⑶猫と鈴
侑は用事があると言って、事務所を出て行った。
日の落ちた六時過ぎのことだった。この頃は日も伸びて、春がすぐ其処までやって来ている。航は兄をバイクの後ろに乗せて、住居に向かうことにした。
駐輪場からバイクを引っ張り出していると、隣の雑居ビルから厳つい男が出て来た。顔だけで通報されそうな悪人面のヤクザだった。夜はまだ寒いのに、首元を大きく開けて、シャツの隙間から派手な刺青が見える。
日本のヤクザ業界のことは、よく分からない。
海外のマフィアに比べて生温い奴等もいるし、悪質な犯罪組織もある。お隣さんがどんな奴等なのか知らないが、関わり合いにはなりたくない。
強面な男が湊を見て、気安く挨拶をした。
近所の子供を相手にするみたいに親しげに話し掛け、湊も友達みたいに相手していた。
「この前、ギターを貰ったんだよ」
ヤクザと別れて、湊が言った。
意味が分からないが、理解出来る日も来ないと思う。
航は適当に相槌を打って、バイクのエンジンを掛けた。
街を走っている内に日が暮れて、辺りは夜の闇に包まれた。車のヘッドライトが灯火みたいに光っている。街の明かりは空に輝く星のようで、その数だけ生活があり、人が生きている。
航はそれが尊いものだと知っている。だけど、この世にはそれを壊すことしか出来ない人間もいて、今も誰かの元に不条理の雨が降り注ぐ。
湊と侑が暮らしているのは、都心の閑静な住宅街だった。鉄筋コンクリートのファミリー向けのマンションで、賃貸らしい。日本に永住する訳ではないので、買う必要は無いのだろう。
マンションの下には小さな公園があった。昼間は未就学児が遊具に群がって、母親達が世間話に忙しない。湊と侑はマンションの中で異質な存在だが、それなりに上手くやっているらしい。
家に荷物を置いて、夕飯の準備をしようと思った。
冷蔵庫を開けたら萎びた胡瓜しか無かったので、航は呆れてしまった。先週は中国にいたそうなので、仕方が無いのかも知れない。
湊を連れて近所のスーパーに行くと、タイムセールが始まって、店内は戦場のように賑わっていた。枝豆の袋詰めコーナーでは、ビニール袋を限界まで引き伸ばして、隙間無く詰めることに専念する主婦がいる。鮮魚コーナーでは店員の威勢の良い声が響き、航は鮮度の良さそうなカジキマグロの切り身を選んで籠に入れた。
「航がいると、日常に帰って来たって実感する」
生肉コーナーで挽肉を眺めながら、湊が言った。
湊は買い物がヘタクソで、値段や鮮度を気にしない。その癖、新商品を見ると試してみたくなるらしく、偶に変なものを買って来る。
二、三日分の食料を買い込んで、重くなったビニール袋を二人で分けた。時々、湊が知り合いらしい人に手を振った。自分のいない所でも、兄が人間らしい生活と関係を築いていたことに少しだけ感動した。
荷物をバイクに積んでいたら、湊が引き攣ったような声を上げた。航が声を掛ける間も無くバイクの影に隠れてしまったので、驚いた。顔を上げると、人混みの中に時代劇に登場する武士みたいな男が立っていた。
「顔を見て隠れるとは、失礼な奴だな」
腹に響くような低い声だった。
事務所のお隣さんのヤクザより数段強そうだった。カーキ色のミリタリージャケットに、色褪せたジーンズが渋い。湊が必死にバイクに隠れているので、航はその男を睨んだ。
「知り合い?」
「剣道の師範」
「お前、剣道なんてやってないだろ」
航が言うと、湊が小難しい顔をした。
何かしらの関係者なのだろうが、友好的な関係ではないらしい。強硬策を取らないと言うことは、相手は一般人なのかも知れない。
「桜丘さんって言う、親父の知り合い」
航は瞬きをした。
そういえば、此処は両親の母国だ。自分の知らない両親の知り合いもいるだろう。誰だか知らないが、目上の人間には礼儀を払う。
「はじめまして?」
「お前が、航か?」
