⑺絡み行く糸
朝食は鮭を焼いた。
ただ焼くだけでは芸がないので、醤油と味醂で甘めの味付けをして、副菜には人参と大葉の和物を。汁物は、ほうれん草と豆腐、油揚げの味噌汁を鍋に煮ている。
バシルが泊まるようになってから、侑は食事の時間をずらすようになった。他人と顔を合わせて食事するのが嫌いらしい。
航達が食事をしている間、侑は書斎で本を読んだり、屋根の上に登って景色を眺めたり、電話をしているようだった。航が二階の窓から覗き込むと、侑は赤い屋根の上で煙草を吸っていた。
「飯、食うか?」
声を張り上げて問い掛けると、侑は振り向かずに手を振った。侑は口にも態度にも出さないけれど、バシルが苦手なようだった。
冬の冷たい風が吹き付ける。航は身震いをして、部屋から紺色のブランケットを持って来た。窓の縁に畳んで置き、侑に声を掛ける。
「ブランケット置いとくから、寒かったら使ってくれ」
「ヤニ臭くなるぞ」
「そのくらい、良いよ。洗えば済む話だ」
航が言うと、振り向いた侑が笑った。
侑は携帯灰皿に吸い殻を放り込み、器用に屋根の上に立ち上がった。猫のように足音も無く歩き、侑は窓の側までやって来た。
「お前等の部屋に、写真があっただろ?」
エメラルドの瞳は、柔らかな光を宿している。
航は肯定した。航の部屋は、元々兄と使っている二人部屋だった。本を取りに行った時にでも見たのだろう。兄の机には硝子の写真立てがあり、幼少期の自分達や、大学時代の研究室の友人が写っている。
「湊が大怪我してる写真があったんだけど、あれ何」
「ああ……」
侑が言っているのは、湊の大学時代の写真である。
超常現象を科学的に解明するとか意味不明の研究をしていた、マッドサイエンティストの集合写真である。それは、ミイラみたいに包帯でぐるぐる巻きの湊を囲むようにして、仲間達が写っている。
「三年くらい前、SLCに拉致された時にリンチされたらしい。一時はかなり危なかったらしいんだけど、今はもう大丈夫」
「へえ……。そいつ等は、今も生きてんのか?」
侑の周囲の温度が、ぐっと下がる。
風は痛いくらいに冷たいのに、服の下で冷や汗が滲む。まるで、抜身の刃を突き付けられているみたいだった。
「SLCは解体したし、湊はケジメを付けてる。もう全部、終わったことだ」
兄を殴って病院送りにした奴等は、今も何処かでのうのうと生きているし、社会復帰を困難にさせた動画は裏社会のド変態共の餌になっている。航だって、そいつ等が憎いし、許せないと思う。だが、兄がケジメを付けたのならば、それ以上はもう口を出す必要は無い。
「侑が気に病むことじゃねぇ」
航が言うと、侑はそっと目を伏せた。
天神侑は、兄のビジネスパートナーで、信頼出来る友達である。だけど、航には、それだけの関係とは思えなかった。
「侑にとって、湊って何なの?」
雇用主? それとも、弟の形見?
