⑻兆候

 扉の開け放たれる音が、まるで裁判官の打ち鳴らすガベルのように響き渡った。立花と天神侑が振り向いた時、湊は銀色のノートパソコンを抱えており、すぐ後ろには吾妻が立っていた。




「特定したよ」




 何も感じていないような淡白な口調で言った。

 コーヒーテーブルにノートパソコンを置くと、湊は全員に見えるようにディスプレイを向ける。ディスプレイには、目が滑るような夥しい量のコンピュータ言語が表示されていた。


 それを理解出来るのは、この場では湊だけだった。

 天神侑が促すと、湊は見慣れた都内の地図を映した。場所は経済の中心地とされる歓楽街。高層ビルの立ち並ぶ都会のど真ん中である。


 それはエトワスノイエス製薬の競合相手とされる大手製薬会社の本部だった。エンジェル・リードの指す武器商人が何者なのか分からないが、場所を考えると立花の受けた依頼も全くの嘘ではなかったのだろう。


 嘘は真実の中に紛れさせる。

 湊が嘘を吐く時の常套手段だった。敵に回ると厄介極まりない。湊はパソコンを操作して、位置情報を立花の携帯電話に送った。




「翔太が遣り取りをしていた相手は、蛍って呼ばれる武器商人だ。そいつのメール履歴を探ってみたら、結構面白いことが分かったよ」

「へぇ、どんな?」




 湊はソファに座り、闇の中で目を凝らすようにじっと見詰めて来た。




「盟和製薬という大手の製薬会社がある。エトワスノイエスの競合相手で、其処の幹部が蛍と繋がってる。Blancブランのデータが欲しかったのは、もしかしたらこっちかも知れないね」

「どうしてその薬のデータを欲しがるんだ?」

「ブラックという違法薬物の危険性が世界中に認知されただろう。その症状を抑えるBlancブランは、現状、ブラックに対抗出来る唯一の薬だ。ブラックの後遺症はこの国では特定疾患の一つに認定されているし、製造元には補助金も出る」




 打ち出の小槌という訳だ。

 立花は溜息を吐いた。


 昔、湊を指して金の卵を産む鶏と言った殺人鬼がいた。犯罪組織に寄生する人間のクズみたいな奴で、そいつは湊を飼い慣らすことで巨額の富を得ようとして、立花に始末された。


 湊は唇を引き結ぶと、静かに言った。




「だけど、Blancブランのデータは開示出来ない」




 湊は膝の上で拳を握っていた。


 ブラックという違法薬物は脳を破壊し、人間を操り人形にする。けれど、その最終的な目的は強化人間の開発である。倫理観や良心の呵責、身体の心理的制限を取っ払い、都合の良い操り人形を製造する。


 湊の作り出した薬は、ブラックの副作用だけを抑えるのである。世界的な注目度を鑑みると、悪用のリスクは高い。毒にも薬にもなるのだ。


 湊も吾妻も、其処に利益を求めていない。

 収益は福祉事業に丸ごと寄付していると言っていた。

 彼等はプライドを持っており、それは褒め称えられるような偉業であるが、善意というものは利用し易いのだ。


 これだけやっても、彼等は報われることは無い。

 どれだけ人を救っても、未来に貢献したとしても、湊は日の当たる道を歩けないし、吾妻が称賛される日は来ない。




「俺達は今、動けない。お陀仏くんの増殖が想定以上に早いんだ。手が付けられなくなる前に、止めないといけない」




 立花は呆れてしまった。

 これが、湊という子供の未熟さである。

 才能や知識は大人以上なのに、詰めが甘いのである。


 お陀仏くんという馬鹿みたいな名前をしたコンピュータプログラムは、遺伝的アルゴリズムを搭載していると言っていた。つまり、AIのように学習し、成長するのだ。


 ウィザード級のハッカーが作り出したそれは、電子の海に流れると世界中に広がり、凡ゆるデータを破壊し尽くすだろう。所謂、サイバーテロである。


 放っておけばインターネットは火の海である。どのくらいの損失が出るのか、立花には想定出来ない。大事なデータを守りたかったことは分かるが、過剰防衛なのだ。


 湊は両手を組み、身を乗り出した。




「火消しは俺がやる。だから、アンタは好きに暴れて良い。その代わり、確実に始末してくれ」

「生け捕りじゃなくて良いのか?」

「野放しにするよりマシだ」




 それはそうだろう。

 天神侑が何かを言いたげに見詰めている。立花はその反応で、エンジェル・リードが武器商人に関わる何かしらの事情を抱えていることを悟った。


 しかし、殺し屋を相手に、好きに暴れて良いとは豪胆な子供である。立花は席を立った。




「立ち塞がるもんは全部殺して良いってことだよな?」

「蓮治の良識を信じるよ」




 湊が笑った。













 6.毒と薬

 ⑻兆候














 ハヤブサは裏社会の抑止力と呼ばれているが、厳密には違う。暴走する同業者を始末する、である。


 立花の師匠は二代目だった。

 飄々として掴み所の無い浮雲みたいな爺さんで、引退後は山奥の田舎に引き篭もって、悠々自適な隠居生活を送っていた。最期は布団の上で、誰に看取られることもなく、蝋燭の火が消えるように静かに逝った。

