⑺想い

「法には限界がある」




 地下道を並んで歩いている時、湊が言った。

 複雑に入り組んだ下水道は湿気と腐臭に包まれ、僅かな天井灯が照らす以外の光源は無く薄暗かった。側には濁った生活排水が川のように流れている。


 道は狭く滑っている。一歩足を踏み外せば汚水に呑み込まれ、海の向こうまで流されてしまいそうだった。噎せ返るような臭気の中、先頭の湊は地図も見ずに歩いて行く。




「どれだけ残酷な事件を起こしても、どれだけ人を殺しても、自分が死ぬのは一度きりだ。それは所業に釣り合った対価なの?」

「知るかよ、そんなの」




 立花は吐き捨てた。

 少しずつ平衡感覚が戻って来て、自分達が地上に導かれていることが分かる。下水の流れを見る限り、海の方へ向かっているようだった。




「蓮治が司法に裁かれる日が来たら、間違いなく死刑だね」

「そんな日は永遠に来ねぇよ」




 立花が言うと、湊が笑った。

 笑い声が地下道に反響する。嗅覚も正常値に近付き、腐臭の中に海の生臭さが感じられた。混凝土の壁に打たれた金具が赤く錆びて、地上から吹き付ける風に揺られて軋んだ音を立てる。




「君達は、私とは違う世界を生きているねぇ」




 興味深いよ。

 立花の後ろで、吾妻が言った。


 科学者は嫌いだ。自分を観察していた大人達の白い目を思い出す。そいつ等は科学の発展とか真理の探究とか、意味不明な大義名分を掲げて他人を食い物にする。




「良心の呵責や罪悪感なんて言葉は、ナンセンスだろうね。エンジェル・リードはそれなりに共感出来るけど、君は全く分からない。理解する余地を与えない。まるで、自然現象のようだ」




 馬鹿にされているのでは?

 俄かに思ったが、立花は目を逸らして堪えた。


 道が細いので、翔太は殿を歩かせている。その前はムラトと言うよく分からない異国の青年である。冷静になるとどういう状況なのか疑問に思うが、面倒なので流した。


 何処かで水滴の落ちる音がする。

 地下を歩いているせいで時間経過が曖昧だった。湊は振り返りもせずに歩いて行く。不親切な案内人である。




「つーか、何処に向かってんだ? 船にでも乗るのか?」

「蓮治の車だけど?」

「はぁ〜?」




 愛車は製薬工場の近くに停めていたのだ。

 どうしてこんな下水道を延々と歩く必要があるのか。




「路上駐車してたから、鍵は壊した。助っ人に侑をピックアップしてもらって、海岸沿いに移動してもらった」

「何してくれてんだ!」

「その言葉、そっくりお返しするよ」




 湊がせせら笑った。

 昔はこんなに性格が悪くなかったのに、どうしてこんな風になってしまったのだろう。いや、こいつ実はかなり怒ってる。しかも、根に持っているらしい。


 また背中を蹴り飛ばしてやろうかと思ったが、現状は分が悪いので舌打ちに留めた。




「誰が運転するんだ?」

「俺が運転しても良いけど、メーター振り切っちゃうかもね」

「……もう良い」




 病み上がりの人間に酷い仕打ちだ。




「こんな大人数は乗れねぇぞ」

「翔太とムラトは置いて行く」

「ええ?!」




 翔太とムラトが声を上げた。

 抗議を丸切り無視して、湊が言った。




「君達は公共機関を使えば良いさ。日本経済に貢献しなよ」

「じゃあ、アーティラに頼まないとな!」




 ムラトが言った。また、新しい名前だ。

 追及するのも怠い。

 その時、湊が言った。




「ほら、そろそろ到着だよ」




 そう言って指し示したのは、壁に打ち立てられた金属の足場だった。赤く錆び付いていて、数十年は使われていないのではないかと思う程に老朽化している。


 湊が猿のようにすいすいと登って行くのを、立花はぼんやり眺めた。マンホールの蓋は開いているらしい。この国の危機管理能力が疑問視されるが、この際、何でも良かった。


 マンホールから出た湊が、頭の上で手を振った。上から赤い光が差し込んでいて、夕焼けのようだった。

 足場は体重を乗せるとぎしぎしと音を立てた。立花は素早く登り、顔を出す。そして、燃え盛る紅蓮の炎に驚いた。


 エトワスノイエス製薬工場が猛火に包まれているのが見えた。空は既に暗く、夜になっている。しかし、大規模な火災によって辺り一帯は夕焼けのように紅く染まり、サイレンが鳴り響いていた。


 立花の後を追って来た吾妻が、ムラトが、翔太が愕然と息を呑む。この世の終わりを思わせる凄まじい大火災は離れていてもなお、その炎の激しさを物語るように轟々と燃え盛る。