侑にとっての湊がどんな位置にいるのか分からないと、航も何処まで踏み込んで良いのか分からない。
侑はブランケットを見遣って、口元に微かな笑みを浮かべた。
それは、今にも消えてしまいそうに儚い微笑だった。
「朝飯、食うよ」
「……分かった」
追及することは出来なかった。侑は屋根の縁まで真っ直ぐに歩いて行って、そのまま飛び降りた。航が驚く間も無く、侑は猫のように着地して、玄関に向かった。
侑は語らない。
それが、自分と天神侑の距離なのだと思った。
7.自殺志願者
⑺絡み行く糸
「湊が言っていたんだが」
味噌汁を啜りながら、侑が言った。
航はキッチンの椅子に膝を立てて座っていた。先程は、侑の地雷を踏んでしまったのではないかと思ったが、表面上、侑は普段通りだった。
「ニューヨークで起きてる事件は、スプリー殺人って奴らしい。そいつは逮捕されるまで、どんどん殺すんだそうだ」
侑はお椀を置いて、焼き鮭を箸で突いた。仕草一つ一つは丁寧だが、食べ方はカジュアルである。侑は鮭の皮を剥ぎ取って、一口で食べた。
「犯行のきっかけは、セントラルパーク。遺体はバラバラだが、頭部が見付かっていない。それは、記念品として保管されている」
食事しながら、よくそんな話が出来るものだ。
航が目を眇めると、侑が言った。
「被害者の行動範囲は、セントラルパークで重なっている。其処が犯人の狩場だった。それが封鎖された今、犯人は獲物を探して街を彷徨うだろう」
淀みない口調は、まるで兄のようだった。
侑は朝食を終えると、麦茶を一杯飲み干した。
「あと、何だったかな……」
侑は腕を組んで、逡巡するみたいに天井を見上げた。
ああそうだ、と呟いて、侑が続けた。
「幽霊の話をしていたぜ」
「幽霊?」
「或る街で、幽霊の噂が流れるんだ。その幽霊を見た者は、みんなあの世に連れて行かれる。それなら、噂が流れるのはおかしい」
「それがジャンクマンと、どんな関係があるんだよ」
「さあ、知らねぇ。電話して聞いてみれば?」
航は舌を打った。
兄に助けを乞うなんて御免だ。
空いた皿を洗う為に席を立つ。焼き鮭は、骨も皮も残っていない。航はシンクで皿を洗いながら、侑の話を反芻した。
その幽霊を見た者は、みんなあの世に連れて行かれる。
それなら、噂が流れるのはおかしい。――それは、もしかして。
航が一つの可能性に行き着いた時、侑が言った。
「セントラルパーク周辺には近付くな」
それは、臓腑が凍るような恫喝的な声だった。
航が振り向くと、侑は優しく微笑んでいた。けれど、そのエメラルドの双眸には底冷えするような狂気の炎が燻っている。
警告や忠告ではない。
明確な脅しである。
普段の侑はこんな言い方をしない。
それは、侑の背後で、兄が自分を心配しているからだ。恐らく、兄や侑は、航以上に事件の真相に近付いている。だから、こんな言い方をする。
スポンジから真っ白な泡が湧き上がる。
航はシャボン玉を潰した。
「俺は、あいつとは違う。危ない橋は渡らない」
「良い心掛けだ」
侑が笑った。
世間を震撼させる恐ろしい事件が起きていても、大学の授業は平常通りに行われる。航は愛車を車庫から引っ張り出して、エンジンを温めた。ガソリンが少ないので、帰りに補充しなければならない。トラットリアが開店されないのならば、別のアルバイトを探す。
同じ大学に通うバシルを後部座席に乗せて、航は大学に向かった。空いた時間があれば、兄に苦情の電話を入れてやろうと思っていた。
大学は陰気な雰囲気に包まれている。
教育学部に通うイザベラが、殺人事件の被害者となったからだ。学生達は、それを他人事と笑える程、呑気には生きていない。
バシルを先に下ろして、航は愛車を駐輪場に停めた。事件のせいでバイクや自転車通学を選ぶ学生が増えたので、駐輪場は殆ど満員だった。
斜めに停められた自転車に苛付く。
蹴り飛ばしてやりたかったが、航は一度バイクを降りて、自転車を揃えて入れた。スペースをどうにか確保して、愛車を捻じ込む。
「航」
不意に、後ろから声がした。
航はヘルメットを脱いで振り向いた。幽霊のような希薄な存在感で、葵くんが立っていた。航はヘルメットをバイクに括り付け、鞄を背負った。
「警察は大変だな」
葵くんはFBIのBAU ――行動分析課と言う所で勤務している。担当する事件は異常犯罪と呼ばれる、猟奇事件や連続殺人である。今回の事件も、葵くんの担当になる。
「早く犯人を捕まえてくれよ」
「ああ」
葵くんは頷いてから、じっと見詰めて来た。
黒曜石のような瞳には熱が無い。まるで深淵を覗き込んでいるみたいだった。
「お前、事件に心当たりがあるんじゃないか?」
貫くような鋭い口調で、葵くんが言った。
航は目を見開いた。寝耳に水である。確かに、事件の被害者は航の大学の生徒だったり、アルバイト先の従業員だったりした。だが、航は彼等と親しくは無かった。
「どういうこと?」
「……」
まさか、俺が疑われている?
