⑹災い転じて
「湊を怒らせるのも立花しかいないけど、立花と怒鳴り合えるのも湊しかいねぇんだよな」
感心したみたいに翔太が言った。
立花はもう何も言い返す気力が無かった。頭が割れそうに痛くて、激しい運動直後みたいに息切れしている。目眩と吐気は収まって来たが、体調万全とはとても言えない状態だった。
俺達は何を言い争っていたんだ?
頭に上った血が下がって来て、自分が情けなくなった。こんな惨めな気分は久しぶりだ。依頼も遂行出来ず、毒で弱って、クソガキと怒鳴り合って。
立花の世界は、とても僅かなもので構成されている。
仕事と私生活にカテゴライズすると、後者に残るものは殆ど無い。だけど、その中には絶対に譲れない矜恃であるとか、意地であるとか、自分のルールが入っている。
そして、その大切なものの中には、きっと湊や翔太が含まれている。他人は面倒だ。思い通りにならないし、言うことを聞かないし、勝手なことばかり言う。だけど、その面倒さを引っ括めて、彼等を線の内側に入れてしまったことが、立花にとって最大の敗因だった。
湊は少し冷静さを取り戻したように見えたが、眦が釣り上がっていた。俺はまだ怒ってるぞ、と言っているみたいで、可笑しかった。
「何笑ってんだよ、蓮治」
「お前が馬鹿だからだろ」
「お互い様だろ」
立花は鼻を鳴らした。
本当は、お前に言われたくないとか、そういう可愛げの無いことを言おうとしたんだろう。だけど、こいつは時々日本語の言葉選びを間違えるから、間抜けに見える。
そんな些細な言い間違いや、思考を想像出来るくらい、自分達は衝突して、怒鳴り合って、此処まで生きて来た。
サレンダーが出来ないのは、損失だ。だけど、この生温い関係が損失とは思えなかった。
湊は気を落ち着けるみたいに深呼吸してから、固い表情で言った。
「エトワスノイエスの研究所に火を点けたのは、俺じゃない。そいつは建物に火を点けて、混乱に乗じて
「……それが一体何なんだ?」
そんなことは、今更どうでも良いことだった。
自分もエンジェル・リードを利用した。それなら、自分が利用されることもあるだろう。この世界は騙すよりも騙された方が悪い。
「蓮治の事務所の依頼受注システムをハッキングして、メールの遣り取りを見せてもらった。……大手製薬会社からの暗殺依頼だったね? 吾妻さんが不治の病と呼ばれる先天性疾患の特効薬を作っているって」
機械の類は不得手だった。それは、事務員だった湊がそれを一手に引き受けていたからだ。依頼受注のシステムを作ったのも湊である。
契約の場には同席し、依頼人が嘘を吐けばそれを見抜く。湊は、立花の苦手な分野を補佐して来た右腕のような存在だった。
「向こうが欲しがっていたのは、
湊は怒りを堪えるみたいに拳を握っていた。
「翔太! 遣り取りをしていた相手の名前は?!」
湊が呼び付けると、翔太が背筋を伸ばした。
「あー……、取締役とか、相談役とか言ってたな。メールの遣り取りだけで会ったことは無いんだけど、名前は確か、蛍って」
「そいつはパスファインダーと呼ばれる武器商人で、俺達の敵だ」
その時、側にいた異国の男が目を丸めた。
パスファインダー? 武器商人?
何のことか分からない。
湊は銃口を無視して言った。
「此処で殺し合う意味はあるか、蓮治。サレンダー出来ないのは損失なんだろ。収めるべき鞘が無いのもまた、損失だ」
湊が突き付けるように言った。
嘘偽りの無い、毅然とした態度だった。けれど、立花にはその真偽を確かめる術は無い。その時、黙り込んでいた翔太が言った。
「俺達の負けだよ、立花。こいつの話には耳を貸す理由がある」
立花は溜息を吐いた。
どちらにせよ、これ以上、戦う気力は無かった。
「……全部、話せ。お前の敵が何なのか、この国で何が起きてるのか」
湊は静かに頷いた。
その目は鋭利な光を宿し、今も立花を射抜かんと輝いている。
「分かった。情報を共有しよう。……でも、蓮治も落とし前を付けろ」
冷気にも似た怒気が吹き抜けて、翔太が身震いする。
凄まじい威圧感と存在感に目が眩む。湊は子犬のような目を釣り上げた。
「侑は、重傷だぞ。だけど、生きてるから判断は侑に任せる」
死んでいなかったことに、少し驚いた。
あの異国の女も、この状況も、湊の一手だったのだろう。
それにしても、こいつも天神侑も、甘過ぎる。
裏社会でエンジェル・リードの噂は耳にするが、冷酷非道の詐欺師とさえ言われていた。全てが真実ではないにしろ、噂と言うのは大抵当てにならないものだ。
「落とし前の付け方は、侑が決める。俺は口を出さない」
立花は苦く笑った。
圧倒的優勢が、いつの間にか引っ繰り返されている。
今更になって、今の湊と将棋をしなかったことが悔やまれた。こいつはどんな局を展開して、俺はどんな罠を仕掛けて、そして、どちらが勝ったのだろう?
