⑻餅は餅屋

 胸騒ぎがした。

 大学構内は学生達が行き交い、講堂からは笑い声がする。葉を落とし終えた木々の梢が風に揺れ、鉛色の雲からは今にも雪が降り出しそうだった。けれど、航にはその全てが明確な悪意を持ち、何かを期待して囁き合っているかのような空恐ろしさを感じさせられた。


 第六感と言うものを、航は信じている。

 目には見えない何かが大口を開けて自分を呑み込もうとしているかのような不安に駆られ、航は携帯電話を取り出した。講義の時間は迫っているが、もうサボっても良いと思った。着信履歴から番号を呼び出し、耳に当てる。向こうとの時差は凡そ七時間。深夜だ。寝ているかも知れない。


 しかし、予想に反して通話はあっさりと繋がった。寝起きの掠れた声が自分を呼ぶ。航は溺れる者が縋るように、兄の名を呼んだ。




「湊。侑が、FBIに目を付けられたかも知れない」

『どういうこと?』




 柔らかな兄の声が、不安そうに訊ねた。

 航は拳を握っていた。居ても立ってもいられなくて、講堂から踵を返して駐輪場へ向かった。


 呑気に談笑する学生達が、回遊魚のように歩き回る。頭の中は泥でも詰まっているみたいだった。有りもしない想像が膨らんで、思考が纏まらない。




「さっき葵くんが俺の所に来て、侑のことを訊いて行ったんだ」

『そうか。航はなんて答えた?』

「侑は関係無いって」

『分かった。侑に連絡しておくね』




 スピーカーの向こうで、湊は欠伸をしたようだった。

 どうしてそんなに平然としているのか、航には全く理解出来なかった。自分のせいで侑が疑われているという罪悪感が積乱雲のように胸の内で膨らんで行く。




『航は何も心配しなくて良い。俺が何とかするから、安心して』




 深呼吸をすると良い。

 湊はそう言った。




『葵くんはFBIだろう。疑うのが仕事だ。身元の知れない人間が航の近くにいると知ったら、心配する。ただそれだけの話だ』

「だけど、侑は」

『侑のことは、俺が如何にかする。だから、航は自分のことだけ考えろ』




 何の力にもなれないことが、歯痒かった。

 言い返すことも出来ない。幼い頃は対等に殴り合いの喧嘩をしていたのに、今の自分達には距離がある。


 駐輪場に行くと、無数の自転車がバリケードみたいに愛車を囲んでいた。腹立たしさが込み上げる。航がそれを蹴り飛ばそうとした時、湊が言った。




『俺が警察なんかに負けるかよ』




 兄の不敵な笑みが瞼の裏で鮮明に浮かび上がる。

 それを聞いていると、不安も焦燥も、ぽっかりと消えて失くなってしまった。











 7.自殺志願者

 ⑻餅は餅屋











 通話を切ってから、航は自宅に向かってバイクを走らせた。自己ベストを更新する速度で帰宅すれば、自宅の前にパトカーが二台停まっていることに気付いた。玄関先に制服警官が二人、扉の前には侑が不機嫌そうな顔で立っていた。


 航はバイクを横付けして、転がる勢いで玄関先へ走った。




「侑!!」




 航が叫ぶと、侑が虚を突かれたかのような顔で此方を見た。駆け寄る航の前に、陽炎のように一人の男が立ち塞がる。




「葵くん……!」




 葵くん――神木葵は、航の後見人である。

 この世を去った両親の代わりに、葵くんが保護者として凡ゆる場面で助けてくれた。恩もあるし、感謝もしている。歯に衣を着せぬ物言いに腹が立つこともあるけれど、悪い人じゃないと知っている。


 だが、葵くんは他人だ。

 どんなに親しくしていても、どんなに長い付き合いでも、家族じゃない。




「侑は事件に関係無い!」

「それを判断するのは、俺達だ」




 葵くんが冷たく言った。

 航は歯噛みした。ダニエルが連行された時を思い出す。恋人の殺害容疑を掛けられて、周囲からレッテルを貼られて、どんなに心細かっただろう。


 侑はこの国の人間じゃないし、社会的立場も無い。警察署に連れて行かれたら、戻って来られない。身分証の類は偽造品で、暴露たら日本に強制送還されて裁かれる。此処で退く訳にはいかない。


 航はスーツの胸倉を掴んだ。葵くんは怯えもしないし、眉一つ動かさない。感情の死に絶えたような無表情で、冷たく航を見下ろしていた。




「あくまでも任意同行だ。拒否権はある」

「侑が断ったら、今度は令状を作って逃げられないようにするんだろ? 知ってんだよ、警察の遣り方は」




 警察は事実を捏造出来る。出頭を拒めば、次は公務執行妨害で逮捕される。それに、侑が出頭させられたら、その分だけ捜査が止まり、被害は続く。次に犠牲になるのは、航の友達かも知れないし、航自身かも知れない。


