⑶ピーク・エンド

 たっぷりのバターをフライパンで溶かしながら、焦げないようにヘラで混ぜる。沸き立つ気泡は、まるで池の鯉みたいだった。


 漉した卵液を流し入れ、半熟状になるまで火を通す。スクランブルエッグを作る要領で掻き混ぜ、フライパンの温度を下げる為に濡れ布巾に置く。柔らかな湯気が沸き立ち、換気扇に吸い込まれて行く。コンロを弱火にして、フライパンを温めながら卵の端を処理する。


 卵を折り畳み、フライパンのカーブを使って成形して行く。完成したプレーンオムレツを白い皿に移して、作り置きしていたデミグラスソースを掛けた。


 手鍋には、具沢山のクラムチャウダーが煮えている。航はコンロの火を止めて、味見をした。濃厚なホワイトソースが臓腑に染みる。ニューヨークの冬は寒いので、温かい朝食は大切だ。


 焼き立てのクロワッサンとフランスパンを籠に載せて、ダイニングテーブルに並べる。誰かと食事をするのは久しぶりだった。朝食が完成したので、航は二階の客室に向かった。


 ノックすると、待ち伏せしていたかのようなタイミングで扉が開いた。侑は寝起きとは思えないしゃっきりとした顔付きで、朝の挨拶を口にした。


 着替えが無いそうだったので、航のジャージを貸した。侑は背が高いので、ズボンの裾が足りていない。それでも、何処か垢抜けて見えるのは彼の姿勢や容姿が群を抜いて整っているからだろう。


 朝食を見ると、侑が「洋食屋みたいだな」と言った。美味そうだと言う侑は、子供のような笑顔を浮かべている。

 二人でダイニングテーブルを挟み、手を合わせる。食事中の会話は殆ど無かったが、気まずくは無い。普段はBGM代わりにテレビを点けているので、静寂の心地良さを久しぶりに実感した。




「今日は大学の後にバイト行くから、遅くなる。昼飯が必要なら作って行くけど、どうする?」

「あー……、どうするかな」




 侑は窓の外を眺めて、ぼんやりと言った。

 多忙な毎日を送っていると、ぽんと明け渡された時間を持て余す。航にもその気持ちはよく分かるので、幾つか暇潰しになるものは考えていた。




「家の中の物は、好きに使って良いからな。合鍵を置いておくから出掛けても良いし、俺の部屋にある本が趣味に合うなら持って行ってくれ。それから、着替えも出しておくから、必要なら使ってくれよ」

「至れり尽くせりだな。ありがとな」

「大したことしてねぇよ。そういえば、ニューヨークで現代アートの個展を開いてるらしいぜ。割引チケット貰ったから、良かったら使ってくれ」




 侑が普段、何をしているのか知らない。

 航は時間があれば読書かストリートバスケをするが、侑はどうだろう。分からないから、可能な限りの選択肢を提案する。何を選ぶのかは侑が決めれば良い。




「そういや、金あるのか? 無かったら貸すけど」

「大丈夫だよ。湊からクレジットカードを預かって来てる」




 用心深い兄が、他人にクレジットカードを預けるなんて普段なら絶対にしない。それだけで、侑が信頼されているのだと分かる。

 怪我をしたから療養なんて言っていたけれど、本当は休ませてやりたかったのかも知れない。航は、そんなことを思った。




「やっぱり、昼飯は作っておくよ。無理に食わなくても良いからな。俺は湊と違って、アレンジは得意だから」




 食事となるとお好み焼きばかり作る兄とは違うのだ。中華料理が一番得意だが、自分の好みが侑と同じとは思わない。


 焼き立てのクロワッサンは、豊潤なバターの風味がした。芳ばしく焼かれた生地が軽い音を立てる。クロワッサンを咀嚼しながらオムレツにフォークを刺すと、半熟の卵が緩やかに溢れた。