 自分達が侵入し、脱出した後もずっと燃え続けているのだ。

 建物の周囲には毒性のある植物が植えられ、煙にも毒が含まれる。加えて製薬工場という性質上、消火作業は難航を極めた。誰も近付けない毒の煙が空へと立ち昇る。


 酷いな。

 ぽつりと、翔太が言った。

 全員が逃げられたのだろうか。誰か巻き込まれて死んだだろうか。消防士は無事か。何故だか、自分が気にしても仕方の無いことが気に掛かった。




「翔太に感謝すると良いよ」




 湊が言った。その手には携帯電話があって、誰かと連絡を取っているようだった。




「倒れていた蓮治を助けてくれたのは、翔太なんだから」




 後ろを振り返ると、翔太が口を開けて呆けていた。

 突入した時にはそれ程燃えていなかったのかも知れないし、安全経路を使ったのかも知れない。けれど、翔太は炎と毒の煙に包まれた建物の中に突っ込んで来た。それを勇敢と言うのか、蛮勇と呼ぶのかは分からない。


 その時、海岸沿いの車道から愛車が走って来た。運転席には、天神侑を助けに来た異国の女が座っている。


 アーティラ、とムラトが言った。

 なるほど、こいつが。


 素人では無かった。一般人とも違う。あれは工作員のように訓練された玄人の動きだった。女は湊の横に愛車を停めると、まるで自分の物みたいに窓を開けた。途端、眉を顰めたくなる程の濃厚な血の臭いがした。


 後部座席のシートが血塗れだった。

 天神侑は死体のようにぐったりと横になり、目も開けない。止血処理はされているが、傍目には生死も分からない。湊は後部座席の扉を開けて、縋るように天神侑の手首を取った。


 脈拍を取っているのだろう。閉じた瞼の先で、長い睫毛が微かに震えていた。彼の周囲だけが切り取られたかのように静かだった。


 いつかの光景を見ているみたいだった。

 天神侑の実弟、天神新が死んだあの日。湊はボロ雑巾みたいな天神新の死体に縋り付いて泣いていた。湊が泣く姿を見たのは、あれが初めてだった。


 どんな気持ちだっただろうと、立花は初めて思った。

 湊や天神侑ではない。天神新だ。脳を破壊され、己の体も満足に動かせず、目の前で泣いて縋る彼等を前に、どんな気持ちで死んだのだろう。


 天神侑の激昂と怒号、湊の嗚咽と涙。逝かないでくれと懇願する彼等を前に、置いて逝かなければならないと分かった時。天神新は、何を。




「侑……」




 絞り出すような掠れた声で、湊が呟いた。

 生きているらしい。しぶとさはゴキブリ並である。

 湊は大きく息を吐き出して、その場に蹲み込んだ。


 蓮治、と。

 固い声で湊が言った。




「侑は生きてる。でも、そうじゃなかったら、俺はどんな手段を使っても報復を果たしたよ」

「復讐なんざ不毛だよ」

「でも、そうしなきゃ前に進めない人もいる。それを一概に不毛だから止めろと断ずるのは、本当に正しいことなの?」

「お前が自分で言ってんだろ。埋葬も復讐も、生きてる人間のエゴだってよ」

「そうだよ。俺はエゴの為に生きてる。……侑がよく言ってる。命の責任は命でしか償えない。それが、人間なんだと思う」

「知ったような口を」




 立花は笑った。

 けれど、その気持ちも、立花には分かる。

 他人の復讐ならば自分は請け負わない。だが、それが自分自身の復讐ならば、如何だっただろう?




「侑が生きていて、良かった……」




 絞り出すように、湊が言った。

 それはどんな祈りよりも厳かに尊く、そして、美しく見えた。













 6.毒と薬

 ⑺想い












 エンジェル・リードの事務所内は、至る所に観葉植物が置かれ、まるで森の中にいるかのようだった。


 足元の植木鉢には紫色のラベンダーが花を咲かせ、鮮やかな油絵が飾られている。装飾的な室内は生活感が無く、実際の間取りよりも広く感じられた。


 天神侑は喫煙家の筈だが、事務所内の灰皿は使われた形跡が無かった。

 応接室のソファに血塗れの身体を投げ飛ばすと、湊が悲鳴のような声を上げて抗議する。立花はそれを無視して、一人掛けのソファに腰を下ろした。


 死体のように四肢を投げ出していた天神侑が、呻くように唸った。失血死してもおかしくなかったが、応急処置が良かったらしい。




「此処、何処だ……?」




 ソファの背凭れに腰を下ろし、湊が答えた。




「事務所に戻って来た」

「吾妻さんとハヤブサは?」

「二人共も、此処にいる」




 天神侑は怠そうに目を開けた。エメラルドの瞳が茫洋と天井を眺め、ゆっくりと此方を見た。立花と目が合った時、静電気のような殺気が迸ったが、天神侑は深く息を吐き出した。


