7.自殺志願者
⑴柔らかな日常
Get action. Seize the moment. Man was never intended to become an oyster.
(行動を起こし、今を掴め。人は貝になる為に創られたのではない)
Theodore Roosevelt
アメリカ、ニューヨークシティ、マンハッタン。
世界経済の中心地は高層ビルの立ち並ぶコンクリートジャングルである。誰も彼もが時間に追われ、数字と睨めっこしながら、新聞や雑誌を片手に忙しなく生きている。
大都会の隅に、そのトラットリアはあった。
昼はカフェだが、夜間はアルコールを提供する。
洒落たオープンカフェは赤と白のパラソルが立てられ、店内はシックな雰囲気を漂わせる。
昼時を過ぎたトラットリアは、まるで祭りの後のような侘しさと喧騒に包まれている。バックヤードには使用済みの食器が山のように積まれ、食洗機は低く唸りながら延々と稼働し続けていた。
航は、疎らに散って行く客を眺めながらレジの前に立っている。初対面の女性客から渡された幾つかの連絡先を掌で丸めてゴミ箱に捨てる。客席から向けられる眼差しと囁き合いが鬱陶しかった。
トラットリア・セプテムは、航のアルバイト先だった。
高層ビルの隙間に隠れた店は、まるで混凝土を突き破って生えた雑草のように密かに、けれど確かに存在している。時間の無いビジネスマン向けの簡単な軽食と、若い女性の好みそうな綺麗なケーキ、深みのあるコーヒーを売りにしたその店は、昼時となると店の外にも列が出来る程に大繁盛していた。
昼時のピークは戦場のようだが、それさえ乗り越えれば後は時間の流れから切り離されたかのようなゆったりとした一時が訪れる。航がアルバイトを始めたのは、冬休みを終えた一月の半ばだった。
店を選んだ理由は、大学から近く、時給が高かったこと。接客業は向いていないので、バックヤードに引っ込んで黙々と料理を作り続けるような仕事がしたかった。
要領良く仕事をこなしていると、人手不足の時にはバックヤードから引っ張り出されてウェイターを任されることがあった。他人と話したり、愛想を振り撒いたりするのは嫌だった。けれど、時給を上乗せするという店長の甘言に乗って仕事の幅を広げた。今は少しでも多く、金を稼ぎたかった。
航はニューヨークの大学に通っており、もうじき三年生になる。一年前に両親を爆弾テロで亡くしてからは、生活費や学費を自分で稼がなければならなかった。生活はそれ程、切迫していない。一足先に大学を卒業した双子の兄が起業して、航の学費を全て肩代わりしてくれているからだった。
両親の保険金や遺産には、一切手を付けていない。兄と二人で話して決めた。いつか必要な時が来るだろうと、信頼出来る銀行に預けている。
しかし、生きて行くには何かと金が掛かる。
他人に借りを作るくらいなら、兄の手を借りた方がマシだった。だが、航は誰かに助けてもらうこと自体が好きではなかったので、生活費くらいは自分でどうにかしたかった。
当たり前のように兄から送られて来る生活費を、耳を揃えて突き返して「使わなかったぞ」と言ってやるのが今の目標である。
厨房から芳ばしく焼けたチーズの香りがした。
調理員の威勢の良い声が航を呼んだ。航は乱暴にレジを閉め、バックヤードに引っ込んだ。料理の受け取り口には焼き立てのマルゲリータが用意されている。
航は受け取り口に肘を突き、厨房の向こうを覗き込んだ。ランチラッシュを終えた厨房は、食材の補充に追われている。
「早く持って行け!」
厨房のリーダーが声を荒げた。
普段は物静かな壮年の男だが、疲労の為か気が荒れている。航は肩を竦めて、マルゲリータの皿を手に取った。
フロアは気怠げな空気に包まれている。微かに聞こえるジャズと客の談笑、食器の触れ合う音。航は溜息を呑み込み、壁に貼られた伝票を取った。
窓際のソファ席。伝票を確認しつつ、航はマルゲリータの皿を机に置いた。
「お待たせしました」
乱暴に置いたつもりは無いのに、皿の上でマルゲリータが跳ねた。航は内心驚いたが、何食わぬ顔を繕って伝票を丸めた。
「ご注文の品はお揃いですね」
くしゃくしゃになった伝票をテーブルに置き、航は顔を上げた。その瞬間、口から心臓が飛び出すかと思った。
「よお、航」
柔らかなテナーの声が、航を呼んだ。
見事な金髪とエメラルドの瞳をしたその男は、路地裏を闊歩する野良猫のように堂々と座っている。
「侑!」
航がその名を呼ぶと、天神侑は爽やかに微笑んだ。