 葵くんは冷ややかに言った。




「弁護士を立てても良いぞ」

「……そんなの!」




 そんなこと、出来る訳が無い。

 航はただの学生だ。金もコネクションも無い。警察を止めることも、侑の無実を立証することも、何も。

 絶望に目の前が暗くなる。葵くんは航の腕を振り払い、襟元を正した。侑は扉に凭れ掛かり、一部始終を他人事みたいに眺めている。




「用があるのは、俺だろ?」




 侑が言った。




「俺は逃げも隠れもしねぇ。必要なら、警察署でも刑務所でも行ってやる。……だが、そいつは関係無い」




 侑は、航を顎で指し示した。

 葵くんがせせら笑った。




「美しい庇い合いだな。さっさと身分証を出せ」

「ほらよ」




 侑は懐から財布を出した。

 アスファルトの上に侑の免許証とパスポートが投げ出される。傍目には偽造品に見えない。制服警官が拾い上げ、品定めするかのように検分する。




「天神侑、出身地は日本。勤務先は、エンジェル・リード?」

「代表者は、早戸ちなみ。日本人だ」

「連絡しろ」




 葵くんが命令した。

 航は、首を絞められているかのような息苦しさを味わった。

 エンジェル・リードは個人投資家で、企業としての実態は殆ど無い。代表者の名前は、兄の偽名だった。


 制服警官が電話を掛ける。侑はつまらなそうにそれを眺めていた。数コールと呼び出さない内に、電話は繋がった。

 スピーカーの向こうから聞こえたのは、澄んだボーイソプラノだった。顔が見えないと、女性の声に聞こえる。


 葵くんが顔を歪めた。それは間違い無く、兄の声だった。

 制服警官は威圧的な口調で事情を説明し、侑を連行しようとしている。現状、それを阻む手段は無い。侑は黙って成り行きを見守っているようだった。


 制服警官は恫喝するかのように話していたが、或る時、突然態度を変えた。まるで、取引先を相手にするかのようだった。制服警官は顔を曇らせて、スピーカーを掌で覆った。葵くんを見て声を潜める。




「弁護士を立てると言っています」

「そいつは楽しみだ」

「それが……、あの張睿泽チャン ルイジェと」

「何?」




 葵くんの片眉が跳ねる。

 音の響きは漢語圏のようだが、少なくとも航は知らない名前だった。




「あの悪名高き張睿泽か?」

「中国マフィア青龍会の顧問弁護士じゃないか」

「何者だ、エンジェル・リード……」




 制服警官が口々に言った。

 中国マフィア、青龍会。アジア一帯を取り仕切る犯罪のシンジケートである。そして、そのトップである李嚠亮は兄の大学時代の友人だった。




「代われ」




 葵くんが言った。

 制服警官が電話を渡すと、葵くんは地を這うような低い声を出した。




「テメェ、湊だな? どういうつもりだ」

『何の話か分かりませんね。私はエンジェル・リード代表の早戸と申します』

「安い芝居は止めろ。自分が何してるか分かってんのか」

『うちの社員が不当逮捕されそうになっていると聞いたので、裁判の準備をしております』




 原稿を読み上げるかのように、つらつらと湊が言った。




『FBIの遣り方は存じ上げております。証拠の捏造や情報操作もお得意でしょう? 此方は弱小企業ですので、せめて高名な弁護士先生に依頼を致します』

「そいつがどんな奴か分かってんのか」

『勿論』




 葵くんは、湊にとっても後見人である。だが、その冷淡な口調はまるで赤の他人を相手にするかのようだった。


 葵くん。

 湊が言った。




『これが不当逮捕だと証明されたら、FBIは高圧的な差別主義者の巣窟だと吹聴してやる。警察の権威なんて法律の前では無力だよ』

「言ってろ。国家の前では個人なんざ塵も同然だ」

『一体、いつの時代を生きてるんだい? 国家権力が絶対だった時代はもう終わったんだ。これからは情報が物を言うのさ』




 まるで、悪徳商人のようである。

 けれど、風向きは確かに変わっている。




『失うものが多いのは、葵くんと俺のどっちだと思う? そっちは訴訟に慣れているだろうけど、俺は不慣れだからね。やると決めたら徹底的に、法改正する勢いでやるよ。警察は捜査しているってポーズがしたいんだろ? その怠慢も世論に教えてあげる』




