⑼軛

「終わったぞ」




 立花が携帯電話に向かって言うと、スピーカーの向こうで湊が答えた。




『見てたよ。今、監視カメラ映像で確認してる。暗いからよく見えないんだよね……』




 車内はヒーターの音に包まれている。

 ダッシュボードの上に設置した携帯電話が青白く発光し、闇に染まる車内を遽に照らしている。


 ターゲットを始末した以上、長居する意味は無い。立花はアクセルを踏み、車は喧騒に包まれる街から走り出した。


 確認に時間が掛かっている。立花のような殺し屋に暗殺されたターゲットは、基本的に変死として処理される。稀に行方不明者扱いになることもあるが、どちらでも良いことだった。


 大停電の影響を鑑みて、高速道路には乗らなかった。

 渋滞に巻き込まれるストレスは、この世で最も無駄な時間だと思う。真っ暗な街道を走らせていると、スピーカーの向こうから湊の固い声がした。




『蓮治』




 それは、まるで有り得ないものを見たかのような驚愕と動揺を押し殺したような声だった。立花は平静を取り繕いながら、曖昧に返事をした。


 湊の声には苦渋が滲んでいる。

 猛烈に嫌な予感がする。湊は噛み締めるように言った。




『別人だ』

「はあ?!」




 立花は顔を歪めた。

 思わずアクセルを踏み切る所だった。助手席で翔太が身を乗り出し、どういうことだと声を荒げる。




『あれは蛍と繋がっていた盟和製薬の幹部、伊能雅美いのう まさみだ』




 狼狽した翔太が追及する。

 立花はほっと息を吐いた。それは、まだマシな結果だった。無関係な一般人だったら、俺達もエンジェル・リードもお終いだった。


 自分を騙して利用しようとした依頼人は、どうせこの手で始末するつもりだった。順序が変わっただけのことだ。


 ただ問題は、何故、湊が間違えたのかと言うことにある。


 湊は武器商人の顔を知っているし、監視カメラの映像から確認もしている。そして、狙撃する立花も相手が素人ではないと分かった。死んだ女――伊能は、何者なのか。




「銃を持っていた。あの状況でガスマスク付けるような周到な素人はいねぇよ」

『分かってる。今、警察のデータバンクにハッキングを掛けて調べてる』

「それは止めろ」




 声にも態度にも出ないが、湊の動揺が伝わって来る。


 今回の依頼は、変だ。

 立花は、吾妻光莉という研究者の暗殺依頼を受けた。吾妻の所属するエトワスノイエス製薬会社はエンジェル・リードの出資先だった。だから、立花の前にエンジェル・リードが立ち塞がった。


 しかし、それは陽動だった。

 依頼人の狙いは薬のデータで、混乱に乗じて盗み取った。データには湊がカウンタートラップを仕掛けていて、盗み取った人間の居場所が判明した。


 そのデータと記憶を元に、湊は武器商人を割り出し、立花が狙撃した。そして、死体を確認してみると、別人だった。


 ――なんだ、これは。

 蜘蛛の巣のように幾重にも張り巡らされた罠が、獲物を絡め取ろうとしているかのようだ。


 スピーカーの向こうで、湊が何かを言った。しかし、その時、まるで地下空間に入ったかのようにノイズが混じり始め、湊の声は掻き消されてしまった。そして、代わりに聞こえて来たのは、抑揚の無い女の声だった。




『ご機嫌よう、ハヤブサ』




 立花は目を眇めた。

 知らない声だ。だが、このタイミングで会話に割り込んで来たということは。




「テメェが、武器商人か」




 立花は煙草を取り出した。

 片手でハンドルを握りつつ、ライターで火を点ける。車内は血液と紫煙の臭いが混ざり合って吐き気がする。


 煙を吸い込むと、ニコチンが染み込んで気が凪いで行く。闇に包まれる街を横目に、立花は助手席の翔太を見遣った。何かを言いたげに、今にも叫び出しそうな馬鹿な弟子に口を閉じるよう指示をして、立花は問い掛けた。




