⑷蠢く

 大学の駐輪場に行ったら、幽霊みたいに陰気な男が立っていた。学生の群れの中、葬式帰りのような黒いスーツに身を包むその男はあからさまな異物である。しかし、誰も振り向きもしなければ目を向けることもしない。


 彼は、透明人間である。

 航はスーツの男を見遣り、バイクの鍵を片手で弄んだ。




「葵くん、どうしたの」




 スーツの男――、神木葵は、航の後見人である。

 FBIのBAUに所属するベテランの捜査官で、クソ真面目で融通が利かないけれど、両親を失くした航にとっては頼れる大人の一人だった。


 葵くんは切れ長な目を冷ややかに細めて、まるで品定めするみたいに見詰めて来た。凶悪犯と遣り合って来たその眼光も、航は怖くなかった。言葉は辛辣で態度も横柄に見えるが、悪い人ではないと知っている。




「日本でサイバーテロがあったこと、知ってるか?」

「ああ、新聞で読んだよ」




 何処かの誰かが流した悪質なプログラムのせいで、日本の首都圏一帯が停電になる騒動が起きた。その被害額は数百億円にも上り、闇の中を避難する一般人が銃殺される事件も起きた。


 そのプログラムはAIのように学習し、驚異的な速度で増殖しながら凡ゆるデータを破壊し尽くすと言う。通常の方法では検知出来ない悪魔のプログラムで、従来のコンピュータウイルスとは一線を画す。界隈では畏敬の念から、こう呼ばれている。――モンスター、と。




「あのプログラムを作ったのは、ライリーらしいんだよな」




 航は眉を寄せた。

 ライリー・ホワイトは、兄の学生時代の友人で、二年前に或る事件を起こして刑務所で服役している。ライリーはウィザード級のハッカーで、航とは今も細々と交流が続いている。

 コンピュータ関連のことは、大抵、ライリーに相談する。それは航もそうだが、兄も同様である。


 ライリーの作ったプログラムが日本で大暴れしたとなると、兄が無関係とは考え難い。葵くんも当然、その答えに行き着いたのだろう。ただ、咎められる謂れも無い。




「ライリーも退屈してたんだな。今度、本でも差し入れに行くよ」

「そうしてやれ。あんまり馬鹿なことしてると刑期が延びるぞって教えてやってくれ」

「そうだな」




 航は肩を竦めて笑った。

 葵くんは僅かに視線を逸らして、訊ねた。




「湊は元気か?」

「元気だよ。最近、料理に凝ってるらしいぜ」




 葵くんと兄の折り合いが悪いことは、知っている。

 真面目で責任感の強い葵くんと、兄の個人主義は絶望的に相性が悪いのだ。兄は大人に言われたことには反発しないけれど、納得出来なければ従わない。従順に見せて我の強い所が、葵くんにはどうしたら良いのか分からないのだろうと思う。


 仲が悪いのではなくて、性格が違い過ぎるのだ。それは誰のせいでもないし、譲り合う必要も無いと思う。どちらが正しくて間違っているかなんて答えも無い。


 ただ、今もこうして案じてくれる人がいると言うことは、有り難いことだ。そう感じていても、感謝の言葉を並べられる程に航は口達者ではなかった。


 今度、飯でも――と誘い掛けて、航は寸前で堪えた。

 今、家に来られるのはまずい。侑とは会わせたくない。どちらの為にもならないと思った。




「そういやさ、この辺に家出少女を匿ってくれる紳士がいるらしいじゃん」




 苦し紛れに口から出たのは、そんな話題だった。

 葵くんの眉間に皺が寄る。広げられるような話題でも無かったので、口にしてから後悔した。葵くんは真面目な顔で言った。




「お前は家出なんかするなよ?」

「当たり前だろ」

「何かあったら、すぐに言え。絶対に巻き込まれるな」




 航は頷いた。


 巻き込まれるなとは、どういう意味だろう。

 まるで、この街で何かが起きているみたいじゃないか。

 だから、心配して様子を見に来たのだろうか。




「葵くんも、気を付けて」




 航が言うと、葵くんは苦笑した。

 そして、相変わらずの存在感の希薄さで雑踏に溶け込み、消えて行く。航にはその後ろ姿を見付けることすら出来なかった。












 7.自殺志願者

 ⑷うごめ











 アルバイト先であるトラットリアに顔を出した時、ウェイターの男が航を見ていきなりハグをした。他人との接触は不快なので、航は脊髄反射で突き飛ばす。ウェイターはレジの机に腰を打ち付け、オットセイみたいに呻いていた。