航は心臓が凍るような緊張感を抱いた。未成年者を拉致して、バラバラにして殺すようないかれた殺人鬼が、どうして自分と関係があると言うのか。
葵くんは、何か確信を持っているみたいだった。
航は自分の挙動一つ一つが観察されているような居心地の悪さを感じて、鞄を背負い直した。
「犯人はジャンクマンなんだろ? 人間をバラバラにして捨てるなんて、俺には無理だ」
第一、FBIが発表した犯人のプロファイルとは合わない。
犯人は一人暮らしの男性で、働いていないか、自由業。
単独犯で、車と家を所有している。
少女を誘い込める程度の話術と資産を持っている。
それを思い出して、航は愕然とした。
自分は、疑われるだけの理由があるのだ。
両親を亡くしてから、航は一人暮らしと言うことになっている。車は無いが、バイクはある。移動手段があると言うことだ。兄のように口先は上手くないし、金も無いが、怪しまれるには充分だった。
しかも、航の家には二人の客がいる。
特に侑は、日本の法律上では犯罪者である。家宅捜査されるのはまずい。
葵くんは石像のように沈黙し、言った。
「お前が犯人とは思っていないが、可能であるという点では、容疑者の一人だ」
「そんなこと、俺に教えて良いのかよ」
「お前の近辺で、怪しい男が目撃されている」
「怪しい男?」
「金髪碧眼の外国人だ」
航は後ろ手に拳を握った。
それは、侑のことだ。そういえば、侑はアルバイト先のトラットリアに顔を出した。監視カメラか、目撃情報か。それで、捜査線上に上がったのだろう。
下手な嘘を吐くよりは、真実を話した方が良い。
航は眉を寄せて、葵くんを見遣った。
「それは、湊の友達だ。身元証明が必要なら、湊に訊いてくれよ」
「どういう関係の友達だ?」
「ビジネスパートナーだよ。今は怪我をしてるから、うちで療養してる。出歩くのもやっとなんだ。殺人なんて無理だ」
航は必死に訴えた。
自分のせいで侑が疑われるなんて、あってはならないことだ。侑の過去がどういうものなのかは知らないが、少なくともこの事件には関係が無い。――ただし、航にはそれを証明出来ない。
葵くんは怪訝な顔をしていた。
「ビジネスって何だ?」
航は内心、驚いた。
湊は本当に、後見人の葵くんに何も話していなかったらしい。もしかすると、連絡も取っていないのかも。
バカ湊。
お前のせいで、ややこしいことになって来たぞ。
葵くんは呆れ切ったみたいに、深く溜息を吐いた。
「どうして、あいつはじっとしていられないんだ……」
それは間違いなくその通りなのだけど。
航は脊髄反射で言い返しそうになるのを、唇を噛んで堪えた。
「やりたい放題やって、後始末は他人任せだ。状況を掻き回すだけ掻き回して、アドバイザーみたいに上から目線で語りやがる。どうして、子供らしく守られていられないんだ?」
嘆くみたいに葵くんが言う。
「ビジネスとは、結構なことだ。だが、自分の責任も取れないんじゃガキのお遊びと同じだ」
痛烈な批判だった。
葵くんの言葉一つ一つが、まるで棘のように航に突き刺さる。航は拳を握り締めたまま、葵くんを睨んだ。
「うちの兄貴をあんまり否定するな。気分悪ィ」
葵くんの言葉はその通りだと思うし、兄は自暴自棄に見える時がある。葵くんは後見人だから、未成年である兄の行いに口を出す権利も、責任もある。だけど、航にとって唯一残された双子の兄を否定されるのは、堪え難かった。
「湊は選べる選択肢の中で、一番マシなものを選んでる。褒められる遣り方じゃないかも知れないけどな」
「選んだつもりになっているだけで、実際は転がり落ちてるだけだよ。あいつが一体、何をした? テメェの身を危険に晒して、家族に心配を掛けて、何処がマシな選択だ」
「……」
「挙句、素性の知れない男を街に引き込んで、捜査を撹乱して、犠牲者は増える一方だ。殺人鬼はあいつなんじゃねぇのか?」
「侑は、事件とは関係無い!」
「どうだかな。……だが、その侑って男については、調査させてもらうぜ」
葵くんが、薄く笑った。
航は唇を噛んだ。自分が、葵くんの罠に掛かったことを悟った。葵くんは、侑の情報が欲しかったのだ。兄を侮辱したのは航への挑発だった。
航は、今すぐに自分を殴ってやりたい衝動に駆られた。
葵くんはそれまでの剣幕を消し去って、穏やかに言った。
「悪かったな」
そう言って、葵くんは踵を返した。
航は暫しその場に立ち尽くし、むしゃくしゃした気分のまま、地面に鞄を叩き付けた。道行く学生が振り返る。けれど、航は外面を繕う余裕も無かった。
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