ソファの背凭れに身体を預けた侑は、閑散とした店の中にいても人目を惹く。そのエメラルドの瞳は人種や国境の壁を越え、宝石のように美しく輝いている。
航は咄嗟に腕時計を見て、日付を確認した。
先日、双子の兄から連絡があった。侑が怪我をしたから、療養の為にアメリカへ来る。日々の忙しさにすっかり失念していたが、航は空港まで迎えに行こうと思っていたのだ。
航はくしゃくしゃになった伝票を見下ろして、苦く笑った。
「悪ィ、迎えに行くつもりだったのに。怪我してんだろ?」
怪我人に足を運ばせてしまった申し訳無さを噛み締め、航は問い掛けた。怪我の詳細は聞いていないが、彼がちょっとやそっとの怪我で渡米する筈も無い。
侑は肩を竦め、白々しく笑った。
「擦り傷だよ。湊が大袈裟なんだ」
擦り傷だとしても、超人的な身体能力を持つ侑が怪我をするなんてただ事じゃない。怪我をしているようには見えないけれど、航の知らない所で何かがあったのだろう。
航は腰に手を当てて、店内を見渡した。
店内は空いて来ているが、アルバイトが終わるまでまだ時間がある。怪我人を待たせるのは悪いな、と思った。
「こっちにいる間は、うちに泊まってくだろ? 部屋は片付けてあるから、家の鍵を貸すよ」
「いや、いいよ。飯食ったら、何処かで時間潰して待ってる」
侑は、思慮深い大人である。
双子の兄は現在日本にいるが、本来はニューヨークを中心に活動している。彼等がアメリカにいる間は、侑も自宅に泊まっていた。疾しいことも煩わしいことも無い。ただ、この店からは距離があるので送ってやりたい気持ちもあった。
「じゃあ、バイト終わるまで待っててくれるか?」
「お安い御用さ。仕事中に悪かったな」
「いや、元気そうな顔が見られて安心したよ」
侑は困ったみたいに微笑んだ。
航はくしゃくしゃになった伝票を掴んだ。
「此処は俺が出す。ゆっくりして行ってくれ」
何かを言いたげにしていたが、航はふっと笑って踵を返した。怪我の具合や詳細を訊きたいが、今は難しい。レジの辺りにはアルバイト仲間の少女達が集まって、侑の方を見て燥いでいる。
航がレジに戻ると、少女が頬を赤らめて問い掛けた。
「あの人、航の知り合い?」
航が肯定すると、少女達がわっと盛り上がった。
確かに、格好良い男だもんな。
航にはそれが誇らしく、そして、煩わしかった。侑の経歴はよく知らないが、恐らく表舞台に立つような人間ではない。詮索されるのは面倒だった。
その時、厨房から酷い物音がした。
鍋を引っ繰り返したような騒音だった。
「航!」
聞き覚えのある青年の声が厨房から響き渡る。
航は黒いエプロンを外した。厨房で何かあったらしい。航はバックヤードに向かいながら、客席を見遣った。
侑は出来立てのマルゲリータを摘み、カジュアルに頬張っていた。何をしても、何処にいても様になる男である。いつでも堂々としていて、媚びたり諂ったりせずに相手を立てられる大人である。
俺も大人になったら、そんな風になれるのだろうか。
航はそんなことを思いながら、歩き出した。
7.自殺志願者
⑴柔らかな日常
厨房に行くと、褐色の肌をした青年が忙しなく動き回っていた。
調理用白衣の腹の辺りにはトマトソースが派手にぶち撒けられていて、まるで腸のようである。食材補充に追われて、着替える余裕も無い。手際は悪くないのに、何故か仕事は延々と終わらない。補充する端から食材は空になり、彼は常にじっとしていられない。
「バシル」
航が呼ぶと、青年が振り向いた。
アメジストのような透き通った瞳が印象的だった。紫色の虹彩は世界的に珍しいと聞いたことがある。
バシル・イルハムは、航と同い年のアルバイトである。
学部は違うが同じ大学に通う同級生で、中東からの留学生である。見た目はやんちゃ盛りの仔猫のようだが、今時珍しく真面目で馬鹿正直な青年だった。
バシルは振り向くと、まるで地獄に仏が現れたみたいに笑った。調理台は酷い有り様だった。補充途中の食材と未完成の料理、床には鍋とトマトソースが溢れて、厨房全体がピザの上みたいに熱い。
さっきの騒音は、トマトソースの入った手鍋を引っ繰り返したらしかった。
「手伝う」
エプロンを巻きながら、何から手を付けるべきか考える。
調理台に置かれたミートソーススパゲティは、バジルと粉チーズを振り掛けるだけだった。客を待たせてはいけない。航は棚から粉チーズを取り出して、振り掛けた。
コンロの上では湯が噴き溢れそうだった。
火を弱めながら、バジルの入った銀色のバットを手に取る。完成したスパゲティを受け取り口に置くと、ウェイターがすぐに運んで行った。
床にはトマトソースが散らかっている。