「何をするんだ!」

「こっちの台詞だろ!」




 航が怒鳴り返すと、ウェイターは憔悴したみたいに俯いた。何かがあったことは分かったが、店内では聞いてやれない。

 航は普段着のままバックヤードに入り込み、弱り切ったウェイターの顔を見詰めた。




「何なんだよ」

「エミリーが来ていないんだ。連絡も無い」

「無断欠勤かよ」




 エミリーは航と同い年のアルバイトで、フロアで接客を担当する赤毛の少女だった。流行に敏感で、アイドルが好きで、昨日、侑を見て真っ先に歓声を上げたのも彼女だった。


 そして、このウェイター、ダニエルの彼女でもある。

 休憩室にダニエルとエミリーが揃うと、航は居た堪れなくて更衣室に引き籠るくらいには仲の良いカップルだった。




「電話してみろよ。お前からの電話なら、喜んで出るだろ」

「もう何度も掛けたさ!」




 ダニエルが頭を抱えて嘆いた。

 他人の色恋沙汰なんて毛程も興味は無いが、接客担当に休まれると困る。航が厨房から引っ張り出されるのだ。




「家は?」

「帰っていないみたいなんだよ。昨日の夜、お母さんと喧華したって言ってたから……」




 つまり、母親と喧華して家出したのか。

 航も幼少期はよく家出をしたので、余り偉そうなことは言えない。――しかし、家出か。




「ジャンクマンの世話にでもなってんじゃねぇの」




 冗談混じりに言うと、ダニエルは捨て犬みたいな目を向けて来た。真面目に心配している相手に言うことではなかった。航は謝罪して、時計を見上げた。


 始業時間まであと少ししかない。航はエミリーの連絡先を知らないので、手の打ちようも無かった。もう少し待てば、自分よりも交友関係の広いバシルが出勤する。


 店の入り口でベルが鳴った。振り向くと、キャンプに行くような大きな鞄を背負ったバシルが入って来た所だった。片手にはキャリーバッグを転がしていて、まるで旅行客である。


 ダニエルは、航が来た時と同じようにバシルに縋り付いた。

 バシルは酷い顔色で、ダニエルの話を上の空で聞いている。航は騒がしい二人をバックヤードまで引っ張った。


 航は、大荷物を担いだバシルに耳打ちした。




「エミリーが来てないらしいぜ」

「ああ、そうらしいね。喧華したんだって?」

「母親とな」

「俺からも連絡してみるよ」




 バシルはそう言って、更衣室へ向かった。

 ダニエルはそわそわと落ち着きなく店の入り口を眺めている。航はダニエルの肩を叩き、更衣室へ向かった。


 更衣室手前にある休憩室では、バシルが椅子に座って天井を眺めていた。これから就業するとは思えない。半開きの口から魂が出て行くような気がして、航は顎を押してやった。




「何を呆けてんだよ。なんかあったのか?」

「ああ……、うちのアパートが燃えちゃって」

「はあ?!」




 航の声は休憩室に木霊した。

 バシルは机に肘を突き、そのまま突っ伏してしまった。




「俺の部屋は無事だったんだけど、倒壊の危険があるからって追い出されちゃってさ。取り敢えず、今日は友達の家に泊まらせてもらうことになったんだ。……先のことを考えると、気が重いよ」

「それは、気の毒だな……」




 ご愁傷様、と手を合わせる。

 少しくらいなら自分の家に泊めてやっても良いが、今は怪我人がいるから駄目だ。不幸や悲劇と言うものはどうしていつも立て続けに起こるのだろう。


 バシルは携帯電話を取り出した。




「エミリーが来てないんだよね? 連絡してみるよ」




 そう言って、バシルは電話を掛けた。

 二度、三度と電話を掛けるが繋がらない。代わりにメッセージを送って、見たら連絡をするように残した。


 今夜は混まないと良いな、と思った。

 エミリーはいないし、ダニエルもバシルも使い物にならない。その皺寄せが何処に行くのか想像するだけで疲労を感じた。


 平日夜のトラットリアは、普段に比べて穏やかなディナータイムとなっていた。何度か注文のピークがあったが、航はフロアに引っ張り出されることもなく、バシルもダニエルも気持ちを切り替えて仕事をしていた。