「お前等の優しさって、何処から来るものなんだろうな」




 そう呟いて、侑はフランスパンに齧り付いた。

 お前等、と侑は言った。航自身は特別、優しくした覚えは無い。だが、分かり難い兄の優しさが侑に真っ直ぐに伝わっていることが嬉しかった。




「良い奴過ぎて、時々、対応に困るくらいだぜ」




 冗談を言うみたいに、侑が戯けて笑った。


 彼はきっと、大切にされて来なかった人間なのだろうと思う。だから、自己主張も少なくて、航にとって当たり前の礼儀や気遣いに戸惑う。

 航はオムレツをフォークで掬いながら、言った。




「俺達は、別に良い奴じゃねぇよ。でも、もしもそう感じるなら、それは侑が良い奴だからだよ」




 侑が邪智暴虐な男だったのなら、俺達だって相応の態度を取る。だけど、そうじゃなかったのは、侑が本当に良い奴だったからだ。

 育ちが如何とか、学歴が如何とか、そんなことで他人を測ることはしない。人を見る目はある方だと思う。


 侑は驚いたみたいに目を丸め、苦く笑った。




「そんなこと言うのは、お前等くらいだよ」

「じゃあ、侑が今まで会って来た奴等は見る目が無かったんだ」




 侑が今、どういう感情なのか手に取るように分かる。

 真正面からの厚意を上手く躱せないのだ。それは、彼自身の美徳だと思う。




「誇れよ、侑。アンタは俺達にとって掛け替えの無い存在だよ」




 航は昔、手の付けられない悪ガキだった。

 己の内側に燻る感情を表現する方法が分からなくて、いつも何かに怒っていた。八つ当たりのように兄を殴ったこともあったし、逆に蹴り飛ばされたこともある。そんな毎日の中で、自分の中にある何かが削ぎ落とされて行くような感覚があった。


 そんな時、大人達はいつも同じことを言った。

 偉いね、大人になったね、と。


 それなら、俺が失った何かは、何処へ行ってしまったのだろう。大人になる代わりに失くしたものを誰が悼んでくれるのだろう。航には、それが悲しかった。


 フォークを手に取ろうとした侑が、ゆっくりと動きを止めた。エメラルドの瞳が灯火のように揺れている。




「湊に、夢はあるのかって訊いた時、俺が心から幸せな未来が見てみたいって言ってた。どういう意味だと思う?」

「そのままだろ」




 航は笑った。

 これだけストレートに言っても伝わらなかったのは残念だが、兄の日頃の行いが悪いのがいけない。




「俺もそう思う。侑が心から幸せな未来を見てみたい」




 侑は答えなかったし、航も答えを求めていなかった。

 言葉で伝わらないなんて日常茶飯事だ。だったら、行動で示して行くしかない。


 朝食の後、空になった皿を片付ける。栄養バランスと彩りに気を遣いながら、アレンジのし易いメニューを弁当箱に詰めた。ついでに個展の割引チケットを挟んで置く。




「俺は侑の過去のことなんて知らねぇし、話したくない奴から聞き出そうとも思わない。詮索も干渉もしない。だからせめて、俺達の前では遠慮なんてしないでくれよ」




 大学の授業時間が迫っている。航は空になった皿をシンクで洗い、乾燥機に掛けた。生ゴミを袋に纏めて玄関に置く。リサイクル可能なものは肥料として庭に撒くので、大した量ではなかった。


 身の回りのものは、なるべく再利用可能な物を選ぶ。多少高くても、地球環境に優しいものを。自分の積み重ねた小さな配慮が、いつか誰かの未来を守るかも知れない。


 航は、ソファに置きっぱなしにしていた文庫本を手に取った。そろそろ家を出なければならない。自室から鞄と上着を取って、簡単に支度をする。




「行ってきます、侑」




 バイクと家の鍵を片手に、航は玄関に向かった。

 気怠そうな声が背中に刺さる。




「いってらっしゃい」




 振り向くと、侑はソファで猫のように微睡んでいた。

 送り出してくれる人がいるのは、幸せなことだ。

 航は背中で手を振って、家を出た。













 7.自殺志願者

 ⑶ピーク・エンド












 講堂は擂鉢状に机が並べられ、丁度、蟻地獄の位置に教授がいる。黒板やスクリーンは無く、生徒は手元のタブレットを教科書代わりに講義を聞く。航は最後列の席に座り、足元から立ち昇る冷気に肩を竦めた。




「我々は自分自身の過去の経験を、そのピーク時の感情と終わり方で判断します。これを、ピーク・エンドの法則と言います」




 タブレットに映し出されたスライドには、市場経済の統計データと専門用語が記されている。一限目は行動経済学の講義だった。経済学の数学モデルに心理学的に観察された事実を取り入れて行く研究手法である。


 別に経済なんてものに興味は無かったが、汎用性が高いので学んでいて損は無いと思ったのだ。授業は退屈で眠くなる時もあるが、時々面白い話も聞ける。




「遊園地のアトラクションでは、たった五分の為に何時間も並ぶことがあります。けれど、最後の五分が有意義であれば高い満足感を得られます。並んでいた時の苦痛は記憶に残らないのですね」