 流石、口先だけで裏社会を生きて来た男である。

 嘘とハッタリは湊の十八番だ。湊の築いて来たコネクションが、闇夜の灯火のように目の前を照らしている。それは、褒められる遣り方ではないけれど。




『好きな方を選んで良いよ、葵くん。俺はどちらでも構わないからね』




 どうぞ、お好きな地獄を。

 湊はこの場にいるかのような存在感で、突き付けるように言った。葵くんが沈黙すると、湊が言った。




『さて、そろそろお帰り願おうか。不退去罪で訴えるぞ』

「……お前には、後で個人的に話をする必要があるな」

『怖い怖い』




 スピーカーの向こうで、湊が戯けて笑った。

 葵くんは乱暴に電話を切ると、忌々しげに舌を打った。




「あのクソガキには後で特別な灸を据えてやるとして……、取り敢えず、お前等は保留だ」




 そう言って、葵くんは挨拶もせずにパトカーに乗り込んだ。

 二台のパトカーは行儀良く並んで、田舎の街を去って行く。航は嵐を乗り越えたかのような安堵感に、その場に座り込んでしまった。




「随分とあっさり引き下がったな」




 侑がそんなことを言って、手を差し伸べた。

 航はその手を取って立ち上がり、頷いた。


 葵くんが令状も無く直接乗り込んで来るなんて、ただ事じゃない。捜査本部の上層部から相当な圧力が掛かっているのだろう。それだけ、世論がこの事件に関心を持っていることが分かる。


 湊の言う通り、警察は証拠の捏造も情報操作も出来るのだろう。だけど、葵くんはそれをやらなかった。それは、葵くんが悪人ではないからだ。


 侑が無事だったのは、湊の手回しだけではなく、葵くんが本気じゃなかったからだ。だけど、もしも警察が本気になったら、躱すのは難しい。


 窮地は脱しても、状況は変わっていない。

 やはり、ジャンクマンが捕まらないとダメだ。


 航が考え込んでいると、侑が呟いた。




「……銃撃戦になるかと、思った」




 航は眉を寄せた。

 侑は気が抜けたような、安心したような、穏やかな顔付きをしていた。航が見遣ると、侑は苦く笑った。




「此処に来る前に、湊と約束をしたんだ。死なない、殺さない、奪わない。……そんなの無理だって、思ってたけどな」




 航は、知っている。侑は裏社会の人間で、その手を血に汚して来た男だ。自分達がブレーキを踏む場面でも、アクセルを踏み抜くことが出来る。


 でも、侑は銃を抜かなかった。制服警官がやって来た時点で、侑には強行突破の選択肢もあった筈なのに、高圧的な物言いにも黙って堪えた。それが彼の善性だと、航は思った。


 侑は自嘲するように鼻で笑った。




「青龍会に借りが出来ちまったな……」




 それは確かに心配であるが、この場ではもうどうしようも無い。航は気持ちを切り替えるつもりで両頬を叩いた。




「エンジェル・リードは社会の未来に貢献するんだろ? これからが本当の仕事だ」

「そうだな」




 侑が頷いた。

 ジャンクマンを如何にかしないとならない。航が俯いていると、侑が言った。




「つーかよ、ジャンクマンなんて偽善者に、警察は何を手間取ってんだ?」

「偽善者?」

「被害者は家出した未成年のガキなんだろ? 俺なら、街を物色するより餌場で待ち伏せするぜ」

「……それ、詳しく話してくれ」




 航は身を乗り出した。

 難解な数学問題に、新たな証明方法が提示されたような心地だった。侑は俄かに目を見開いて、事も無げに言った。




「偶にいるんだよ、そういういかれた殺人鬼がさ。自分のことを正義の味方だと思い込んで、弱い奴をオカズにするんだ」

「だから、偽善者?」

「そうだよ」




 侑は頭の後ろで手を組んで、つまらなそうに言った。

 この男は正真正銘、裏社会の人間だ。航や其処等の警察、犯罪研究家なんかよりもその方面に精通している。


 航はゆっくりと息をした。

 なにか、恐ろしい話を聞いている気がする。まるで、犯罪の片棒を担いでいるかのようだった。




「侑が犯人なら、どうする?」

「俺は狩りはしねぇ。だけど、探し回るよりは誘き出す。例えば、そうだな……」




 侑は俯いて、顎に指を添えた。




「美味しい餌を用意する。金とか、薬とか。ガキが好きって変態には、情報を流す」

「……侑って、何者なんだ?」

「殺し屋だよ。元、な」




 侑は気障にウインクした。


 相当、腕の良い殺し屋だったんだろう。彼の身体能力の高さは、身を以て知っている。だが、航は恐怖よりも感心した。そんな男が味方にいると言うことも、心強かった。




「死体の処理は面倒だ。俺はいつも業者に依頼していたが、素人ならバラバラにするのかもな。湊は薬品で溶かすとか言ってたけど」

「それ、冗談だよな?」

「さあ?」




 全く笑えないが、冗談であることを祈るしかない。

 蛇の道は蛇という奴だろうか。ミイラ取りがミイラなんて諺もあるくらいだから、慎重に行動しなければならない。


 航は顔を上げた。

 鉛色の雲から、綿雪が降って来る。吹雪にならなければ良いな、と航は肩を竦めた。

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