6.毒と薬
⑹災い転じて
「吾妻さん」
薄暗い地下道の中で、湊が吾妻に向き直った。
僅かばかりのランタンに照らされ、辺りは海食洞のような雰囲気を保っている。轟々と流れ行く排水と、其処此処で水滴が落ちる音が響く。
「この度は、本当に申し訳ありませんでした」
湊が深く頭を下げる。
まるで、首を差し出しているみたいだった。
湊の両拳は濡れた混凝土の床に押し付けられ、微かに血管が浮かんでいた。
「俺達は、貴方の努力や信頼を踏み躙る真似をしました。二度とこのようなことが無いように、情報管理をより徹底します。本当に、申し訳ありませんでした……」
辺りは居心地の悪い緊張感に包まれていた。
湊は納得しなければ死んでも謝らない男である。そんな男が地に伏して頭を下げているという状況そのものが、吾妻という研究者の価値を示しているようだった。
「顔を上げてくれ、エンジェル・リード」
困ったみたいに吾妻が言った。湊が窺うように見上げると、吾妻は苦く笑っていた。
「君は大人みたいな話し方をするんだね。私にはそれが良いことなのか如何か分からないけど」
吾妻は朗らかに笑っていた。
こんな女だったんだな、と思った。
守られるだけの弱い女と思っていたが、こんな状況で笑う余裕すらある。ゴールの見えない研究をたった一人で続けて、給料だって決して高額ではない。
この世には救いようの無いゴミみたいな人間が沢山いる。そいつ等は平気な顔をして他人の大事なものを搾取して、今も呑気に笑ってる。だけど、この吾妻光莉はきっと、そうじゃない。何となく、立花にもそれは分かった。
「エンジェル・リードは、ちゃんと私のことを守ってくれただろ? 誰も死んでない。それで良いじゃないか」
吾妻はまるで、竹を割ったように真っ直ぐな女だった。
湊が床に正座をして、苦く顔を歪めている。吾妻はくるりと翔太に向き直ると、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「君の思いは、真摯に受け止めるよ。科学者は、成果に囚われて倫理を忘れてしまうことがあるからね」
「吾妻さんはそんな人じゃない」
「お前のことだろ」
湊の否定を指摘してやると、濃褐色の目が睨んで来た。毛程も怖くない。
「人間性を失くしたら、そいつは科学への冒涜だ。君の言葉を胸に刻み付けて、私はこれからも研究に励むよ」
吾妻は立ち上がると、白衣の裾を払った。
伸ばし放題の黒髪は、櫛すら通していないみたいにボサボサだった。化粧気も無い。己の時間全てを科学に費やして来たのだろう。
「まだ地上には出ない方が良い」
湊が言った。
どうやら此処は下水道で、研究所の真下にあるらしかった。万一の事態に備えて避難経路として確保していたらしい。吾妻は、危険を承知で、金にもならない研究に明け暮れていたのだろう。
「パスファインダーが近くにいるかも知れない」
「何なんだ、そのパスファインダーってのは」
立花が訊ねると、湊が苦い顔で答えた。
「武器商人だよ。最近、この国に銃器が沢山出回っているだろ? 神出鬼没で、目的も正体もよく分からないけど、フィクサーに繋がってる厄介な奴だ」
フィクサー。世界を牛耳る影の重鎮。
戦争をしたい奴等と、それを止めたい奴等で過激な派閥争いが起きていると聞いたことがある。湊の祖父は世界的な臨床心理学会の権威で、フィクサーの一角だった。しかも、戦争反対派の人間である。
「蛍は、そいつの偽名の一つだ」
「どうしてそいつを追っている?」
「それは、この場では言えない」
この場では、か。
立花は湊の言葉を胸の内で復唱した。
下水道内には、立花、湊、翔太、吾妻、それから謎の異国の青年がいる。世間知らずで御人好しそうな、立花の嫌いな富裕層の人間だった。
「こいつは何だ?」
異国の青年を指差し訊ねると、湊が答えた。
「俺の取引先」
「ムラトだ! 宜しくな!」
