⑵幸せな夢

「何処から話せば分かり易いかな……」




 二人掛けのソファに座り、湊は頭を抱えてしまった。

 航はボストンバックを事務室に放り込み、キャスター付きの椅子を引っ張り出した。侑も翔太も意味深に沈黙し、ムラトばかりが笑っている。彼等がどういう関係で、今、どんな状況なのかさっぱり分からない。


 湊は思案するように唸ると、顔を上げた。




「そいつは、ムラト・ラフィティ。中東の石油王の長男」




 湊は、不躾にムラトを指差した。ムラトが自己紹介をしようとするのを、侑の冷たい視線が制止する。湊はソファに背中を預け、膝の上で手を組んだ。




「今、暗殺されそうになってる」

「はあ?」




 思わず声を漏らすと、侑が溜息を吐いた。

 ラフィティ家は、知っている。世界長者番付に毎年五位以内に入るような大富豪だ。そういえば以前、エンジェル・リードが中東の大富豪の日本観光の案内をすると言っていた。まさか、ラフィティ家だったとは思わなかった。


 湊は頭痛を堪えるみたいに両眼をぎゅっと閉じた。黙っていると、柴犬に似ている。




「もう、何から話せば良いのか分からないな……」




 どうしたら誤解無く伝わるの?

 助けを求めるみたいに、湊が問い掛ける。そんなことは航にも分からない。見兼ねた侑が代わって説明した。




「こいつはクーデターを企てたテロリストだ。実行には至っていないが、集めた資金が武装組織に流れてる」

「俺が望んだことじゃないぜ!」




 ムラトが焦ったみたいに言った。

 色々と突っ込みたいことはあるが、取り敢えず話を聞く必要がある。航は椅子の背凭れを抱えて、話の先を促した。

 侑は鉄面皮を崩さず、今にも武器を取り出しそうな敵意を漂わせている。




「パスファインダーって呼ばれる武器商人が仲介して、中東の過激派組織の資金にされたんだ。……中国マフィアがこの国に武器密輸していたことは知ってるか?」

「知ってる」




 航は肯定した。

 一年前、中国の青龍会が治安悪化と利益誘導を目論んで、武器密売を目論んだ。公安と銃撃戦になったこともあったらしい。だが、侑の話では、かなり最近のことらしかった。




「エンジェル・リードは、青龍会と取引をしていたんだ。武器商人を引き渡す代わりに、武器密輸を止める。それで、先週、俺達は約束を果たした」

「先週?」

「先週まで、中国にいたんだよ」




 湊が補足したが、あんまり必要な情報では無かった。




「武器商人が消えたことで、過激派組織は資金繰りに困った。戦争はお金が掛かるからね。資金を得る為に、過激派組織は、ラフィティ家長男のムラトに目を付けた」

「頭がパンクしそうなんだけど」

「お前のCPUは優秀だから、大丈夫」

「理解したくないって言ってんだよ」




 航が言うと、湊が笑った。




「後継者争いの一端で、ムラトに死んで欲しいと願う人は多い。誘拐よりは暗殺の方が楽だしね。その依頼が、過激派組織――赤い牙に出されたんだ」

「赤い牙?!」




 流石に名前くらいは知っている。


 過激派武装組織、民族解放戦線、赤い牙。

 中東で活動する過激派国際テロ組織である。宗教上の対立を主な理由として欧米各国にテロ行為を仕掛け、つい最近も自爆テロを引き起こした時代遅れな連中だ。


 湊は冷ややかにムラトを見詰めていた。




「ムラトを暗殺する為に、中東の暗殺者がこの国に流れて来ている。海外移民のフリをしてね」

「それ、確かなのか?」

「侑は公安にパイプがある。外務省から流れて来た、確かな情報だ」




 どうして侑にそんなパイプがあるのか知らないが、此処にいるのは全員一般人ではないらしい。

 今すぐニューヨークに帰りたいが、この国の状況を考えると、空路も危険が伴う。日本に来るなと警告した兄の気持ちがよく分かった。


 湊は忌々しそうに、ムラトを親指で指し示した。




「こいつが暗殺されると、赤い牙に資金が流れてしまう」




 ついに、こいつ呼ばわりしたことは置いておく。暗殺されそうになっているムラトを助けてやりたい気持ちも理解出来る。ただ、相手が悪過ぎる。


 相手は、年がら年中、戦争しているような過激派だ。如何に湊が策略を巡らせ、侑が高い戦闘能力を持っていたとしても、都市を吹き飛ばすような爆弾の前では何も出来ないのだ。




