⑸叶わない夢
セントラルパークにあるジャクリーン・ケネディ・オナシス貯水池は、元々セントラルパーク貯水池と呼ばれていた。それはジョン・F・ケネディ元大統領夫人が池の周囲でジョギングしていたことから命名されたらしい。
周囲にはソメイヨシノやツツジが植えられており、池には様々な生き物が生息している。近年は外来種によって元々の生態系が乱されていると聞く。弱肉強食は自然の摂理で、時代に適応出来ない固有種は死に絶える。
それを見付けたのは、早朝にジョギングしていた若い女性だった。ブルーシートに包まれた何かが水面に浮いており、興味本位で覗き込んだ。それは凪いだ水面に揺れながら、荷造り用の紐で厳重に巻かれていたようだった。
茶色の真鴨がやって来て、それを突いた。
嘴が何度か結び目を突き、紐は少しずつ外れて行った。紐が取れると、今度はブルーシートが外れた。それは、血塗れになった人間の大腿部だったのである。
その瞬間、女性の悲鳴が響き渡り、早朝のセントラルパークは一瞬にして地獄の底へと叩き落とされたのである。
航がそれを聞いたのは、バイト先だった。
休憩室のテレビに映る血腥いニュースに顔を歪めていると、制服を着込んだ警察官が何の前触れも無く押し寄せて、フロアで接客していたダニエルを連れて行った。店は騒然となり、店長やバシルが警官に説明を求めて食って掛かった。
そして、分かったのは、切断された大腿部は、この店の従業員であるエミリーだと言うことだった。死亡推定時刻にアリバイの無かったダニエルは容疑者として連行されたのだ。
店の関係者は任意の事情聴取を受け、航もそれは例外ではなかった。だが、ダニエル以外の従業員は、すぐに解放された。店に設置された防犯カメラと、訪れた客がアリバイを証明してくれたからだ。
余りのショックに、バシルは言葉を失くしていた。
スタッフは泣き崩れ、店長は一時的に店を閉じた。いつもなら賑やかな店内は葬式会場のように静まり返り、誰も彼もが口を開くことを躊躇した。その中で、バシルが噛み締めるように言った。
「ダニエルじゃない……!」
バシルは眦を釣り上げ、拳をテーブルに叩き付けた。
勿論、誰もが同意した。ダニエルは軟派な男だが、人殺しをするような人間ではない。ましてや、恋人をバラバラに切断するなんて出来る筈が無い。
けれど、航達にはそれを証明することが出来なかった。
葵くんにも連絡してみたが、捜査状況は教えてもらえない。犯人はダニエルじゃないと訴えても、そうだと良いな、と返すばかりだった。
その時、入口のベルが鳴った。
意気消沈した従業員達が一斉に振り返る。入口の硝子戸の前には、侑が立っていた。ベルを鳴らしてから閉店の掛札に気付いたようだった。
航は席を立ち、入口に向かった。
侑は制服姿の航を見て、申し訳無さそうに眉を下げた。
「取り込み中だったか? 出直すよ」
「ああ、悪ィ……」
航が言うと、侑のエメラルドの瞳がじっと覗き込んで来た。春の新緑のように力強く美しい瞳だった。
「何かあったのか?」
「……ニュース見てないか?」
「新聞なら見たぜ。人の太腿が池に浮いてたらしいな」
航は唇を噛み締めた。
それが知り合いでなければ、航だってそう言った。だけど、もう他人事ではなくなってしまった。
航が黙り込むと、侑が労るような優しい声色で問い掛けた。
「お前の知り合いか?」
「うちの従業員だ」
「そうか……」