 水が飲みたい、と天神侑が言った。

 湊が無言でペットボトルを差し出すと、天神侑は油の切れた機械みたいに体を起こした。

 天神侑は、喉を鳴らしながらペットボトルの水を半分程一気に飲み干した。隆起した喉に血が飛び散っている。




「お前は、無事?」




 掠れた声で、天神侑が訊ねた。

 エメラルドの瞳は湊を見ている。




「俺はピンピンしてるよ。重傷なのは、侑だけだ」

「へぇ。じゃあ……、まだマシか。つーか、なんでハヤブサが此処にいんの?」

「敵が一致したからだよ。でも、何を選ぶかは侑が決めて良い。報復が必要なら、手を貸す」




 手負いの獣とクソガキに負けるとは毛頭思わない。ただ、天神侑がこの状況で、何を選ぶのか興味はあった。


 天神侑は湊を一瞥し、肩を落とした。血塗れの手で湊の頭を撫でると、口元に微かな笑みを浮かべた。




「心配すんな」




 それは、元殺し屋とは思えない程、柔らかな声だった。

 戦闘時は鬼や羅刹のような化物だが、この男の本質は此方なのかも知れない。何となく、そんなことを思った。


 湊の表情に安堵が過ぎったのが見えた。天神侑は目を眇めると、湊と吾妻を奥の事務室に放逐した。湊が素直に従ったのが意外だった。




「随分と手懐けられたな」




 立花が言うと、天神侑が笑った。




「前にも言っただろ? 紐で繋いでるだけじゃ人間は育たねぇんだよ」




 天神侑はソファに座り直すと、血に汚れた金髪を掻き混ぜて深く溜息を吐いた。




「許す許さねぇの話じゃねぇよな。同じ業界で仕事してりゃ、こういうこともあるだろう。謝罪なんざいらねぇし、俺には報復する理由がある」

「ほお」

「だが、取り敢えず、今は目を瞑る」

「へえ」




 煙草が吸いてぇな、と思った。


 互いに、此処で殺し合うメリットが無かった。

 この場所で銃撃戦になれば、真っ先に死ぬのは湊と吾妻光莉である。自分の矜恃と天秤に掛けて、天神侑は前者を選んだ。ただ、それだけのこと。




「水に流した訳じゃねぇよ。腹は立ってるが、今することはそれじゃねぇ」




 天神侑は血の気の無い白い顔をしていた。けれど、エメラルドの瞳だけは確かな生命力を持ち、燦然と輝いている。


 感情に流されるだけの男ではなかったらしい。

 不思議だった。元国家公認の殺し屋で、元復讐者で、守るべきものを失くした狂犬が、誰かの為に怒りを抑えることが出来る。


 立花が煙草を探していると、天神侑が思い出したみたいに言った。




「テメェに言い返してやろうと思ってたんだ」




 天神侑は事務室の扉を見遣った。

 扉は開く気配は無く、声も聞こえない。もしかすると、あの部屋だけ防音設備でもあるのかも知れない。




「テメェは復讐を請け負わない殺し屋で、裏社会の抑止力だ。……そっちから見たら、俺達がやってることはくだらなくて、不毛で、救えねぇ代替行為かも知れねぇ。だけどな」




 エメラルドの瞳に、透明な火が灯る。

 身を乗り出した天神侑が、不敵に笑った。




は、繋がって行くんだぜ。その価値が分からねぇなら、生きていく意味は無ぇよ」




 詭弁、綺麗事。

 そう笑ってやっても良かった。

 けれど、貫こうとする意志に貴賤も優劣も有りはしない。


 立花は、ハヤブサと呼ばれる殺し屋の三代目である。

 受け継がれる意志がどれだけ重く、尊いものであるのかは知っている。何度打ち倒され、絶望を味わい、苦しみが続くと分かっていても、彼等は何度でも立ち上がるだろう。


 エンジェル・リードの二人は奇妙な関係である。

 計画犯と実行犯、犬と飼い主、依存と執着、断罪と贖罪。

 彼等の間に横たわるのは、天神新という死人である。


 立花には其処に価値を見出せないが、どうやら、というものは肉体が死に絶えても残るらしい。それが呪いなのか祈りなのか、神を持たない立花には分からない。


 否定することは、容易い。疑うことも簡単だ。

 だからこそ、見てみたいと思う。彼の語る想いが、何を成し遂げるのか。




「じゃあ、お手並拝見といこうか」




 今頃、奥の事務室で悪巧みをしているクソガキを思い浮かべて、立花は喉の奥で笑った。

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