⑵罪障
携帯電話のディスプレイには、デジタルの時計が表示されている。午後三時。航は更衣室の扉に背を預け、携帯電話をじっと眺めた。
陳腐な電子音が鳴った。
航は掌の中の電子機器を眺め、通話ボタンを指先でタップした。耳に押し当てるとスピーカーの向こうで聞き慣れた兄の声がした。
それは、両親が死んだ時に兄と交わした約束だった。
定時連絡が無ければ死んだと思え。
非情な言葉だと思った。だけど、双子の兄はそういう世界で生きていて、航には其処から引き上げるだけの力が無い。定時連絡に縋るしかない自分が惨めだし、不甲斐無く、悔しい。
電話の内容は、大抵取り止めもない世間話や近況報告になる。兄は自分のことを語りたがらないし、航が追及してもはぐらかしてしまう。けれど、今回のことについては引き下がるつもりは無かった。
「侑に会ったよ。元気そうに見えたけど」
『それは、良かった』
電話口で、兄が和やかに言った。
侑が渡米したのは、怪我の療養の為だと聞いている。詳細な理由は知らないし、彼等が語らないのならば追及するつもりも無い。だが、怪我の程度によっては、受診させるべきなのか、病人食が必要なのか分からない。
「どういう怪我なの?」
『撃たれたんだ。肩と脇腹と、太腿』
「誰に」
『蓮治って覚えてる? 日本のヒットマンで、ハヤブサって呼ばれてる』
立花蓮治――。
無愛想、仏頂面、ぶっきら棒で偉そうな態度をした、いけ好かない男だった。何度か会ったことがある。日本に送られた兄の元保護者。
なんでそんなことになったのか全く分からないが、兄も答える気は無いようだった。しかも、兄自身はその男の元にいるらしいから、解決はしているのだろう。
航も銃弾を受けたことがある。
二年くらい前だった。焼けるような熱と痛みに、頭が真っ白になった。銃創というものが想像するよりも酷く、治癒に時間が掛かることもその時に初めて知った。
侑は怪我をしてから、期間が空いていない。
傷口は縫合して、輸血も必要だったらしい。大怪我だ。受診して然るべき怪我であるが、彼が拒むのならば無理に連れて行くことは出来ない。せめて、早く治癒するように栄養のある食事を提供することにする。
そんな話をして、定時連絡は終わった。
航は通話の切れた携帯電話を見詰め、鞄の中に押し込んだ。更衣室の扉を押し開けると、目の前にバシルが立っていた。
「ごめんな、電話中だった?」
「いや、大丈夫」
ふと見ると、バシルはレポートの束を持っていた。
航には見覚えが無かったので、医学部のものだと分かる。バシルは困ったように眉尻を下げた。
「臨床心理学の事例集なんだけどさ、日本語なんだよ。航は両親が日本人だっただろ?」
バシルが何の疑いも無くレポートの束を手渡して来る。
顳顬の辺りに鈍痛が走った。航は奥歯を噛み締めて、表題を見遣った。臨床心理学に於ける対話的アプローチの事例集。経済学を学ぶ航には、畑違いも甚だしい。
両親が日本人だったからと言って、日本語が堪能とは限らない。日常会話なら兎も角、専門用語や独特な言い回しまでは分からないのだ。
表題の下に、執筆者の名前がある。
航はそれを見て驚いた。
臨床心理学会の世界的権威と名高い祖父であり、世界を牛耳る裏の重鎮、フィクサーの一角でもある。幼少期に会ってから久しく顔を見ていないが、元気なようで安心した。
「日本語は話せるが、文字はあんまり読めないんだ。力になれなくて悪いな」
レポートの束を見下ろして、航は言った。
バシルが残念そうに肩を落とす。航は残りの休憩時間を確認して、鞄から文庫本を取り出した。
オースン・スコット・カードの消えた少年たち。
ミステリーとSFの混ざった長編小説は、上下巻になる大作である。
兄に勧められたのだが、中々読み進められていなかった。宗教に触れる話題や、時間が取れないことも理由の一つである。けれど、物語に現れる家族の日常と言うものは航には身近で親しみ深く、そして、今では最も遠いものになってしまっていた。
「航の家族は?」
レポートの束を弄びながら、バシルが言った。
航は掌の文字を目で追いながら、端的に答えた。
