⑽飼い主の責任

 エンジェル・リードの事務所は、闇に染まっている。

 ハイテク機材を詰め込んだスパイ宛らの事務所も停電は免れなかったらしい。立花は駐車場に車を停め、棺桶のように沈黙する建物を眺めた。


 ブラインドカーテンの隙間から青白い光が溢れている。

 外観を見ていると、彼等の事務所が奇妙な構造になっていることが分かる。内装と窓の位置が違うのだ。恐らく、湊の出入りしていた事務室に何か仕掛けがある。


 階段を登ると、事務所の扉の前で天神侑と湊が待っていた。

 天神侑は血塗れだった衣服を着替えていた。スーツを脱いで普段着になると、――天神新にそっくりだった。




「話がある」




 立花が言うと、天神侑は目を眇めた。

 湊が扉を開けて室内へ促す。ラベンダーの甘い匂いが漂う。事務所の入口には数学的な青い絵画が飾られていた。立花は芸術の良し悪しは分からなかった。


 応接室には蝋燭が灯されている。大災害の夜みたいだった。

 暖房が点けられなかったせいか、空気は冷たく、ひっそりと静まり返っている。


 幼い頃の記憶が俄かに顔を出す。

 僅かな光源すらない闇の中で、子供の啜り泣く声がする。立花の育った孤児院は、身寄りの無い子供を掻き集めた牢獄だった。暴力的で支配的な大人と、攻撃的な怯えた子供。薬物実験と称した圧政の温床。


 体を丸めて泣いていた子供、部屋の隅で膝を抱えた子供、大人の顔色を伺って作り笑いを浮かべる子供。誰もが助けを求め、それを裏切られて来た。


 いつか誰かが救ってくれるんじゃないかなんて、期待すらしなかった。救われた経験というものをして来なかったし、この世に期待もしなかった。


 勧善懲悪も因果応報も、其処には無かった。

 支配と搾取だけの閉鎖的な世界。復讐に価値を見出す程の情緒も人間関係も、養われて来なかった。


 ソファに腰掛けた湊が、欠伸をする。

 都心は停電に射殺事件と大混乱だが、エンジェル・リードの事務所内は膜の中みたいに静かで穏やかだった。


 立花は壁に寄り掛かり、湊を呼んだ。

 濃褐色の瞳にオレンジ色の灯火が映っている。立花と翔太が携帯電話を渡すと、湊はパソコンに繋いだ。俯くと長い睫毛が際立って、顔立ちが一層幼く見える。




「帰り道、あの武器商人から電話が掛かって来たぞ」

「なんて言ってた?」

「商人が市場を広げることの何が悪いってさ」

「それは、あのデータを盗んだ理由かな」

「ああ。力こそ正義だってよ」




 立花が肯定すると、湊は曖昧に頷いて、後はずっと無言だった。天神侑はソファに座ったまま、話の先を待っている。翔太の視線が煩い。立花は溜息を吐いた。




「天神侑に宜しくって言ってたぞ」




 其処で漸く、湊が顔を上げた。天神侑は視線を鋭くさせ、室内に静電気のような警戒と緊張が走った。




「なんで、侑?」




 湊が訊いた。そんなことは立花にだって分からない。

 天神侑を見遣るが、眉間に皺を寄せたまま首を振る。湊は顎に指を添えて沈黙した。考え事をする時の癖だった。


 その小さな頭の中では立花が思い付きもしなかった幾つもの可能性が精査され、理論付けられている。けれど、確証が無ければ口にはされない。




「力こそ正義か……」




 湊が、ぽつりと呟いた。

 エンジェル・リードと武器商人は完全な敵対関係となった。それは和解も停戦も有り得ない決定的な亀裂である。其処に準優勝や努力賞なんてものは無い。


 湊は腕を組み、唸った。

 毒を以て毒を制する遣り方は間違っていない。だが、それは新たな毒を齎すだろう。エンジェル・リードと武器商人の敵対は血を血で洗う泥沼になる。立花には、それが虚しく思えた。




「なあ、湊」




 立花が呼ぶと、湊が顔を上げた。




「聞く耳があるなら、聞け。お前は自分で選んだ道なら、地獄でも行くんだろう。茨道も獣道も悪かねぇが……、もう少し、マシな道はあるだろうさ」




 湊は何も言わなかった。

 返事もしないが、その目は真っ直ぐに立花を見詰めていた。傲慢な子供なりに、自分の言葉を聞き入れようとしているのが分かる。




「雨の日に傘を差すのは、悪いことじゃないぞ」




 それが、立花に言える精一杯だった。


 否定でも批評でもない、慰めでも励ましでもない。こいつのブレーキが何処にあるのか、立花には未だによく分からない。此処で逆上したり、意地を張るならその程度の関係性だったのだろう。


