⑸親子喧嘩

 白煙の底を銀色の閃光が流星のように駆け抜けた。


 鋭い剣戟が火花を散らし、銃口を弾き飛ばす。銃弾が天井を貫き、目の前に黒い影が滑り込むのが見えた。


 知らない顔だった。褐色の肌をした異国の女。手には長い曲刀を携え、仮面のような無表情をしていた。


 立花が構え直し、女が剣を振るう刹那、辺りは闇に包まれた。視界がぐらぐらと揺れ、平衡感覚が狂っている。闇雲に発砲する程に愚かではない。明暗の変化に対応出来ない。立花はすぐに目を閉じて、聴覚に神経を集中した。


 ずるずると、何かを引き摺る音がする。

 何も見えない。薬品と何かの焼ける臭いがする。

 さっきの女は何だ? 何者だ?


 闇に包まれていた回廊が再び光を取り戻す。硝子張りの扉の前にさっき女が立っていた。華奢な体軀で血塗れの天神侑を担ぎ、凛と背を伸ばしている。


 艶やかな黒髪が空調に揺れる。

 黒曜石のような瞳が射抜くような鋭さで見詰めていた。




「貴方がハヤブサね?」




 抑揚の無い声で、否定を許さぬ口調で女が詰問する。

 問い返そうとした瞬間、立花は激しく噎せ返った。手足の感覚が無い。視界がぶれる。




「貴方の獲物は、この手負いの獣だったのかしら?」

「……お前は」




 酷い吐気がして、立花は口元を覆った。

 女は薄らと微笑み、踵を返した。――立花が追えないことが分かっていたみたいだった。




「さようなら、ハヤブサ。ご縁があったら、取引しましょうね?」




 女と天神侑が煙の向こうに消えて行く。

 追い掛ける体力は無かった。意識が朦朧として、手足が鉛のように重い。だが、この場に留まってはならない。何処かで火災が起きている。煙が酷い。逃げなければ。


 壁に手を突くと、掌が焼けるように熱かった。

 意識が白く溶けて行く。消えて行く意識の底で、声がした。


 誰かが、呼んでいる。


 誰かが。















 6.毒と薬

 ⑸親子喧嘩













 意識は水中にあるようだった。

 視界にある凡ゆるものが朧に歪み、膜が張ったような無音である。揺れているのかも知れないし、そうではないのかも知れない。誰かが何かを言っているような気がする。だが、立花にはそれが誰なのか分からなかった。




「……い……ろ……」




 誰かが呼んでいる。

 誰かが、俺を。




「おい! しっかりしろよ!」




 頬を思い切り叩かれたような感覚と共に、立花の意識は現実に回帰した。薄暗い闇の中で翔太が叫んでいる。

 頭蓋骨の内側から金槌で殴られているみたいだった。激しい吐気と目眩に襲われ、立つことも出来ない。




「中毒症状だね」




 カリウム注射をしたよ。

 柔らかなボーイソプラノが鼓膜を揺らした。


 霞む世界の中で、湊の険しい顔が見える。腕を持ち上げられるが、感覚が無い。湊は注射器を取り出して、立花の腕に刺した。




「建物の周囲に木が植えられていただろう? あれは夾竹桃きょうちくとうって言う毒のある植物なんだ」

「どく……」

「枝も葉も花も実も、植えてある土も、燃やした時の煙も全部が毒だ」




 なんでそんな危険な植物を植えているんだ。

 立花は纏わり付くような怠さを堪えて、ゆっくりと息をした。湊が注射器を捨てると、何処かで水の音がした。




「乾燥や大気汚染に強い植物なんだ。高速道路の脇にもよく植えられているでしょ?」

「知らねぇ……」




 立花が悪態吐くと、湊が笑った。

 その隣には、見たことの無い異国の青年がいた。褐色の肌に宝石のような青い目をした男だった。天神侑を助けに来たのも、こいつの仲間だろう。


 体が重くて堪らない。吐き気が込み上げて嘔吐くが、出て来るのは胃液ばかりだった。地面に突っ伏すと、目の前に生活排水の川が見えた。薄緑に濁った水は俄かに泡立ち、ゴミが其処此処に浮いている。