「赤い牙が手を下す前に、俺達が始末してやった方が平和だな」




 当然のことみたいに、侑が言った。

 それまで沈黙を貫いていた美女が、憎悪を滲ませて侑を睨んだ。




「お前達の振り払った火の粉が、私達に降り注いだということを忘れるな」

「他人のせいにすんなよ、マゾ女。元はお前の御主人様が撒いた種だろうが」




 侑が冷たく吐き捨てる。

 こんな侑を見るのは初めてだった。


 翔太が深く溜息を吐いた。




「俺達は、この国を戦場にはしたくない。だから、誰を始末するべきなのか見定めなきゃならない」




 室内に漂う緊張感の理由は、よく分かった。

 彼等にはそれぞれの目的や事情があり、何を選ぶべきか見極めようとしているのだ。打算と保身、策略と陰謀。ぐちゃくちゃに混ざり合ったその中で、航だけが宙に浮いている。


 湊は切り替えるように手を打った。乾いた音が響き渡り、室内の視線が集まる。湊は苦笑した。




「今すぐ結論は出せない。急いては事を仕損じると言うしね」

「善は急げとも言うぜ!」

「急がば回れ、さ」




 ムラトの反論を、湊が流す。

 あまり、友好的な関係ではないらしい。

 友達と呼ぶには余所余所しく、取引先と言うには近しい奇妙な距離感だった。




「さあ、帰れ」




 放逐するように、湊が手を振った。

 あんまり酷い物言いなので、航も苦言を呈した。




「そんな言い方は無いだろ」

「ストレートに言わないと伝わらないんだ」




 湊は気を悪くしたみたいに顔を顰めた。

 ムラトは鷹揚に笑っていた。とても暗殺され掛けているとは思えない。ムラトが立ち上がると、黒髪の美女が足音も無く付いて行く。




「じゃあ、またな」




 ムラトは親しげに言って、事務所を出て行った。侑がすぐに窓を開けて、界隈の様子を窺った。要人が出入りしていると分かったら、この場所も危ないのだろう。


 一週間の春休みが、とんでもないことになってしまった。

 航は溜息を呑み込み、誤魔化すように椅子を回した。












 11.ダイヤの原石

 ⑵幸せな夢











 翔太が帰った後、事務所内を見渡して、鉢植えが一つ無くなっていることに気付いた。確か、白いシクラメンだった。置いていた場所を眺めていると、板張りの床に傷があった。




「落として割っちゃったんだ」




 ごめんね、と湊が申し訳無さそうに言った。

 そんなことで怒るつもりは無い。誰にだってミスはある。水遣りを忘れて枯らしたと言われるよりは、マシだった。


 室内の観葉植物は、航が日本にいた時に仕入れた。どれもが丁寧に世話をされていて、健康な状態で育っている。ゴムの木の枝葉は少し多過ぎるが、きちんと手入れをしていたことは分かる。