「兄貴が一人」
「今は何してるの?」
「インド洋で船乗りをしてる」
「本当かよ、それ」
バシルが可笑しそうに言った。
詮索も干渉もされたくなかった。自分達に降り注いだ不条理と理不尽について説明もしたくなかったし、同情もされたくない。
航は頁を捲りながら、問い掛けた。
「お前の家族は?」
「父が一人。母は幼い頃に病で亡くなった。俺の母国は、年がら年中戦争ばっかりしてる治安の悪い国でね、兄弟はみんな死んだよ」
航は目を上げた。
バシルの紫色の虹彩は、レポートの表紙を眺めている。
コック帽のせいで跡の残った髪を掻き混ぜて、バシルは笑った。
「父さんは、戦争を終わらせようとしてる。俺は、武器や学識よりも重要なのは、医療だと思ってる。だから、医者になって父の助けがしたい」
嫌な既視感に目眩がした。
航の父も、そうだった。命の価値を揃えるなんて大き過ぎる目標を掲げ、紛争地で医療援助をしていた。バシルもいつか、父のようになるのだろうか。金にもならないボランティアの為に生き、英雄として大衆の為に死ぬ。
航は父のことを尊敬しているけれど、生きていてくれたのなら、英雄になんてならなくても良かった。兄だってそうだ。誰もやりたがらない汚れ仕事と貧乏籤を引き受けて、いつ死ぬかも分からないような世界で生きている。
大衆は馬鹿で無知で残酷だ。だから、いつも勝手なことを言う。そして、自分は大衆を見下して、時々酷い自己嫌悪に駆られる。
俺に何が出来るだろう。
銃撃に怯えることも、貧困に喘ぐことも、寒さに凍えることも無い日常の中で、自分がどうしようもなく愚かな人間に思える。命を懸けることが全てだとは思わないけれど、目指すべき目標を持った彼等を前にすると、自分がとてもちっぽけで無力な存在に感じられた。
厨房から自分を呼ぶ声がする。
航は文庫本を閉じて、机の上に放った。今日も全然、読み進められなかった。それは一体、誰のせいなのだろう。
7.自殺志願者
⑵
トラットリアに大学生のグループがやって来たのは、午後四時を過ぎた頃だった。この店を酒場と勘違いしているのか大人数で騒ぎ立て、テーブルに載らない程の料理を次々に注文した。
金を落としてくれる有難い客であるが、面倒な料理ばかりを頼んで長時間居座り、大騒ぎする声がフロアに響き渡る。航は厨房でビーフシチューのパイ包みやら、スペアリブやら手の掛かる料理の仕込みに追われ、気付くと午後七時を過ぎていた。
上がりの時間は過ぎている。サービス残業をするつもりは無い。ディナータイムの厨房は戦場のように忙しそうだったが、航は汚れたエプロンを洗濯機に放り込んでさっさと退勤することにした。
調理員達が悲鳴を上げ、バシルがこの世の終わりみたいな顔で引き留める。けれど、航は背中を向けて手を振って、更衣室で着替えを済ませた。
携帯電話には、侑からメッセージが届いていた。
ピザを食べ終えてからすぐに店を出て、今はマンハッタンの街で時間を潰しているらしい。場所を聞き出し、航は駐輪場から愛車を引っ張り出した。
体の芯まで凍りそうな寒風が吹き付けて、吐く息は真っ白に染まった。愛車のエンジンも冷え切っている。防風性の手袋とネックウォーマーを嵌めつつ、フルフェイスのヘルメットを被る。
侑はセントラルパークにいるらしかった。
昼間は日光浴をする人や観光客で賑わっているが、夜になると暗くて人気が無く、犯罪の温床となる。侑に限って何かあるとは思わないが、怪我が心配だった。
公園の外にバイクを停めて、航は電話を掛けた。
応答を待たずに公園内へ足を踏み入れる。治安や寒さも感じない馬鹿な恋人達が、自分達だけの世界に浸っている。薄汚い格好をした男が暗闇で蹲っている。航はなるべく明るい道を選びながら、侑を探した。
貯水池を見渡す道に差し掛かり、航は足を止めた。煌びやかな街の光が水面に反射し、まるで花火のようだった。欄干に手を添えて息を吐き出した、その瞬間だった。
若い男の悲鳴が頭の上から聞こえた。それは打ち上げ花火の笛の音のように響き、破裂音の代わりに貯水池へ落下した。鈍い水音がして、航は咄嗟に防御の姿勢を取っていた。