 しかし、幸せな最期だったと思う。俺達は他人の命を食い物にする薄汚い殺人鬼で、どうせろくな死に方はしない。だが、それで良いと思う。


 師匠の教えを今も覚えている。


 銃の扱い方、裏社会での身の振り方、他人との関わり方。

 俺達は殺人鬼。だが、快楽を目的にしてはならない。

 誇りを捨てるな。――立花には、それが何なのか分からなかった。そんな時、師匠はいつもこう訊ねた。


 大切なものは出来たか、と。

 その意味を知ったのは、師匠の死後だった。


 愛車の扉を開けると、噎せ返るような濃厚な血の臭いがした。後部座席のシートは血塗れである。立花は窓を開け、エンジンを掛けた。自室が荒らされたかのような居心地の悪さと不快感を誤魔化すように煙草に火を点ける。


 エンジェル・リードの駐車場は狭い。すぐ脇にアメリカンバイクが停められていたので、ゆっくりとアクセルを踏んだ。

 外はもう暗かった。繁華街の喧騒は遠く、界隈は耳鳴りがする程の静寂に包まれている。


 なるべく人気の無い路地を選び、住宅地を抜ける。

 途中、電車で移動して来た翔太を拾った。その時にはムラトと言う謎の外人はおらず、一人きりだった。


 助手席に座った翔太が、血の臭いに眉を顰めた。

 立花は無言で都内に向けて車を走らせた。翔太は窓の外から吹き込む寒風に肩を竦め、ヒーターの温風を自分に向けた。




「俺はアンタの言ってること、間違ってると思わないぜ」




 ヒーターの音に掻き消されそうな程に小さな声で、翔太が言った。慰めも励ましも必要としていなかったので、立花は無視した。けれど、翔太はまるで独り言みたいに言う。




「迷う余地が無いのも、立ち止まる選択肢が無いのも、損失だと思うから」




 それは、果たして誰に向けた言葉だったのか。

 立花は灰皿に煙草を押し付け、ハンドルを握った。


 高速道路に乗り、都心に向けて車を走らせている時だった。地上の星のように煌めく街の明かりが、まるで津波に巻き込まれたかのように端から消えて行く。高速道路を走る車が次々と路肩に停車する。何処かで緊急車両のサイレンが聞こえ、街は物々しい闇に包まれた。


 翔太の携帯電話が鳴った。

 助手席からの間抜けな相槌を聞きながら、立花は只管に車を走らせた。事故も渋滞も無い。路肩に停められた車の明かりが道導のように先を照らしている。


 通話を終えた翔太が困惑しながら言った。




「お陀仏くんが国営電力会社を食い荒らしてるらしいぜ。首都圏は暫く停電だってさ」




 立花は溢れそうな溜息を呑み込んだ。

 最早、サイバーテロである。どうして国営電力会社に行き着くのか全く意味不明だが、この停電は湊のミスなのか、武器商人の誘導なのか。


 しかし、想定外というものにはもう慣れている。

 立花はアクセルを踏んだ。国営電力会社ということは、一般家庭の電力だけではなく、企業やインフラ事業も含まれるのだろう。被害総額が幾らになるのか考えるもの嫌だが、立花には都合が良かった。


 マスコミが膠着している。

 情報を発信し、またそれを受信する術が無いのだ。人々はこの寒空の下で、身近な人間と肩を寄せ合うことしか出来ない。


 高速道路を降りて五分と走らない内に、天を突くような高層ビルの群れが現れる。サイバーテロの為に全てのビルの明かりは消え、硝子の向こうに非常灯が煌々と輝いているのが見えた。


 避難者が行列を作り、ビルから脱出する。夜のオフィス街には見合わない人の列が街路を埋め、騒めきが一つの生き物の鳴き声のように響く。


 逃走するならば、この人混みと闇に紛れて行くだろう。大勢の人間が一筋の帯となり、携帯電話のブルーライトに照らされ、警官の誘導に従って避難して行く。


 立花は、高層ビル群を見下ろす小高い道の上に車を停めた。トランクから黒い革のケースを取り出し、丁寧に組み立てる。SVLK-14S ――通称スムラクは、超長距離射撃に特化したライフルである。