航が肯定すると、桜丘は目を細めた。切れ長な視線は迫力があるけれど、悪い人間には見えない。剣道の師範と言っていた。何かに真剣に打ち込んで来た人間は、信頼出来ると思う。
桜丘の黒い瞳は、じっと航を見詰めていた。航がそのまま見詰め返すと、桜丘は破顔した。
「湊より、度胸がありそうだな」
「ありがとう?」
意味は分からないが、褒められたようなので一応。
湊はバイクの影に隠れている。桜丘は去り際に「またな」と言って、それ以上は近付かなかった。
「良い加減、出て来いよ」
航が言うと、湊は通りの向こうを注意深く睨んでから、そっと顔を出した。
「なんでそんなにビビってんの?」
「あいつにボコボコにされたんだ」
「良い気味だ」
航は笑った。
桜丘がいなくなったことを確認してから、湊がやっと出て来た。バイクに荷物を積み直していると、湊が兎みたいに耳を欹てた。歌が聞こえる。
自然と、顔を見合わせていた。
考えることは、同じだった。
折角積んだ荷物を下ろし、二人で声の元に向かった。荷物には米やミネラルウォーターが入っていたので重かった。
声は、駅前から聞こえた。
開発途中で投げ出したような、中途半端な駅だった。周囲には本屋や文房具屋らしき看板が出ているが、営業している様子は無い。唯一明かりが点いているのはメディカルモールくらいだった。
改札口から人の波が押し寄せる。帰宅途中のビジネスマンや学生が、暗い顔で帰路を辿る。機械の合成音声と人の雑踏が混ざり合って、不協和音みたいだった。
その中で、たった一つの声が聞こえた。
それはまるで、夜明けを告げる鐘の音のように高らかに響き渡る。透き通るような女の歌声は、何処までも何処までも木霊する。
玄人のような声量のある美しい歌声だった。
エレキギターの優しい音色が、夜の闇を掻き混ぜて行く。はっきり言って、何を言っているのか分からないが、歌声だけは素晴らしかった。
人の溢れる駅前で、彼女は何かを訴え掛けるように歌い上げる。けれど、誰も立ち止まらないし、振り返らない。誰もが自分のことに夢中で、彼女の姿なんて見えていないみたいだった。
湊が歩き出して、彼女の目の前に蹲み込んだ。
両目を爛々と輝かせて、子供みたいに聞き入っている。彼女は湊を見て少しだけ驚いたようだった。
染髪した金色の髪に、赤いメッシュが入っている。パンクな黒い服を着ているが、エレキギターはシンプルそのものだ。
スケッチブックが立てられている。
日本語の漢字だったので、航には読めなかった。曲目だけは英語なので読めた。Flash noise ――意味は分からない。
湊が聞き入っていたので、航もその隣に蹲み込んだ。
若い女性だった。十代後半か、二十代前半くらいに見える。くっきりとした二重瞼に大きな瞳が印象的で、化粧は派手だが、余り似合っていない。
彼女が歌い終えた時、湊が盛大な拍手をした。まるで、由緒正しいオーケストラの演奏を聞いたみたいだった。
「Angkor!」
湊が楽しそうに言った。
彼女は照れ臭そうに鼻を撫でた。人工的な長い睫毛が伏せられる。外した方が綺麗だろうな、と航は思った。
次の曲は、サイケデリックなロックだった。
胸を震わせるようなエイトビート。剃刀のようなギターリフ。振り絞るような力強い歌声は、真正面から風が吹き付けているような迫力がある。
湊が大騒ぎするので、それまで通り過ぎるだけだった人々が足を止める。曲が終わる頃には観客に囲まれており、奇妙な熱が広がっていた。
彼女は寒風の中で、汗を滲ませていた。
最後の一音まで歌い上げると、割れんばかりの拍手が包み込む。開かれたギターケースに小銭が入れられ、観客達が称賛しては去って行った。
湊は待てる限りの語彙で賞賛した。英語と日本語が混ざっていたので、彼女に正しく伝わったのかは分からない。だが、彼女は嬉しそうに笑っていた。
「なんて読みますか?」
スケッチブックを指差して、湊が訪ねた。
日本語は難解だ。彼女はスケッチブックの漢字を指差しながら、一音ずつ確かめるみたいに答えた。
