⑹弱音

 それが見付かったのは、ダニエルが警察署に連れて行かれてから三日後のことだった。場所はセントラルパークの西にある森林で、楓の落ち葉に埋もれていた所を清掃員が発見した。


 それは人の足首だった。

 しかも、エミリーとは別人のものだった。

 警察は連続殺人事件として捜査本部を立ち上げ、FBIのBAUも捜査に加わった。二件目の犯行時に警察署に拘束されていたダニエルは釈放されたが、容疑が外れた訳ではない。犯人が捕まるまで、彼の名誉は取り戻せない。


 二人分のバラバラ死体が発見されたセントラルパークは、五百名もの捜査員を導入して大捜索された。その結果、恐ろしい事実が判明した。


 見付かったのは、なんと四人分のバラバラ死体だった。それも殆どが未成年の少女である。

 当然、公園は封鎖され、FBIはマスコミを仲介して情報を求めた。そして、その中で航は悲しい事実を知った。


 セントラルパークで発見されたバラバラ死体の内の一人は、航と同じ大学のイザベラという少女だった。彼女はミドルスクールの教師を夢見て教育学部に進学し、無残な死体となって発見された。


 FBIの発表では、犯人のターゲットは家出少女とされている。エミリーもイザベラも、事情は違えど家出をした少女だった。学生達の中では、犯人はジャンクマンではないかと噂されるようになった。


 家出した子供を匿ってくれる紳士。

 航には、もうその存在を肯定的に見ることは出来なかった。


 犯人は一人暮らしの男性で、働いていないか、自由業。

 単独犯で、車と家を所有している。

 少女を誘い込める程度の話術と資産を持っている。


 FBIのプロファイルを聞きながら、航はまるで嵐の海を眺めているかのような途方の無さを抱いた。犯人像を絞り込んでも、170万人を超える人口を抱えるマンハッタンで、たった一人の犯人を見付けるのは至難の業である。


 被害者には、航やバシルと同じくらいの青年もいた。

 遺体は辱められていない。犯人の目的はあくまでも殺害である。誘拐された被害者は、短時間で殺害され、バラバラにされていた。


 子供を狙うジャンクマンの噂は、性質の悪い伝染病のように街に広がった。経済の中心地であるニューヨークは恐怖の渦に飲み込まれ、街には制服警官が出歩くようになった。


 怪しい人間には、片っ端から職務質問を掛ける。

 そうなると、侑は外出が困難になり、家で待機せざるを得なかった。本人は表向き平然としていたが、口数は確実に減っていた。


 早朝、航は日課のランニングの準備をしていた。

 ジャンクマンの噂は気味が悪いけれど、だからと言って引き篭もってはいられない。


 航の自宅はマンハッタンの郊外にある田舎で、経済の中心地とされる商業地区からは想像も出来ない程に長閑な田園風景が広がっている。鉄道は通っておらず、一時間に数便のバスと舗装されない砂利道が交通の全てだった。


 そんな田舎町も少しずつ開発の波が迫り、豊かな自然は失われつつある。幼い頃に父とキャッチボールした芝生の広場は住宅地になり、母と歩いた学校までの道はアスファルトで埋め立てられた。兄と冒険した山は切り崩されて、その内、廃棄場施設が出来るらしい。


 思い出とは、何処に残るものなのだろう。記憶か、場所か。

 人の記憶は上書きされ、忘却される。死者は思い出の中で生き続けると言うけれど、その思い出すらいつか失われるのならば、両親は何処へ消えてしまうのだろうか。


 愚かな感傷だ。

 航は軽く咳き込んで、玄関の扉を開けた。冬の澄んだ空気が肺を満たし、朝日がエネルギーとなって充填される。軽くストレッチをしていると、玄関の扉が開いた。




「航?」




 寝起きみたいな掠れた声だった。

 ライトブルーの扉の隙間から、バシルが顔を覗かせる。航は其処に兄を重ね見た。早朝のランニングは、自分と兄の日課だった。




「ちょっと走って来る。朝食までには戻るよ」

「待って。俺も行く」




 バシルはそう言って一旦引っ込むと、スポーツウェアに着替えてやって来た。航は既に柔軟を終えていたが、バシルを待ってから走り出した。




「航の父さんは、英雄だったんだね」




 砂利道を走りながら、バシルが言った。

 航は、早くなりがちなペースを維持するように努めていた。

 誰かと走るのは久しぶりだった。兄と離れてからは、色んなことを一人でやるようになった。


 掃除、洗濯、食事、買い物。

 就労、勉強、通学、近所付き合い。

 苦手としていたものに向き合う機会が増えて、自分が避けていたものを代わりにこなしてくれていた家族の存在を身近に感じるようになった。大切なものは失くしてから気付くと言う。きっと、その時にこそ、大切さに気付けたんだろう。