 口髭を生やした教授が言った。

 何処かの有名な大学を卒業し、海外留学をしては研究発表を行い、学会から表彰されるような経済学会の権威である。そんな偉い教授の講義が受けられるのは幸運なのだろう。




「映画もそうです。クライマックスが盛り上がって印象に残れば、それまでの退屈も忘れて、高い評価をします」




 人間って結構、馬鹿なんだな。

 航はそんなことを思った。


 講義が終われば空き時間があるので、航は真っ直ぐに図書館へ向かった。病人食のレシピを調べたかったのだ。

 栄養学の棚へ向かうと、見覚えのある後ろ姿が見えた。本棚に背を預けて俯き、一心不乱に分厚い本を読んでいる。




「バシル」




 航が呼ぶと、バシルが顔を上げた。

 相変わらず、紫色の瞳は輝いて、目の下には隈がある。バシルは航の姿を認めると表情を和らげた。




「やあ、航。何か調べ物?」

「ああ」




 航は看護と食事に関する本を選び、手元で捲った。ざっと流し見るが、専門用語ばかりで、航の知りたい情報は無い。

 インターネットの検索は早いけれど、航は時間があれば本で調べる。それは幼少期に身に付けた習慣の一つだった。




「うちに怪我人がいてさ、病人食のレシピが知りたいんだよ。早く治ってもらいたいし」

「船乗りの兄貴?」




 航は笑った。

 あんな冗談を覚えているバシルも律儀な男である。

 航は用の無い本を元の場所に戻して、次の本を選んだ。専門用語はごちゃごちゃと並んでいるが、求めるレシピが幾つか掲載されていた。


 怪我をすると運動量が減るから、食事の量も少なくなる。怪我をしたアスリートは摂取量を減らさなければならないが、極端に減らすことは、治癒に使うエネルギーの不足になり、回復が遅れる。


 鶏胸肉の胡麻ソース掛け、海藻サラダ、ヨーグルト。

 基本的には普段と同じくバランスの取れた食事を出して、素材や調理法を工夫すれば良いらしい。


 航は本を棚に戻し、和食のレシピを探した。侑の好物は分からないが、和食ならばハズレも無いだろう。航が本棚の上段へ手を伸ばした時、バシルが言った。




「ジャンクマンって知ってる?」

「ジャンクマン?」




 目当ての本を手に取って、航は復唱した。

 大学内に流れる噂は全く興味が無かった。バシルは軽口を叩くみたいに笑っている。




「家に帰れない子供を助けてくれる親切な大人がいるらしいんだよ。寝床とか食事とか提供してくれるんだってさ」

「胡散臭ぇ」

「だろ? だけどさ、教育学部のイザベラが、彼氏と喧華した時にジャンクマンに会って、助けてもらったって言っててさ」




 バシルは意外と交友関係が広い。留学の上に飛び級した色物学生だが、気さくな性格が受けるのだろう。




「イザベラって誰?」

「嘘だろ、航! 大学一の美女って言われてんのに、去年の春にお前が振った女だよ!」

「俺が? 人違いじゃねぇの?」

「いや、お前だったって!」




 バシルは信じられないものを見たみたいに目を真丸にした。


 本当に覚えていなかった。時々、馬鹿な女が自分をアクセサリーにしようとして誘って来ることがある。色仕掛けをするようなはしたない女や、香水臭い女は嫌いだった。


 それに、去年の春は色々なことが立て続けに起こったので、大学での記憶が不明瞭だった。




「お前、彼女作らないの?」




 バシルが訊いた。

 別に、興味が無い訳ではないし、枯れている訳でもない。彼女がいたこともあるし、それなりの経験もして来た。だが、相手が干渉して来ると面倒になってしまうので、長続きしないのだ。




「学生の本分は勉強だろ?」

「だけど、青春は人生に一度しかやって来ないんだぜ。学生の内くらいもっと遊んでも良いんじゃねぇの」




 バシルが気の毒そうに言う。

 航は、何と答えたら良いのか分からなかった。


 俺の兄貴は、家族の為に青春時代を捨てたんだよ。

 そんなこと、バシルに言う必要も無い。


 ピーク・エンドの法則が脳裏を過ぎる。

 最後の瞬間がより良いものであれば、それまでの退屈や苦痛は記憶に残らない。俺は、どうなのか。そして、兄は、侑は。


 航は溜息を呑み込んだ。

 幾つかの料理本を抱えた。バシルは何かを言いたげにしていたが、航は無視してコピー機の方へ歩いて行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る