 蝋燭の火に照らされる湊の顔を具に観察した。

 冗談みたいに綺麗な顔に、葛藤と逡巡が浮かぶ。ブレーキすら存在しないのならば、もう立花にはどうしようも無い。何でも救える訳ではないし、手を伸ばしたからと言って掴めるとも限らない。


 湊は少し黙って、力無く笑った。




「……分かった」




 断崖絶壁に一本のロープが掛けられたみたいだった。

 湊は目を閉じて深呼吸をすると、微笑んだ。




「透明な傘を差すことにする。雨上がりの空に、虹を見る為にね」

「それなら、立ち止まって考える癖を付けるんだな」




 立花は鼻を鳴らした。

 湊は眩しそうに目を細めて、微笑んでいた。そのまま天神侑を振り返ると、湊は覗き込むようにして言った。




「このままじゃ泥沼になる。方向転換が必要だ」

「……そうだな。あんな奴等と一緒になって堪るか」




 天神侑が言うと、湊は苦々しく顔を歪めた。




「侑は怪我が治るまで航のところにいて欲しい。俺は日本に残ってパスファインダーを見張る」

「一人でやるのか? それは賛成出来ねぇな」

「いや、蓮治のところに行く」




 恰も了承を得ているかのように湊が言った。

 当然、そんな許可は出していないし、相談すらされていない。ただ、それが一番手っ取り早いだろうとは思っていた。




「ルールを決めよう。死なない、殺さない、奪わない」

「それ、かなり難しいぞ」

「難易度は高い方が燃えて来るだろ?」




 にしし、と湊が笑った。

 自分で自分の首を絞めているだけのようにも聞こえるけれど、湊なりにマシな道を選ぼうとしていることは分かる。

 天神侑は湊の笑顔をじっと見詰めると、拳を突き出した。




「じゃあ、俺からも約束だ。――自分の未来を諦めない」




 恐らくそれが、天神侑の願いだった。

 湊は目を瞬いて、可笑しそうに言った。




「それは、侑もだよね?」

「勿論」

「OK!」




 二人は拳をぶつけ合った。

 湊は立ち上がると、忙しなく動き始めた。飛行機の手配や弟への連絡、仕事の調整を並行して行なっているようだった。パソコンでは携帯電話に仕掛けられたワームを除去しており、一人で何人分もの仕事を行なっていることが分かる。そして、残念ながら立花にそれを手伝うことは出来ない。


 天神侑はソファから立つと、ポケットに手を入れた。

 エメラルドの瞳は冷たく輝き、突き放すように見下ろしている。




「悪ィが、暫く世話になる」




 全然、物を頼む態度には見えないが。

 立花が言い返すより先に、翔太が言った。




「良いよ。元々は俺達の失態だ」

「なんかあったら、いつでも引き取るから」




 どっちが飼い主か分からないな。

 立花は肩を落とした。















 6.毒と薬

 ⑽飼い主の責任














 鉛色の雲間から、金色の光が放射状に差し込んでいる。

 それは薄明光線と呼ばれる自然現象の一つで、早朝や夕方に見掛けられるらしい。そして、その美しい現象は別名、天使の梯子と呼ばれる。


 首都圏を襲ったサイバーテロは、警察組織でも本格的に捜査が始まったらしい。お陀仏くんという馬鹿な名前のプログラムは、インターネットに接続された凡ゆる情報機器に侵入し、データを片っ端から破壊して行った。一度解き放たれたそのプログラムは検出の度に形を変え、収束不可能な程に進化している。


 エンジェル・リードは公安警察と親交があった。

 懇意にしている刑事から相談を受けた湊は、それに応える形で拡散したプログラムを隔離し、収束させた。立花から見ると見事なマッチポンプであるが、事実を知る者は表社会に存在しなかった。


 被害範囲が広域に渡る為、その損害額は一千億円を超えるとさえ言われている。立花には想像も付かない程の大金である。その犯人の手掛かりは何処にも残されておらず、ハッカーの間では伝説となり、畏敬の念を込めてモンスターと呼ばれているらしい。


 吾妻光莉はエトワスノイエス製薬に戻り、この国の何処かの研究所に篭って薬の製造を続けている。場所は、立花も知らない。当然、連絡を取る術も無い。


 首都圏の経済も交通も完全に麻痺してしまったので、立花は天神侑を空港に送る為に関西まで車を走らせなければならなかった。天神侑はずっと無言で煙草を吹かしており、機嫌の悪さを隠しもしない。吐き気がする程に最悪なドライブだった。


 天神侑は国家に雇われる前は、フリーの殺し屋だった。殺し屋としての腕を買われて国家公認の名を受け継ぎ、引退した今は飼い犬のように大人しい。だが、その本性は手が付けられないような狂犬であり、国家すらも首輪を付けることが出来なかった。


