髪に、エメラルドの瞳をした青年。


 あれは、天神新。

 侑の、弟だった。

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