「テメェの目的は何だ? どうしてあの薬が欲しい?」




 立花が受けた依頼の裏で蠢いていた全ての策略は、Blancブランと呼ばれる薬を狙ったものだった。確かに金にはなりそうだが、それだけが目的ではないのだろう。




『全ては正義の為さ』

「くだらねぇ」




 立花は吐き捨てた。

 正義を名乗る人間は、必ず道を踏み外す。それは時代によって変化する曖昧な概念であり、絶対的な正誤は無い。故に、自身を正義と論じる人間は、往々にして悪となる。




『では、問おう。正義とは、悪とは何だ?』

「はあ?」

『秩序とは何だ? 社会とは何だ?』




 立花は苛立った。

 意味不明で無意味な論議が大嫌いだ。自分語りがしたいのならば、部屋に閉じ籠って人形を相手にやれば良い。立花は奥歯を噛み締め、腹立たしさを呑み込んだ。




「そんなもんはどうでも良い。定義しないことに意味があるんだろう」




 スピーカーの向こうで、そいつは微かに笑ったようだった。

 こいつは武器商人。この国で蔓延する銃器を密輸し、裏社会の秩序を乱そうとしている。そんな奴がどうしてあの薬を欲しがるのか。


 何故か。

 問い掛けながら、立花は既に答えを手にしていた。

 こいつと自分は、同じである。いや、俺だけではない。

 立花も翔太も、エンジェル・リードも、国家でさえもそれの前には奴隷となる。


 答えは、余りにも簡単だった。




『力こそが正義と思わないか、ハヤブサ?』




 それは幼稚で、単純で、けれど反論の余地も無い正論だった。表社会ではどうだか知らないが、立花の世界は弱肉強食で、弱者は死に方さえ選べない。


 力の定義は多岐に渡る。

 物理的な力、武力。権力、財力、人脈やカリスマ性。頭脳や血筋、美貌。凡ゆる世界はヒエラルキーを形成する。それを支配、或いは統治するのは力である。


 この女は武器商人だ。欲しがるのは直接的な武力。

 つまり、あの薬のデータは強化人間の製造を目的としている。湊の仕掛けたカウンタートラップは首都圏一帯を大停電に陥らせたが、こうなってしまうと過剰防衛だったとは言えない。




「戦争がしたけりゃ紛争地にでも行って、勝手に死に晒せ。他人を巻き込むんじゃねぇよ」

『商人が市場を広げて行くことの何が悪い?』

「この国はそれを求めていない。押し売りは悪徳商法だぜ」

『これから求めるようになるさ』




 立花は、精神が冷たくなって行くような諦念を抱いた。

 この薄っぺらい与太話を、いつまで聞けば良い?


 こいつは蛍と呼ばれる武器商人で、他人の命をどうとも思わない拝金主義の犬である。殺し屋である立花には、その遣り方を非難することは出来ない。




「金になると分かりゃ節操の無いことだ。テメェの美学なんざどうでも良いが、俺のぎょくに手ェ出すんじゃねぇよ」

『奴等の暴走は粛清の対象ではないのかい?』

「あいつ等のやってることは心の底から理解出来ねぇし、クソくだらねぇと思うが、暴走してる訳じゃねぇ。足掻きと暴走の見分けも付かねぇなら、あいつ等を語る資格はねぇよ」