 野放しになったら、真っ先に始末しなければならないような化物である。エトワスノイエスの工場で始末しなかったことが将来的な社会の不利益に繋がる可能性は大きい。


 空港の搭乗ゲートを潜る天神侑は、ヤクザの若頭のような貫禄を漂わせていた。金属探知機は悠々とパスしていたが、歩き方から武器を携帯していることが分かる。テロリスト容疑が掛けられても仕方が無いだろう。


 天神侑は振り返りもせず、鞄を担いで歩いて行く。

 立花は欄干に肘を置き、天神侑に向けて言った。




「テメェが飼い主の手を噛まない内は、生かしておいてやるよ」




 こいつがリードに繋がっている間は、見過ごしてやる。

 機体に乗り込む寸前、天神侑が振り向いた。エメラルドの瞳は獰猛な光を宿し、今にも喉笛に向かって噛み付いて来そうだった。




「俺の飼い主に傷一つ付けるんじゃねぇぞ」




 サバンナの肉食獣みたいだった。

 立花は目を眇めた。こいつを単独でアメリカに送って良いのだろうか。その先のことは湊の弟に託されるのかも知れないが、果たして手に負えるか。


 立花は放逐するように手を振った。

 天神侑は猫科の猛獣のように此方を睨み、そのまま機体に乗り込んで行った。見送る程の親交は無いので、立花はさっさと帰路に着いた。


 高速道路は酷い渋滞だった。お蔭で事務所に帰り着く頃には夜になっていた。給湯室からはいつかの芳ばしい匂いがする。立花が玄関を開けると湊が顔を覗かせて「おかえり」と微笑んだ。


 フライパンサイズのお好み焼きを三枚焼いたらしい。

 料理に凝っていると聞いていたが、やる気は微塵も感じられない。事務所中にソースの匂いが漂う。コーヒーテーブルに皿を並べ、湊が言った。




「侑、怒ってたでしょ」

「特攻仕掛ける軍人みたいだったぞ」




 湊が笑った。

 立花が壁際の定位置の席に着くと、湊はソファに座った。一年前のことが昨日のことのように蘇る。まさか、こんな風に再びこいつを預かることになるとは思わなかった。




「お前等はなんで武器商人を追ってる?」




 こいつのことだから、ろくでもない理由があるに違いない。

 立花が問い掛けると、湊は両手を組んだ。




「青龍会と取引をしてる。武器密輸を止める代わりに、フィクサーに繋がる武器商人を引き渡すと」

「お前は何処の立場にいるんだよ」

「この国に思い入れのある一般人さ」

「一般人はマフィアと取引しねぇよ」




 立花が言うと、湊が朗らかに笑った。

 出会った頃は、何も持たない子供だった。いつの間にか対等に話をして、勝手に行動して、しかもケジメの付け方まで覚えて来た。納得出来ないことには徹底的に反抗するけれど、他人の為に頭を下げられるくらいには大人になったらしい。




「武器商人の狙いは、天神侑か?」

「分からない。でも、利用されるのは嫌だ」




 湊の両手に力が籠る。

 利用されるのは、確かに困る。天神侑は超人的な身体能力を持った殺人鬼である。実弟である天神新が操り人形にされた時には、この国で何百人もの一般人を殺戮した。天神侑が傀儡となったら、その被害は弟の時を超えるだろう。




「あいつは翔太とは次元の違う化物だぞ。飼えなくなった時は、殺せ。その方が世の為だ」

「吾妻さんが言っていただろ。毒は薬にもなる」

「使い方を誤らなければな」




 湊が顔を歪めた。

 天神侑は毒と呼ぶよりも、爆弾に近い。扱い方を誤れば、辺り一帯を吹き飛ばし、荒野へと変えるだろう。そんな男の手綱を握れるのは、世界中を探したって湊くらいしかいない。その手の届かない海の向こうで、指名手配にならないことを祈るばかりである。


 首都圏の大停電に、製薬会社の全焼、一般人の射殺事件。これでもまだマシな結末だと言うのだから、この世界はどうしようもない。けれど、こいつ等が諦めないと言うのならば、立花も切り捨てる訳にはいかない。元、保護者として。




「俺は幸運だねぇ、蓮治。こんなになっても、まだ叱ってくれる人がいる」




 蓮治は分かり易いしね。

 そう言って、湊が蕩けるように笑った。


 果たして本当に幸運だったのは、湊か、自分か。

 立花はそんなことを思ったが、口にはしなかった。その代わり、眉を顰めてありったけの嫌味を込める。




「お前はマゾだな」

「何でだよ!」




 痛みを快感にしていないから、違うのかも知れないが。


 湊が床を踏んで憤慨する。

 そういう感性が残っていたことは、きっと何よりの幸運である。そして、それを楽しめる自分の余裕も、きっと得難い幸運だったのだろう。


 扉の向こうで足音がした。等間隔でクソ真面目な足音だ。翔太が帰って来たのだろう。扉が開かれる気配を感じ、湊が振り返る。立花は出来立てのお好み焼きが冷める前にと、給湯室へ箸を取りに席を立った。

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