 ドーム状の天井から小さなランタンがぶら下がっている。まるで地中深くの鍾乳洞にいるみたいだった。水の流れがどうどうと鳴り響く。




「夾竹桃に含まれるオレアンドリンは、青酸カリを上回る致死性を持っている。でも、毒は薬にもなるのさ」




 女の声がした。

 はきはきとした女の声は、一本の芯が通っているかのように揺るぎない。湊の背中に隠れるようにして、眼鏡を掛けた白衣の女が座っていた。吾妻光莉――。立花が殺すべきターゲットだった。




「どんなものも使い方次第だ。毒を以て毒を制する遣り方は、新たな毒を齎すかも知れない。だが、それはいつか薬にもなる」




 この状況はよく分からないが、ターゲットが自らやって来てくれたのだ。立花にとっては、鴨がネギを背負って来たようなものだった。


 目が回る。胃液が迫り上がる。けれど、立花は懐へ手を伸ばした。其処には愛用のベレッタM92がちゃんと収まっていた。立花が銃を取り出そうとした時、翔太が言った。




「綺麗事だ」




 眉を顰めた翔太が、冷たく指摘する。




「それが薬になるまで何人殺すんだ? ゴールは何処にあるんだ? 俺達は法律が如何とか言える立場じゃねぇが、アンタは俺達と同じくらい汚ぇよ」




 翔太の声は砂漠のように乾いていた。彼もまた、違法薬物の人体実験で家族を滅茶苦茶にされ、明るい世界から弾き出されたあぶれ者だった。




「大義名分を言い訳にして、罪すら背負わねぇアンタには虫唾が走る」

「言い訳はしない。科学とは犠牲の上に成り立っている。だけど、その犠牲に意味を与えるのも、また科学なんだ」

「詭弁だね」




 訴え掛ける吾妻を、翔太が否定する。




「アンタ等は、身元不明の人間で臓器売買や人体実験をするんだろ? 社会的立場の無い人間は、幾らでも使い捨てて良いと思ってる」




 翔太が言った時、すぐ様、湊が否定した。




「それは、競合相手の流したデマだよ」

「デマ?」




 翔太が、ぽかんと口を開けた。見事な間抜け面である。

 湊は困ったみたいに溜息を吐いた。




「よくある情報操作だよ。噂の真相なんて誰も確かめないでしょ。この国ではそういう根も葉も無い噂と憶測が、真実みたいに出回ってる」

「だけど、火の無い所に煙は立たないって言うぜ」

「確かに、グレーな一面もある。この国は開発された新薬が承認されて市場に出回るまで、とても長い時間が掛かる。そんな悠長なことを言っていたら間に合わなくなるから、承認前の薬を患者と医師の同意だけで投与することもある。俺達が作った薬もそうだ」