一人、二人と若い男が宙を舞う。
水面から顔を出した男が、助けを求めて踠いている。肉を打つ音が何処からか聞こえて、航は辺りを見渡した。そして、その時。
「早かったな」
柔らかなテナーの声が、後ろから聞こえた。
足音も気配も感じられなかった。振り向くと、闇の中でエメラルドの瞳が爛々と輝いているのが見えた。
「侑」
航が呼ぶと、侑は人懐っこく微笑んだ。
侑は脇に新聞を持ちながら、チンピラみたいな若い男を引き摺っていた。頬が腫れて、鼻血が出ていた。侑は眉一つ動かさず、振り被った。若い男の体は放物線を描き、貯水池へ落下して行った。
貯水池に放り込まれた男達が、必死の形相で泳いで行く。岸までは遠い。凍死するかも知れない。
けれど、航には彼等を助けてやる義理も理由も無かった。闇の向こうへと泳いで行く男達を眺めながら、肩を落とした。
「あいつ等、何?」
「知らねぇ。あの店からずっと付けられてたんだよ。金寄越せってナイフを突き付けて来たから、追い払った」
あっけらかんと侑が言った。
付けられていたなんて、少なくとも航はそんな輩には気付かなかった。自分と侑は見えている世界が余りにも違う。
普段は気の良い穏やかな兄ちゃんに見えるけれど、実際は人殺しも厭わない裏社会の住人だ。悪ぶったガキが手を出して良い相手じゃない。
しかし、無事で良かった。
「此処等も、夜は物騒だ。怪我人なんだから、養生してくれ」
「湊も同じこと言ってたぜ」
「当たり前だろ」
航が言うと、侑が笑った。
笑った顔が幼く見える。とても、人殺しには見えない。
「帰ろうぜ。夕飯はまだ食べてないよな?」
「おう」
「作ってやるから、買い物を手伝ってくれ」
「いいぜ。任せろ」
侑は白い歯を見せて微笑んだ。
侑は踊るような軽快なステップで、鼻歌混じりに歩いて行く。本当に怪我人なのかも疑わしいくらいだった。
「この街は、未成年の失踪者が多いんだな」
駐輪場で、思い出したみたいに侑が言った。
家出少年は社会問題の一つになっている。虐待や社会的孤立、経済的貧困などの理由から家を出た未成年は、社会に蔓延る悪い大人の餌になるのだ。そういう社会的弱者を保護する政策もあるが、受け皿は足りていない。
そして、天神侑もまた、社会の報いを受けて来た人間の一人だった。けれど、彼は笑っているし、堂々と生きている。彼を中傷する人間がいるのならば、航は幾らでも闘うし、立ち向かう。それが同情なのか偽善なのかは分からない。
「苦しんでいる子供を見るのは、しんどいな」
独り言みたいに、侑が言った。
どうして、そう思えるのだろう。社会は彼を救わなかったし、大人は彼を守らなかった。それでも、他人の身を案じることが出来るのは、何故なんだろう。
守るべきものがある人間は、強いと思う。
本当に追い詰められた時にも、自分自身を見失わない。
親父も、母もそうだったのだろうか。だから、爆弾を見付けたその瞬間に、自らの体を盾に出来たのか。自分を庇って、倒れ行くナイター設備の下敷きになったのか。
自分は、多くの命の上に生きている。
犠牲という考え方は好きじゃないけれど、彼等の命に誇れる自分でありたいと思う。それしか出来ないのならば、それだけをやるべきだ。
「侑の好きな料理って何?」
「好きな料理は、あんまり無いな」
「じゃあ、嫌いなものは?」
「あー……、牡蠣とカレーかな」
珍しく、言い淀むみたいにして侑が答えた。
牡蠣にあたったことがあるというのは聞いていたが、カレーが嫌いだったことは初めて知った。航は冷蔵庫の中を思い浮かべた。好物の少ない侑が、食べたいと思えるものを一つでも多く提供してやろう。彼がおかわりを求めるくらい上手い食事を用意する。
当面の目標が決まった。
航がヘルメットを投げ渡すと、侑が片手で受け取った。脇に抱えた新聞が風に揺れる。未成年者の失踪相次ぐ。新聞の片隅に掲載された記事を目の端に収め、航はバイクに跨った。
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