「誰から訊いた?」

「色んな人が言ってるよ。航の父さんは本物の英雄で、兄さんはヒーローだったって。心から尊敬する」




 バシルは強い眼差しで言った。

 けれど、航にはそれを肯定することが難しかった。


 父は兎も角、兄は社会を捨てた落第者である。

 昔、SLCと言うカルト宗教が薬物をばら撒いたり、将来有望な若者を洗脳したり、テロ紛いの過激行為を繰り返していた時代があった。兄はSLCと闘って、教主を刑務所送りにして、世界中の信者に睨まれて、社会に居場所を失くしてしまった。


 けれど、正義なんて曖昧なものの為に闘った訳ではなかった。SLC信者だった友人を救う為に奔走し、闘わざるを得なかったのだ。航は、兄のやったことが間違っていたとは思わないし、誰にでも出来ることじゃないとも思う。


 この世には、誰かが引かなければならない貧乏籤がある。兄は勇敢だった。だから、社会から消えた。そして、今も航が引かなかった貧乏籤を代わりに引き続けている。


 何が正義か分からない。

 兄や侑は、そんなものは何処にも無いと言う。

 そうなのかも知れない。彼等の言葉は真理だと思う。――だけど、正義と言うものは、本当は何処にでもあるんじゃないかとも思う。


 自分を守る為に死んだ両親、友人の為に未来を捨てた兄。

 他人の為に怒り、それを堪えることの出来る侑。

 己の悲劇や不遇をバネにして他人を救いたいと願うバシル。

 彼等の心に灯る炎が正義じゃないと言うのなら、そんな言葉に意味は無いだろう。人の善性と呼ばれるものを、航はまだ諦めたくない。


 体は少しずつ温まって来ている。

 白んだ空に、煙のような薄雲が細く棚引いているのが見えた。航は短く息を吐き出した。




「お前は、どんな医者になりたいの」




 航が訊ねると、バシルの紫色の瞳が此方を向いた。

 このアメジストのような美しい輝きは、人工的に作り出すことは出来ないだろう。航はバシルの瞳を見詰めて言った。




「俺の親父は、中東の紛争地で医療援助してた。助けた少年兵は爆弾を持って敵陣で自爆したし、親父の活動拠点は政府軍に空爆された。……最期は、何処かの国のよく分からないテロリストの爆弾で、他人を庇って死んだ」