 ああ、それで人体実験の噂が流れたのか。

 立花は密かに納得した。湊は真面目な顔をして、言い聞かせるみたいに続けた。




Blancブランという薬は、沢山の人の命の上に出来ている。その収益は児童福祉団体に丸ごと寄付しているんだ」

「なんで」

「労働なき富だからだよ」




 全く意味が分からない。

 多分、それは湊の中にあるルールなのだ。それを正義とか道徳とか名付ける奴もいるが、湊はそういう言葉を避けてごちゃごちゃ理屈を捏ね回す。




「収益の見込めないこの研究を頼むことが出来る研究者は、吾妻さんくらいしかいない」

「要はボランティアだろ」




 立花が吐き捨てると、湊が笑った。

 自分を拘束して相棒を殺そうとした相手に、どういう神経だ。

 立花には理解出来なかった。怠くてしんどいのに、どうでも良い話を延々と聞かされて、眠くなって来た。


 拍動が耳元で聞こえた。肌一面が冷や汗で濡れ、シャツが張り付く。耳鳴りが、吐き気が、目眩が、まるで巨大な渦潮みたいに意識を呑み込もうとしている。




「ねぇ、蓮治は本当にこの人を殺すの?」




 湊の澄んだボーイソプラノが、汚れた地下空間に柔らかに響く。




「蓮治の仕事観について、俺はどうこう言える立場には無い。だから、蓮治が何を選んだとしても、俺にはそれを責められない」

「騙されて、利用されて、殺されても文句は無ぇってか?」

「文句はある。納得もしてないし、……本当はすごく怒ってる」




 湊の眉間に皺が寄った。




「でも、まだ誰も死んでない。侑も吾妻さんも、蓮治には殺させない」




 静かな怒りが精神を波立たせる。

 その甘さが、その弱さが、その覚悟が、いつかこいつを殺す。それは予感ではなく、確信だった。


 こいつはいつか、誰かの為に死ぬだろう。

 両親がそうであったように、天神新がそうであったように。




「其処を退け」




 立花が銃口を突き付けた瞬間、湊が腕を広げた。

 何の真似だ、それは。




「絶対に、嫌だ」




 濃褐色の瞳に透明な光が宿っている。深い水底を覗いているみたいだった。それは引き摺り込まれたら二度と戻れないような危うさを秘めている。


 湊は丸腰だった。撃ち易い的だ。

 この距離なら、素人でも殺せる。


 吾妻が怯えて身を竦め、翔太が腰を浮かせて身構える。立花は奥歯を噛み締め、腕に力を込めた。




「目の前で困ってりゃ誰でも助けてくれんのか? 俺の代わりに死んでくれって言ったら死ぬのか?」

「俺一人の命で済むなら、それでも良い」




 湊が言った。

 腹の底から怒りが湧き上がって来て、血管がブチ切れそうだった。制御出来ない激怒が言葉尻を震わせる。




「何でも救える訳じゃねぇ。どんなに親しい相手でも、どんなに大そうな肩書があっても、テメェの命投げ打って良い理由にはならねぇよ」

「じゃあ、どうしろって言うんだ!」




 湊が癇癪を起こしたみたいに叫ぶ。

 どんなに知恵を付けても、どんなにコネクションを築いても、その根底は我儘なクソガキである。


 こいつは、いつもそうだ。

 何かあった時、真っ先に自分を切り捨てる。自分一人の命で帳尻を合わせようとするその傲慢さが、殺してやりたいくらい不愉快だ。




「他人を救いたいなら、まずはテメェ自身を救ってみせろ。その泥舟からさっさと降りなきゃ、救えるもんも救えねぇよ。サレンダー出来ねぇのは、損失だ」




 再度突き付けてやれば、湊が噛み締めるように言った。




「泥舟が沈むなんて誰が決めたんだ」

「テメェが一緒に落っこちるって言ってんだよ!」

「それなら、泳いで行く。大事なもん全部背負って、岸まで渡ってやる!」

「そんなことが出来る筈無ェだろうが、馬鹿! お前がやってんのは他人を巻き込んだ自殺だ!」

「違う!!」




 どっちも言ってること、めちゃくちゃだ。

 呆れたみたいに、翔太が言った。


 分からない。そうなのかも知れない。自分は体調が最悪で、湊は頭に血が上っている。何の話をしているのかも分からなくなって来たが、此処で折れたら負けだと言うことは分かる。




「理由がそんなに大事か、蓮治!」




 湊の小さな掌が、立花の胸倉を引っ掴んだ。

 濃褐色の瞳に炎が見える。それは灯火と呼ぶには野蛮で、篝火と呼ぶには獰猛で、けれど猛火と呼ぶには余りに静かな炎だった。


 湊は真っ直ぐに背筋を伸ばしていた。まるで、銃口なんて見えていないみたいだった。




「命を投げ打つにも、他人を救うにも、自分を貫くにも理由が必要か! それなら、教えてやる!!」




 捲し立てるような切り口上で、湊が血を吐くようにして怒鳴った。




「俺が決めたからだ!!」




 なんだ、そりゃ……。

 立花は肩を落とした。湊の声が地下道に反響し、残響は水音に消えて行く。腹の底で燃え盛っていた怒りが、酸素を失くしたみたいに萎んで行くのが分かる。


 言い出したら聞かない頑固さは、出会った頃と同じだった。相変わらずのエゴイストだ。暫しの沈黙の後、翔太が噴き出すようにして笑った。




「親子喧嘩みたいだな!」




 異国の青年が笑いながら言った。

 何が親子だ。と言うか、お前は一体、誰なんだ。


 湊は指でも突き付けそうな剣幕で睨み付けているが、立花はもう何もかもどうでも良くなってしまった。




「お前は、本物の馬鹿だ」




 立花は銃を下ろした。

 こんないかれた馬鹿と同じ土俵で言い合いになったことすら、馬鹿馬鹿しかった。

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