侑の大きな掌が、頭を撫でた。
「何か力になれるかな。犯人は」
「俺の友達が容疑者として連れて行かれちまったよ……」
悔しくて、悔しくて、何かに八つ当たりしたいくらいだった。握り締めた拳がぎりぎりと音を立てる。頭は悔しさと怒りで真っ赤に染まっているのに、胸には穴が開いているみたいだった。
侑は腰を屈め、諭すように言った。
「そいつが無罪なら、すぐに釈放される。大丈夫だ」
けれど、不安で堪らなかった。
ダニエルは犯人じゃない。航はそう確信している。けれど、証拠は無い。今も警察署で取り調べを受けているだろうダニエルを思うと、胸が軋むように痛かった。
ダニエルは、エミリーと連絡が取れない時から心配していた。そのエミリーがバラバラになって見付かって、今度は犯人扱いである。
マスコミは、まるでピラニアのように事件に食い付いた。根も葉も無い憶測を真実のように語って、ダニエルを非道な殺人鬼呼ばわりした。そして、トラットリアは殺人鬼のいた店として誹謗中傷を受け、陰湿な嫌がらせを受けた。
店に出入りすると危険だと言って、店長は暫く店を閉めることにした。航はそれでも構わなかったけれど、バシルは家も働き口も無く、偏見と誹謗中傷に晒されながら行く宛も失くしてしまった。
流石に見ていられなくて、航は侑に頭を下げた。
「友達を放って置けねぇ。如何にかしてやりたい」
侑は笑っていた。
「俺は構わねぇ。ホテルを探すよ」
「そんなことはさせられねぇよ」
「俺の問題だ。お前は友達を助けてやれ」
だけど、侑は怪我人で、事情を抱えている。
バシルに金を貸してやれば良いのだろうか。それで、ホテルでも泊まらせてやるべきか。でも、そんなものは一時的なもので、根本的な解決にはならない。航だって他人を養える程の金を持っている訳ではない。
バシルが泊まるのなら、侑は出て行くのだろう。
体に三発銃弾を受けた怪我人だ。俺は湊に頼まれている。
航は奥歯を噛み締めた。
「湊に相談する」
苦渋の決断だった。
出来れば、頼りたくなかった。
頼めば、湊は金を出してくれるだろうし、侑を説得してくれる。だが、自分のプライドの為に兄に貧乏籤を引かせるのは、嫌だった。
侑は困ったように笑った。
「俺がする。お前は何も悪くねぇんだから、そんな顔すんな」
そう言って、侑は目の前で電話をした。
二人が話している最中、航は針の筵に座らされているような心地だった。
湊は二つの提案をした。一つは、バシルが宿泊するホテルの料金を湊が全額肩代わりする。そして、もう一つはバシルを自宅に泊める代わりに、侑がバシルを見張ると言うものだった。
どうしてバシルを見張る必要があるのか分からない。
侑は意味深に頷いた。
「バシルを泊めてやれ。そんで、俺が見張る」
通話を終えた後、侑が言った。
航は意味が分からず、訊ねた。
「見張るってどういうことだ?」
「何があるか分からないからだよ」
「何があるって言うんだよ」
「だから」
侑は絡まった糸を解くような小難しい顔をして、言い淀んだ。
「そいつが犯人じゃないと言い切れるか?」
航は絶句した。
バシルが犯人だと? 冗談じゃない!
怒りで血管が切れそうだった。湊を怒鳴り付けてやろうと電話を手にした時、侑が窘めた。
「疑ってる訳じゃねぇよ。だけど、最悪の事態は想定しなきゃならねぇ。俺達はそういう世界で生きてる」
分かってる。そんなこと、分かってる!