 吐く息が白い。

 土の道には霜柱が立って、踏み付けると小気味良い音がした。航は額に馴染む汗を拭った。




「お前の兄弟は紛争で死んだって言ってたろ。だったら、戦場の医者にはなるな。名誉も金もあの世まで持って行けねぇんだから、最後まで生きろ」

「……」

「お前、俺の兄貴に似てる。生き急いでんのか、死に急いでんのか分かんねぇんだよ」




 航はペースを上げた。お喋りしながら走っていたら、朝食の時間に間に合わない。侑には早く回復してもらって、湊の側にいて欲しい。置いて逝かれるのは、もう嫌だ。












 7.自殺志願者

 ⑹弱音













 起伏に富んだ山道を越えて、商業地区を見渡す丘の上に立つ。金色の朝日が光の粒子となって降り注ぎ、体の中に降り積もった淀みたいなものが浄化されて行くような気がする。


 時刻を確認すると、予定よりも少し早かった。

 航は乱れた呼吸を整えつつ、侑へのメッセージを作成した。




「走るのは気持ちが良いね」




 息を弾ませながら、バシルが言った。




「俺もよく走ってたんだ。医者は体力勝負だからね」




 バシルは商業地区を指差した。




「こんな事件が起きる前は、セントラルパークを走ってた。集中していると、普段は深刻に考え過ぎることもどうでも良くなるんだ」

「ああ、分かるよ」

「セントラルパークは色んな人がいる。話しているだけでその人の人生が垣間見えて、面白かった」




 自分には無い社交性である。

 朝日が空を染め上げる。爽やかな朝の空気が街を包み込んで行く。バシルは、何処か遠くを見詰めていた。




「俺みたいな留学生もいたし、社会人もいた。アスリートもいたし、ヨボヨボのお爺さんもいた。……偏見を持った人もいたし、怒鳴って来る人も」




 バシルの顔が、微かに曇る。航にも、それは分かった。


 差別と言うものは、根深く残っている。表面上は、誰もがそれはいけないことだと言うけれど、見えない所には今も確かに存在する。




「ランニングが目的じゃない人もいたよ。散歩だったり、ナンパだったり、金目当ての恐喝屋だったり、自殺志願者だったり」

「自殺志願者?」




 自殺志願者がどうして公園になんて行くのだろう。航には理解出来ない心理状態である。


 バシルは穏やかな顔付きをしていた。




「いざ死のうと思うと、誰かに話を聞いて欲しくなるんだと思う。……本当は、止めて欲しかったのかな」




 紫色の虹彩は、奇妙に透き通って見えた。航には、それがまるで、覚悟を決めた時の兄の横顔に重なって見えた。


 死ぬ前に、誰かに話を聞いて欲しくなる。

 では、バシルは?

 ランニングがトレーニングを目的としているのなら、どうして他人の話に耳を傾ける必要があったのか。




「お前も、聞いて欲しかったのか?」




 不意に、そんな問いが零れ落ちた。

 何故なのかは、分からない。だけど、訊いておかなきゃいけないと思った。家族の元から離れ、頼れるものも無く、家も金も失くしたバシルに、問い掛けて、引き止めてやらなきゃいけないと思ったのだ。


 バシルはびっくりしたみたいに目を真丸にして、力無く笑った。




「そうかも知れないね」




 独り言みたいな、小さな声だった。

 航には、バシルは消えそうに儚く見えた。




「誰かに必要だって、言って欲しかったのかな。医者になりたいのは、誰かに認めて欲しかったからなのかも。……もう分からないや」




 夢見ることに理由は要らないし、誰かに説明する義務も無い。だけど、俺達は時々立ち止まって、誰かに認めて欲しいと願う。夢を叶える権利は、何処にあるんだろう。いつになったら、それは手に入るのか。




「俺が聞いてやるよ」




 多分、バシルが会って来た他人は、自分の不平不満の吐口を求めていたんだろう。弱音や泣き言を聞いてくれる他人が欲しかった。それなら、誰がバシルの弱音を聞いてくれたのか。




「お前の弱音も泣き言も、俺が聞いてやる。だから、もう見知らずの他人なんかに期待するな」




 どんな人間にも、居場所は必要だ。弱くて惨めな自分を曝け出せる相手がいないと、きっと何処かで潰れてしまう。

 何でも救えるとは思わないけれど、目の前の一人くらいなら手が届くかも知れない。航はそう信じたかった。




「航は優しいね」




 バシルが言った。




「俺はね、五人兄弟の長男だった。親父は反政府軍の指導者で、兄弟は紛争で死んだ。親父は英雄だったけど、俺は家族が生きて笑っていれば、英雄になんてならなくても良かった。……こんなことを思う俺は、裏切り者なのかもね」




 悪夢を見ているみたいだった。

 古傷に入念に塩を塗り込まれているような堪え難い痛みと不快感に苛まれて、航は必死に深呼吸をした。




「家族に生きていて欲しいと思うのは、当たり前だろ」




 航は吐き捨てるように言った。

 航やバシルが家族に願うことは、それだけだった。

 金も名誉も地位もいらない。生きていてくれたら、それだけで良い。


 命が大切であることは、知っている。

 だが、命よりも大事なものがある人間に、それを伝えることは難しい。


 帰宅すると、玄関先に侑がいた。

 霜の降りた庭を眺めて煙草を吸っている。柔らかな紫煙が白く澄んだ空に溶けて行く。




「おかえり、航」




 靴底で煙草を消して、侑は微笑んだ。

 それだけ言うと、侑は踵を返して家の中に戻ってしまった。

 もしかすると、自分を心配して玄関先で待っていてくれたのかも知れない。


 どんな気持ちだっただろう。

 自分の帰宅を待つ時、兄の側にいられない今、侑はどんな思いを抱えているのか。


 侑は、何も語らない。

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