「と、び、う、め、し、ほ」
「トビウメ? どういう意味ですか?」
「意味なんて知らないよ!」
そう言って、彼女は豪快に笑った。
売れる人とそうではない人の違いが何処にあるのか、航には分からない。飛梅の魂を揺さぶるようなロックンロールも、此処ではただのBGMだった。それは才能なのか、運なのか。
「流れ星を捕まえた気分だ」
湊が楽しそうに言った。
分かるような気がする。飛梅が笑った。弾けるように明るい笑顔だった。
「また会えますか?」
湊が期待を込めて問い掛ける。飛梅は微笑んだ。
「もちろん!」
なんだか、とても贅沢な時間を過ごしたような気がした。
湊は名残惜しそうにしていたが、これから夕飯を用意しなければいけないので、航は腕を引いた。飛梅が手を振り、湊が応える。
良い時間だった。
荷物は不思議と軽く感じられた。
11.ダイヤの原石
⑶猫と鈴
茹でたジャガイモを、ボウルの中で念入りに潰す。
日頃の鬱憤を晴らすつもりでやったら、意外と形が残っていた。自分が思うよりもストレスは溜まっていなかったらしい。
ツナの缶詰を開けて混ぜ込んでいると、寝室からギターの音がした。アコースティックギターの柔らかな音色に、兄のボーイソプラノが重なって子守唄みたいだった。
ボウルを抱えたまま寝室を覗く。湊が壁に向かって、囁くように歌を口ずさんでいた。あんまり上手くはないが、沢山練習したことは分かる。
湊の歌は不思議だ。音程も外すし、リズムも適当なのに、聞いていて邪魔にならないのだ。いつまで経っても変声期の来ない声の質のせいなのかも知れない。
「きらきら星?」
航が問い掛けると、湊が手を止めた。
振り返った顔が、母に似ていた。
「それしか弾けない」
つい笑ってしまった。
子供の御遊戯だ。どれだけ練習したのか知らないが、童謡一曲しか歌えないらしい。でも、それが湊らしかった。
「夢がある人は強いね。観客なんていなくても、ダイヤモンドみたいに輝いてる」
「そうだな」
飛梅は、楽しそうだった。
あんな風に、自分の夢に自信を持って、誰の目も気にせずに立ち向かえたら良いのにな。相対評価なんて関係無く、自分のプライドを武器に現実と闘っていけたら格好良いと思う。
その時、玄関から音がした。
侑の声が聞こえて、湊が子犬みたいに駆けて行く。放り投げられたアコースティックギターが寂しげに鳴った。
侑は、黒いジャケットを着ていた。以前まで着ていたモッズコートがニューヨークで血塗れになったので、買い換えたのだ。侑は手足が長いので、よく似合っていた。
「ただいま。……お、今日は航が夕食当番か?」
「ああ」
「献立は?」
侑のエメラルドの瞳は、航の抱えるボウルを見た。
「コロッケ」
「意外な料理を作るんだな」
侑が笑った。
献立に理由は無い。何となく、作りたくなっただけだ。
コロッケのタネは出来たので、キッチンに向かった。手鍋に油を張っている。コロッケの形を作りながら、銀色のバットで小麦粉を塗して行く。
りん、と鈴が鳴った。
振り向くと、湊の足首に鈴が付いていた。深い緑色のミサンガに金色の糸が織り込まれ、銀色に磨かれた鈴がぶら下がっている。
そんなの付けていたっけ?
航の視線に気付いた湊が、片足を上げて得意げに笑った。
澄んだ鈴の音がする。
猫の首に鈴を付けようとするネズミの話があった。
天敵の居場所を知る為に、猫に鈴を付けようとネズミ達は相談する。だが、誰もその役を買って出る者はいなかった。
イソップ寓話だったと思う。
「シャワー浴びて来る」
侑はそう言って、廊下の向こうに消えた。
湊がジャケットを預かっていた。それを抱えたまま寝室に消える。航は卵を溶きほぐしながら、嫌な既視感を覚えた。
鼻を突く鉄錆の臭い。
侑のジャケットからは、――血の臭いがした。
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