 勤務終了後に携帯電話を見ると、兄からの定時連絡と侑からのメッセージが残っていた。

 どうやら、暇を持て余した侑は弁当を持って現代アートの個展に行ったらしい。真面目で律儀な所は好感が持てる。近くにいるようだったので、バイクで迎えに行ってやることにした。


 休憩室では、バシルがダニエルを励ましていた。

 ダニエルは自分が何かをしてしまったんじゃないかとか、自分が力不足だったとか、よく分からない理由を並べて俯いていた。バシルは機械のように「そんなことないよ」と定型文を繰り返し口にしている。航には真似出来ない根気強さである。




「バシルもダニエルも、なんかあったら連絡してくれ。力になるから」




 彼等に挨拶を告げて、航はさっさと駐輪場へ向かった。

 オレンジ色の街灯の下で、愛車が鈍く輝いている。近くの駐車場の縁石に金髪の男が座って、煙草を吸っていた。寒空の下で酔狂なことだ。航はその目の前に立った。




「禁煙したんだと思ってたよ」




 航が言うと、侑は笑った。

 まだ長い煙草を靴底で消して、吸い殻をポケットに入れる。




「禁煙はしてねぇよ。分煙してるだけ。お前等の前で吸って、真似されたら嫌だからな」

「いっそ辞めちまえよ。百害あって一利無しだぞ」

「煙草に代わるもんがあれば、いつでも辞めるさ」




 辞められない奴の言い訳にも聞こえるが、普段は吸っていないから、実際そうなのだろう。煙草に代わるものって何なんだろう。喫煙者ではない航には分からない。




「なんで煙草なんて吸ってんの?」

「やることが無いからだよ」

「そういうもん?」

「俺はな」

「普段は吸わないのにな」

「この街は臭ェからさ」




 侑は立ち上がった。

 大都会のど真ん中なのだから、仕方ないだろう。それで昨日はセントラルパークにいたのかも知れない。

 航はバイクからヘルメットを外して、侑に投げ渡した。受け取った侑は、自嘲するように鼻を鳴らした。




「死臭がするんだよ」

「死臭?」




 何のことだろう?

 航にはよく分からなかった。寒風が吹き付けて、航は身震いした。薄暗い駐輪場にいつまでも居座る必要も無いので、航はバイクに跨った。シートが氷のように冷たい。エンジンの冷え切った愛車は死体のようで、可哀想だった。


 後部座席を親指で指し示すと、侑が軽やかに座った。動作一つ一つが身体能力の高さを窺わせる。航はエンジンを掛けながら、侑に問い掛けた。




「侑って人見知りするか?」

「あ? なんで?」

「俺の友達が家に帰れなくなっちまったんだよ」

「じゃあ、ホテルでも行くわ」

「何でだよ。怪我人の方が優先だろ」




 侑が出て行くことになるなら、悪いがバシルは泊められない。航が口を尖らせると、侑が笑った。




「俺は如何とでもなるよ。家主はお前だろ」




 侑なら、如何とでもなるのだろう。拾って来た捨て犬じゃあるまいし、怪我をしていても自立した大人である。生き抜く術は心得ている。ただ、それは航が嫌だった。


 誰かを頼ることをしない兄が、自分を選んで侑を任せたのだ。笑って許されるなんて我慢ならない。




「俺は、やると決めたことを投げ出すのは嫌なんだ」

「妥協も必要だぜ?」

「俺はそういう大人にはなりたくない」




 やると決めたことは最後までやる。

 失敗でも成功でも、結果からは目を逸らさない。

 そういう自分でいたいと思う。だから、生き難いと言われる。


 後部座席で、侑が楽しそうに言った。




「お前のプライドの高さ、嫌いじゃないぜ」




 航は鼻を鳴らした。

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