俺のプライドを通す為に、侑を留める為に、湊が尻拭いをしたのだ。此処で自分が怒鳴っても、解決策は浮かばない。湊だって無尽蔵の金を持っている訳ではないから、バシルに貸した金はいつか請求しなければならない。
一番、マシな選択肢を選んだのだ。
それは誰のせいでもない。航は深呼吸をして、怒りの波が去るのを待った。虚脱感に苛まれながら、航はバシルに連絡をした。
7.自殺志願者
⑸叶わない夢
その日の夜、大荷物を抱えたバシルがやって来た。
航が連絡した時は、風評被害の為に世話になっていた友人の家に居られなくなり、途方に暮れていた所だったらしい。公共機関を乗り継いで、航の自宅に着いた時にはもう午後十時を過ぎていた。
玄関先で頭を下げるバシルに、航は忠告をした。
「俺の家には今、大切な客がいる。詮索も干渉もするな」
「分かってるよ」
本当に分かっているのだろうか。
航は溜息を呑み込み、バシルを家に入れた。
侑は顔も合わせないかと思っていたが、リビングのソファでバシルを待っていた。本当に、見張るつもりらしい。
「お世話になります。バシル・イルハムと言います」
「話は聞いてる。こっちこそ、悪いな」
侑は爽やかに微笑んで、右手を差し出した。
バシルは懐っこく笑った。
「航とは同じ大学で、バイト仲間なんです」
「そうか。航が世話になってるな」
バシルは何かを言いたげにしていたが、微笑んで手を離した。バシルから見たら、侑は謎の同居人である。詮索も干渉もするなと言ったから、名前すら訊けないのだろう。
航が見遣ると、侑は苦笑した。
「天神侑だ。こいつの兄貴の仕事仲間なんだ」
「船乗りの?」
「船乗り?」
侑が問い返す。
そういう話になっていたのだ。説明を面倒臭がったツケが回って来てしまったらしい。航が仲介しようとすると、侑が笑って答えた。
「――ああ、そうなんだ。今はシーズンじゃないから、休業してる」
航は内心で、侑に詫びた。
こんな下らない冗談に付き合わせてしまって申し訳無かった。
客室は侑が使っているので、バシルには二階の空き部屋を提供した。掃除はしているが、布団は無い。両親や兄のものを貸すのは、航が嫌だった。
侑はずっとリビングにいて、携帯電話を眺めたり、航が幼い頃に読んだ児童文庫や絵本を見ていた。バシルが荷物整理を始めたので、航はリビングに戻ってソファに座った。
「……早く日本に戻りたいぜ」
ぽつりと、侑が言った。
侑は怪我を理由に渡米したが、兄はどんな魔法を使って侑を納得させたのだろう。航は二階を見遣ってから、侑の横顔を見詰めた。
「湊が心配か?」
「そりゃ、そうさ。失うのは、もう御免だ」
侑は、弟を亡くしている。
もしかすると、湊と弟を重ね見ているのかも知れない。
「お前等は、貧乏籤ばっかり引きやがる。肩代わりしてやりてぇんだけどな」
侑は、手にしていた本をテーブルに置いた。
エルマーの冒険。昔、葵くんが誕生日にくれた本だった。俺達はその本を読んで大冒険をしたこともあった。
肩代わり、と侑は言った。
だけど、俺達は自分で道を選んだ。褒められる遣り方じゃないかも知れないけど、選べる選択肢の中でマシなものを選んでいる。
湊は、本当に良い仲間を持った。
湊もそれをちゃんと分かっていることが誇らしかった。
航は立ち上がった。
「それなら、侑が早く戻れるように、美味い飯を食わせてやらなきゃな」
「お前の飯は本当に美味いよ。店を出せるくらいだ」
「そんな大層なもんじゃねぇよ」
「謙遜すんな。俺は本気でそう思ったから、言ってる」
侑は真顔だった。
航は苦笑した。
「ありがとな」
キッチンに掛けっぱなしになっていたエプロンを取って、洗濯機に放り込む。洗剤を入れてタイマーをセットする。明日の朝になったら干すことにして、今日はもう寝よう。
「……店、か」
つい、口から溢れた。
自分の料理が趣味の範囲でしかなく、それだけで食って行ける程に腕があるとは思わない。だけど、それも面白い未来だ。
自分が作った料理を侑が運んで、湊は事務所に引き篭もっている。大都会のど真ん中じゃなくたって良い。田舎の片隅の定食屋で、他愛の無い毎日をずっと繰り返す。そんな、退屈で幸福な日々。
きっと、叶わない夢だ。
俺達は泥舟で血の海を渡っている。対岸には辿り着けないし、沈む時は一緒だ。日の当たる道は歩けないし、俺達の努力は報われない。
航は自室に向かった。
二段ベッドの下段は、兄の場所だった。机に置かれた写真立てには、屈託無く笑っていた頃の自分達の写真が飾られている。
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