掃除する時間は無い。航は苦渋の思いでトマトソースを踏み、サラダを作った。バシルが横からクルトンのバットを寄越して来る。
「助かったよ、航。トマトソースをぶち撒けてから、厨房は大混乱さ。みんな休憩に行っちゃって助けを呼ぶ余裕も無かったんだ」
「お前のでかい声、レジまで響いてたぞ」
床に落ちた手鍋を拾い、水盤に移動させる。
片手間に新しくトマトソースを温めながら、航は完成したサラダを受け取り口へ送った。
バシルは玉葱を刻みながら、苦笑した。
目の下に薄らと隈があった。航はそれを横目に見ながら、じゃが芋を電子レンジに放り込んだ。
あっちもこっちもとっ散らかっていて、全部が中途半端だった。航にとってはストレスを感じる環境である。気を落ち着けながら一つずつ片付けつつ、航は言った。
「目の下に隈があるぞ。寝不足か?」
バシルは小柄な青年だった。
双子の兄も小柄だった。丁度、同じくらいだ。
バシルは刻み終えた玉葱をフライパンに入れ、火に掛けた。
「課題が終わらなかったんだ」
バシルは、医学部の学生である。
医学部は特に忙しく、学費が高いと聞いたことがある。医学部に通う学生は金持ちの子供なのだろうと思っていたが、一概にそうとも言えないのだろう。
航の父親はMSFで活動する医者だった。救命救急医だったが、空爆で左手首を失くしてからは精神科医に転向した。その経歴については如何とも言えないが、立派だったと思う。
バシルがどんな医者になりたいのかは知らないが、他人を救おうとする人間が悪人とは思えない。――いや、思いたいだけなのかも知れない。
「医者の不養生なんて笑えねぇぞ」
「胸に刻むよ」
バシルが笑った。
遥々中東から単身留学して、飲食店でアルバイトする医学生。航と同級生ということは、バシルも飛び級制度を利用している。確か、一人暮らしだと言っていた。何かと共通点が多い。
厨房が片付いて来たので、水盤に放り込んだままになっていた鍋を洗った。業務用の食器洗い用洗剤は、洗浄力が強いので手が荒れる。指の節々が赤切れしていた。バシルもそうなのだろう。
受け取り口から少女達の歓声が聞こえた。
バシルが不思議そうに覗き込む。侑かな、と思いつつ、航は鍋をスポンジで入念に擦った。サービス残業なんて御免だ。今日は早く帰りたい。
受け取り口の小さな窓から、バシルがウェイターに問い掛ける。ウェイターは面白くなさそうな顔で、客席に色男がいると嘯いた。バシルが楽しそうに相槌を打つ。
注文が切れて、休憩に行っていた調理員達が戻って来た。鍋を洗う航を見て、調理員の若い男が可笑しそうに言った。
「なんだよ、バシルはまた航を呼んだのか?」
「そうなんだよ。寂しくてさ」
バシルがコミカルに笑った。
航は洗い終えた鍋を乾燥機に置いて、今更帰って来た若い男を睨んだ。
「俺は早く厨房に戻りたいんだ。馬鹿な客の相手なんて、もううんざりだ」
「お前みたいに顔が良い奴は、裏に引っ込んでいたら宝の持ち腐れだぞ」
「俺は料理がしたいんだ」
航が言うと、調理員達と一緒になってバシルが笑っていた。
ウェイターごっこなんてしたくないのに、表が忙しいと真っ先に駆り出される。顔が良いとか手際が良いとか適当な褒め言葉を並べて、まるで厨房から追い出そうとしているみたいだ。
「確かに、航に接客は向いてないよねぇ。この前の接客は酷かった」
「ああ、生で聞きたかったぜ。なんだっけ、ほら」
調理員達が囃し立てる。
航は溜息を吐いた。
彼等が言っているのは、先日、このトラットリアに現れた酷いクレーマーのことだった。
駐車場の立地が悪いだの、航の目付きが悪いだの文句を散々垂れて、レジの前でがなり立てたのだ。自分は客だと踏ん反り返るのが不快だった。
金と権力の好きそうな太った男だった。酔っ払いのような赤い顔と高そうなスーツ姿を思い出す。
航は濡れた手を拭き、咳払いをした。
「お客様、此方の豚箱へどうぞ」
恭しく礼をすると、厨房はどっと笑い声に包まれた。
豚野郎と思ったことは事実だが、口にするつもりは無かったのだ。航が堂々と言ったので、その客も悪口に気付かず席に着いたのがシュールな光景だったらしい。
調理員一同は目の端に涙を浮かべ、腹を抱えて笑う。航はエプロンを外した。彼等が戻って来たのならば、航は御役御免である。一体、いつになったら厨房へ戻れるのだろうか。
休憩を取る為、航は裏に回った。
調理員達の笑い声がまだ聞こえる。航は大きく背伸びをして、携帯電話を取りに更衣室へ向かった。
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