「怪我しなかったか?」




 純粋な気持ちで問い掛けたのに、湊がびっくりしたみたいに目を瞬いた。失礼な反応だ。俺が心配するのはおかしいみたいじゃないか。




「俺は平気だよ。……航も丸くなったねぇ」




 感心したみたいに湊が言った。

 どうして、いつも一言多いのか。


 航が脛を蹴ってやると、湊がタップダンスみたいに避けた。避け方が気に食わなかったので後頭部を叩いたら、何故か侑が焦ったみたいに顔を蒼くした。




「頭は止めろ」

「なんで」

「これ以上いかれたら困る」




 それは確かにそうだけど。

 湊は後頭部を摩った。




「俺は航の尖ってるところも嫌いじゃないよ」




 そんなことを言って、湊は給湯室に消えた。

 侑は安堵したように胸を撫で下ろし、ソファに座った。




「春休みは二週間だったか?」

「ああ。でも、課題があるから一週間くらいで帰るよ」

「帰る時はジェット機をチャーターしてやるよ。その方が安全だろ?」




 何処まで冗談なのか分からない。

 給湯室から戻って来た湊は、マグカップを持っていた。芳ばしいコーヒーの匂いが広がり、安心感が染み出す。航が受け取ると、湊は微笑んだ。


 コーヒーに息を吐き掛けつつ、航は問い掛けた。




「エンジェル・リードの活動はどうなってんの? 何でも屋に転職したの?」

「業績はずっと赤字だよ」




 湊が平然と言った。

 芸術家に投資なんて、向いていなかったのだ。大人しく自分に合ったことをやっていれば、こんなややこしいことにはなっていなかった。


 湊がノートパソコンを引っ張り出して、エンジェル・リードの業績の変動を表にして見せてくれた。収益はあるが、雀の涙だ。企業を名乗るのがおこがましいくらいだった。


 侑が遠い目をして、嘆くみたいに溢した。




「あの水墨画を売っていればなぁ……」




 何のことかと訊いてみたら、湊が友達にプレゼントした水墨画が、数億円の値打ちがあったという馬鹿なエピソードだった。描かれていたドラゴンが友達に似ていたという理由だけで購入したらしい。見る目があるんだか無いんだか分からない。


 航はマグカップを両手で包み込みながら、問い掛けた。




「あのムラトって奴とは、どういう関係?」

「取引先だよ。俺は友達のつもりだったんだけどね」




 あまり、掘り下げて欲しく無さそうだった。

 湊自身、説明するのが難しいらしい。




「そんなことより、ニューヨークの話を聞かせてくれよ。航の友達とか、大学のこととか」




 わざとらしく話題を変えて、湊は笑顔を浮かべた。

 明るい話を聞きたいんだろう。この陰鬱で物騒な空気を吹き飛ばせるような笑い話を。


 生憎、航にその技術は無い。

 何か笑える話はあっただろうか。航が腕を組んで唸っていると、侑が言った。




「バイトはどうなった?」

「ああ、レストランだっけ?」

「トラットリアだよ。航はキッチンとフロアを行き来してたぞ」

「航は器用だからねぇ」




 二人はそんなことを言って、此方を見た。

 湊がニューヨークにいた頃は、航もアルバイトをしていなかった。湊は夢を見るみたいにうっとりと言った。




「航の料理は美味いから、お客さんは幸せだね」

「店を出せると思うぜ」

「それは良いね。俺なら通うよ」




 自分が切り出さなくても、二人は勝手に話していた。一見すると生まれも育ちも違う二人だが、性格や価値観は近いものを持っている。航には、不思議な感覚だった。


 彼等は社会の裏側で生きている。だけど、考え方が逸脱している訳ではない。環境さえ許すのであれば、彼等だって日の当たる場所で平和に生きられた。




「夢って、あるか?」




 不意に、そんな言葉が零れ落ちた。

 湊は目を丸めて、蕩けるような笑顔を見せた。




「あるよ」

「どんな夢?」




 航が問い掛けると、湊は内緒話を打ち明けるみたいに答えた。




「大切な人が笑っていて、幸せな明日を考えながらベッドで眠り、期待通りの朝が来る。そんな日常がずっと続いて行くこと」




 胸が軋むように痛かった。

 悲しい程、細やかな夢だった。


 航は更に問い掛けた。




「お前はその夢の中で何してんの?」

「俺はね、世界中の綺麗なものを探すんだ。金銀財宝でも、芸術作品でも、美しい景色でも良い。そういうものを探して、時々、家に帰る。最高の人生じゃない?」




 暖炉の側にいるみたいに、空気が暖かくなるのが分かる。

 良い夢だと、本心から思った。誰も不幸にしない優しい夢だ。叶っていい筈だと、強く思う。


 計画性があるのかは分からないが、目標があるのは良いことだ。侑はとても優しい目をして、御伽話を聞くみたいに耳を傾けている。




「探すだけで良いのか?」




 侑が訊くと、湊は笑った。




「良いのさ。何でも持ち帰ろうとしたら、荷物が重くなるからね。思い出が一番の財産さ」




 こういうことを平然と言えるのは、すごいと思う。

 俺達の見る夢は、いつも現実に即している。だけど、夢はもっと自由で、幸せであるべきだ。夢を語る兄の目は満天の星みたいに輝いている。


 そういう夢を見られる人間が、日の当たる道を歩けず、貧乏籤ばかり引かなきゃならない現実が、航には悔しかった。

 湊はソファから身を乗り出して、歌うように訊ねた。




「航の夢は?」




 俺は、何だろう。

 俺の夢は。




「お前から送られて来る生活費を、そっくりそのまま返してやることかな」

「じゃあ、競争だね」




 湊がそう言って、眩しそうに目を細めた。

 半分くらい冗談で言ったのに、笑われなかったのは良かったのだろうか。


 侑は静かだった。

 それはまるで、嵐の前の静けさに似ていた。

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