 3km先からでも標的を殺害出来る高性能のスナイパーライフルであるが、問題は別にある。

 ターゲットがどんな人間なのか分からないのだ。顔も年齢も知らない。依頼元であるエンジェル・リードも詳しく情報を持っていなかったようだし、この停電の対応に追われているのか連絡も来ない。


 さあ、どうする。

 このまま眺めていては、逃げられる。だが、無関係の人間を手当たり次第に射殺する程、破滅的に生きてはいない。

 エンジェル・リードは動けない。翔太は人探しに向いていないし、立花はターゲットの顔が分からない。――しかし、立花とて無策ではない。


 ポケットから銃弾を取り出し、装填する。

 暗視装置を装着し、スコープを覗く。首都圏一帯を襲った大停電の夜、人々は非日常に動揺し、他人事と浮かれている。愚かな民衆の横っ面を引っ叩いてやるつもりで、立花は引き金を絞った。


 アスファルトに着弾した銃弾から真っ白な煙が噴き出して、辺り一帯は悲鳴と喧騒の大混乱に包まれた。立花はすぐに銃弾を替え、激しく噎せ返る人々の群れを眺めていた。


 その時、立花の携帯電話が鳴った。

 スコープを覗いたまま通話に応じると、透き通るようなボーイソプラノが聞こえた。




『ターゲットが動くよ。ナビゲーションが要る?』

「俺は彼方さんの顔も知らねぇんだが?」

『Alright. 指示する』




 湊は監視カメラの映像をハッキングしているらしかった。この大停電でも監視カメラや非常灯は別電源の為に稼働しているらしい。




『ターゲットは女で、……ああ、ガスマスクをしてるね。グレーのスーツ、金髪のポニーテール』




 スコープから見えるのは、背を丸めて咳き込み、掌で煙を仰ぐ人々だった。警官が何かを叫び、赤色誘導灯が揺れる。立花は目を眇め、僅かに開けた車の窓からターゲットを探した。




『眼鏡を掛けた男の人の隣に……動きが速いな。襲撃に気付いてるかも』

「そんな情報はいらねぇ」

『じゃあ、合図する』

「合図?」




 何のことだ。

 立花が視線を巡らせていると、助手席で翔太が声を上げた。




「合図だ!」




 翔太の指先は高層ビルの下を指し示していた。

 闇に包まれるオフィス街の片隅、緑色の非常灯が点滅している。不規則な点滅はモールス信号を示している。そして、その手前、仮面のようなガスマスクを装着した若い女が通過するのが見えた。


 歩き方で分かる。

 銃を持っている。堅気の人間ではない。

 金髪のポニーテール。――こいつだ。


 師匠の声が聞こえる。

 大切なものは出来たか、蓮治。


 立花は、胸の内で返答する。


 出来たよ、近江さん。

 そいつ等は、俺の邪魔ばかりするし、言うことを聞かないし、反抗ばかりするどうしようもないクソガキだ。突き離しても突き離しても、何度も目の前に現れて、俺の名を呼ぶ。


 俺は、大切なものが欲しかった。

 金でも仕事でも女でも信念でも、何でも良い。

 これが大切だと胸を張って言えるたった一つの何かが。


 敵が何者かなんてどうでも良いことだ。

 湊の敵は、俺の敵だ。理由はそれで充分だった。


 射角、風向き、人の動き。凡ゆる情報が頭の中に流れ込み、一つの答えを導き出す。立花は息を詰め、引き金を引いた。

 マズルフラッシュが車内を照らし、乾いた銃声が尾を引いて響き渡る。小気味良い反動が掌に返って来る。冬の澄んだ空気の中を一発の銃弾が切り裂いて行く。それは標的を捕らえると、血飛沫と共にガスマスクを吹き飛ばした。


 女は体勢を崩し、そのまま路上に倒れ込む。

 寸前、立花は再び発砲した。とどめを刺すまで油断はしない。二度撃ちは基本である。周囲の人間が動転して逃げ惑うのが見える。立花は暫し状況を見守った。警官が駆け付け、人々が濁流のように流れて行く。




「殺ったか?」




 翔太が身を乗り出す。

 非常灯の点滅は消えている。血液が黒く路上を染め上げ、辺りは凄まじいパニック状態に陥っていた。


 立花は街路をじっと見詰めた。

 女は俯せに倒れたまま動かない。


 殺った筈だが、――何だ?

 何か、違和感が残る。

 呆気無い。手応えが無い。まるで、煙を掴んだみたいだ。


 しかし、仕事は終わりだ。

 立花はスムラクをケースに戻した。

 帰路を辿る為にエンジンを掛ける。地上から明かりが消えた夜、空は豪勢な星空が拝めた。帰り道に翔太が流れ星を見付けた。立花には、それが吉兆なのか凶兆なのか分からなかった。

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