 もう話すことは無い。知りたいことも無い。

 立花は通話を切る為に指を伸ばした。人差し指がディスプレイに触れる刹那、女が言った。




『また会おう、ハヤブサ。天神侑に宜しく』




 通話が、切れた。












 6.毒と薬

 ⑼くびき














 車内は居心地の悪い沈黙に包まれている。

 立花は懐から煙草を取り出して、火を点けた。ニコチンでは抑え切れない程の苛立ちが込み上げ、手当たり次第に八つ当たりしてやりたいくらいの気持ちだった。


 武器商人は、天神侑に宜しくと言った。

 エンジェル・リードでも湊でもなく、天神侑と。


 向こうの狙いは、薬のデータだった筈だ。延いてはそれを開発した湊と、製造を一任している吾妻光莉。どうして其処に天神侑の名前が出るのか。


 彼等との情報共有は当然として、先にどちらへ伝えるべきか迷った。どちらに伝えても、状況は悪化しそうだ。だが、この場でそれを立花が考えても仕方が無い。


 何か良くないことが起こる。

 はっきり言って、天神侑がどうなろうが知ったことではないが、湊が道連れになるのは困る。




「侑に宜しくって、言ったよな」




 翔太が不安げに言った。




「侑の知り合いなのか? それとも、目的は侑だった?」

「知らねぇ」




 灰皿の縁を煙草で叩く。

 雪のように灰が舞った。


 そういえば、先日この街をお騒がせした殺し屋ギルドも、元々は天神侑の厄介なファンだった。エンジェル・リードを貶めた芸術家を拾って来たのも、天神侑だった。


 立花は少し考えて、口を開いた。




「後で事務所を片付けて、部屋を空けとけ」

「え? ああ、分かった」




 翔太は不思議そうにしていたが、追求はしない。

 素直で騙され易い典型的な御人好しである。だから、他人に利用される。けれど、翔太のような人間は信用を得て、他人の懐に潜り込むのが上手い。


 少しして、湊から電話が掛かって来た。

 通話中に何者かが割り込んで来たのだと、湊が困ったみたいに言った。このタイミングで嘘を吐く意味は無いし、湊がコンピュータ技術で負けたとは考え難い。


 では、何処から情報が漏れたか。

 立花は、自身の携帯電話を見た。自分の携帯電話が、何らかのウイルスに侵されている可能性が一番高い。エトワスノイエスで狙撃した時、湊の指示で狙撃をした時、武器商人は傍聴していたのだろう。




「おい、湊。帰ったら、俺の携帯を調べろ」

『良いよ。壊れても良いよね?』

「ああ」




 立花は舌を打った。

 現状、この携帯電話が何処まで侵されているのか分からない。そして、依頼人と遣り取りをした翔太の携帯電話も危険だ。




『二人の携帯電話は取り敢えず、全部の通信と電源を切って欲しい。翔太の方はワームが検出されてる。遠隔操作では対処出来ない』




 翔太はびっくりしたみたいに目を丸めた。

 依頼人と遣り取りをした時にワームを仕込まれたのだろう。それが立花の携帯電話にも感染して、武器商人に情報が抜かれた。


 この通話も恐らく傍聴している。

 情報は筒抜けだ。――つまり、俺達はずっと武器商人の掌の上にいたと言うことだ。


 悔しさと腹立たしさが頭の中を赤く染め上げる。

 立花が感情のままにハンドルを叩きそうになった時、湊が乾いた声で言った。




『主、言い給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』




 聞き覚えがあると、思った。

 だが、立花にはその意味も記憶も思い出せなかった。

 血と硝煙、煙草の煙。ヒーターの稼働音が低く響き、湊の声はBGMのように馴染んでいる。


 立花の育った孤児院はキリスト系の施設だった。毎朝叩き起こされて詩篇を朗読させられたが、立花はその意味を一つも理解出来なかったし、殆どを忘れてしまっていた。


 宗教は人を救うことがある。

 しかし、誰もが信仰心を持っている訳ではないし、救われたいと願っている訳でもない。神を必要とする人間もいれば、そうではない人間もいる。立花は、後者だった。




『聖書では、復讐は神のもので、悪には善を持って打ち勝てと記されている。だが、俺は神を信じない。報復も埋葬も自分でやる』




 湊は此方の返事や反応を求めていなかった。




『何処で聞き耳を立てているのか知らないが、覚えておけ。俺達は狩られるだけの草食動物ではない。お前が手を出そうとしているものが何なのか、よく見極めると良い』




 それだけを告げて、湊は通話を切った。

 湊の中からサレンダーという選択肢が消え失せたということが、分かる。


 売られた喧嘩は買うが、復讐の依頼は受けない。それは立花のイデオロギーの一つである。だが、この状況はどうだ。血を血で洗う報復の輪廻が、まるで泥沼のように湊の足元を絡め取って行く。


 腹の底に淀が溜まって行くような酷い不快感だった。

 立花は指先で通信と電源を切り、携帯電話を後部座席に投げた。翔太は同様の操作をしながら、心細い声を出す。




「まずいんじゃないか……?」




 捨て犬みたいな縋る目付きだった。

 立花は舌を打った。


 分かっている。此処でエンジェル・リードが退けないのも、湊が黙っていられないのも、天神侑が止められないのも、分かる。正論も綺麗事も大嫌いだ。しかし、立花は決して、湊を暗闇に縛り付けたい訳ではなかった。


 止めなければならない。その為には守らなければならない。

 自分の苦手分野だ。




「どうするかな……」




 胸の内に呟いた筈の声が口から零れ落ちる。

 立花は深く息を吸い込み、考えを巡らせた。

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