ムラトと名乗った青年が、無邪気な笑顔で手を差し出す。立花はそれを無視して、湊を見遣った。
エンジェル・リードは芸術家に資金投資している。しかし、ムラトと言う青年は芸術家には見えないし、金に困っている様子も無い。恐らく、コネクションを築く為の護衛対象。見た目以上の大物の可能性があるが――……と考えて、立花は思考を止めた。
どうでも良い。
そもそも、自分が受けた依頼は吾妻光莉の暗殺だった。依頼人の嘘が発覚した時点で契約は終了している。
では、次は何をするべきか。
簡単なことだ。自分の仕事に泥を塗って、横槍を入れて来た無礼者を始末する。そして、それがパスファインダーと呼ばれる武器商人。
「その武器商人の情報を寄越せ」
懐を探ると、くしゃくしゃの煙草が出て来た。
ライターが見当たらない。スーツのジャケットを探していたら、吾妻が火を差し出して来た。
薄闇の中にオレンジ色の灯火が光る。
立花は煙草を咥えて静かに煙を吸い込んだ。ニコチンよりも先に、煙草が吸えたという充足感が身体に染み渡る。
「お前の飼い犬の代わりに、手を貸してやるよ」
煙を吐き出すと、湊が掌で煽いだ。
空気は臭くて湿気っぽいし、身体は怠いがさっきよりはマシだ。早く帰ってシャワーを浴びたい。
「手を貸す? 手伝わせて下さいの間違いじゃないの?」
「本当に可愛くないクソガキだな」
腹が立ったので頭を叩いてやったら、湊は避けなかった。
ニコチンが血液を巡り、思考が落ち着いて行く。立花は細く煙を吐き出した。
「お前がただで餌をやるか? そのデータにも何か仕込んでんだろ」
湊が悪魔みたいな顔で笑った。
「研究所以外の場所で接続したら、データそのものを破壊して居場所を通知するようにワームを仕込んでる」
こうなることが初めから分かっていたみたいだった。
むしろ、その研究データを餌にパスファインダーを釣ろうとしていたのではないかと思うくらいの周到さである。
そのワームも、研究を吾妻一人で行っていた理由の一つなのだろう。研究所内にワームが流出したら、目も当てられない大惨事である。
翔太が目を瞬いていた。
「ワームってコンピュータウイルスだよな? そういうのって或る程度、発見されて取り除かれちゃうんじゃねぇの?」
「既存のウイルスはね。でも、彼処に仕込んだのは、欧州のクラッカーと、アメリカの刑務所にいる俺の友達が協力して作った新しいプログラムだ」
湊が得意げに言った。
かなり不穏な存在が示唆されているが、それはこの際置いておく。
「このプログラムは遺伝的アルゴリズムを搭載し、驚異的な速度で自己増殖と成長を続ける。ウィザード級のハッカーが国境を越えて手を組み、コンピュータの限界に挑んだ叡智の結晶だ」
それはインターネットと言う大海原を侵略する悪性の結実。倫理と秩序を冒涜する智略の暴走。子供の火遊びとは到底呼び得ない悪辣なカウンタートラップ。
翔太が生唾を呑み下す。
湊は祝詞を読み上げるが如く厳かに、凜然とその名を告げた。
「名前は、お陀仏くん」
立花と翔太は同時にずっこけた。
途中まで賢そうなことを言っていたのに、最後で台無しだ。危うく煙草で火傷するところだった。
翔太が額を押さえて狼狽している。
「お、お陀仏くん?」
「そう。お陀仏くん」
湊が真顔で復唱するので、肩の力が抜ける。
なんだ、その名前は。
立花は顳顬の疼痛を堪えながら言った。
「お前が名付けただろ。センスが死んでる」
「酷いな」
そのネーミングセンスで、よく製作者が怒らなかったな。
そちらの方が不思議だが、英訳したら別の名前になるのかも知れないと言うことにして、無理矢理納得した。
「侑の代わりに手伝いを頼むよ、ハヤブサ。お陀仏くん以上の働きを期待してる」
湊がにっこりと微笑んだ。
色々と突っ込みたい所はあるが、立花は黙って煙草を地面に押し付けた。
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