⑼ジャンクマン
授業はサボることに決めた。
代わりにブレンドコーヒーを用意して、暖炉の前に座り込んだ。柔らかな炎は不思議と心が落ち着く。航は両手でマグカップを包み込み、考えを整理した。
ジャンクマンは、家出した子供を匿う親切な紳士。
それは学生の間に流れた噂だった。
そういえば、湊が気になることを言っていた。
その幽霊を見た者は、みんなあの世に連れて行かれる。ならば、噂になる余地は無い。では、ジャンクマンは如何だろう。
殺されたイザベラは、ジャンクマンに匿ってもらったとも言っていた。ならば、ジャンクマンは存在するのだろうが、イザベラは初対面では殺害されなかったと言うことになる。何がジャンクマンを犯行に走らせた?
侑ならば、物色するよりも誘き出して、待ち伏せする。
餌場は何処だ。ジャンクマンは何処で餌を見付けた?
その時、耳元にバシルの声が再生された。
――セントラルパークは色んな人がいる。話しているだけでその人の人生が垣間見えて、面白かった。
――被害者の行動範囲は、セントラルパークで重なっている。其処が犯人の狩場だった。
湊が、そう言っていた。
全ての起点は、セントラルパーク。犯人は其処で獲物を探した。餌は、ジャンクマンと言う噂そのものだった?
侑は、ジャンクマンを偽善者だと言った。
正義の味方気取りの変態。家に帰れない子供を殺すことの何処に正義があると言うのか。
ジャンクマンのイデオロギーと言うものを、航は全く理解出来ないし、共感出来る点も無い。そいつは頭のおかしい殺人鬼だ。司法によって裁かれるべきである。
湊が言うには、そいつは警察や死を恐れていない。
だから、逮捕されるくらいなら自殺する。
死を、恐れていない。
それは、何故か。
「ちょっと、出掛けて来る」
背中に声が掛かって、航は振り向いた。
コートを着込んだ侑が、散歩に行くみたいな気軽さで言った。
「その殺人鬼の手掛かりを探して来てやるよ」
「警察がうろうろしてる。職務質問されるぞ」
「好きなだけさせてやるさ。うちのボスが灸を据えられてる代わりに、仕事に貢献しなきゃな」
侑は白い歯を見せて、子供のように笑った。
彼は本物の殺し屋だった。連続殺人犯とは言え、素人に負けるようなことは天地が引っ繰り返っても有り得ないだろう。
湊の用意した身分証の類が、警察を騙せるくらい精巧な出来であることも分かった。いざと言う時にエンジェル・リードの後ろ盾が機能することも。
航には、侑を止めるだけの理由が無かった。警察よりも頼りになる存在だ。犯人が死なないことを願うばかりである。
侑がそのまま行ってしまいそうだったので、航はその背中に問い掛けた。
「ジャンクマンの正義って、何だと思う?」
航が訊ねると、侑が振り向いて言った。
「家出した子供に罰を下そうとしているか、救おうとしているかによる」
「救う?」
「いかれた殺人鬼は、よく言うんだ。この世から解放してあげたってな」
「狂ってる」
「全くその通りだ」
侑は笑って肯定した。
死は救済。
それが、ジャンクマンのイデオロギー。
しかし、イザベラは二度目の再会で殺された。一度目と何が違うのか。多分、其処に理由がある。
「じゃあ、行って来る」
「いってらっしゃい……」
航は殆ど上の空で、侑を送り出した。
死は救済。頭の中で、その言葉がぐるぐると回る。
俺は死後の世界を信じていない。
兄が言った。
この世は冷静な天国で、祝福された地獄。
父が言っていた。
あの世なんてものがあるかは知らないが、現実は目の前にある。航は温くなったコーヒーを飲み下した。丁度その時、玄関先から呼び鈴が聞こえた。
航がインターホンに出ると、カメラには心細そうなバシルが映っていた。航は肩を落として、玄関まで迎えに行った。
「おかえり、バシル。なんかあったのか?」
「さっき、パトカーと擦れ違ったよ。此処に来たの?」
航は答えを迷った。
郊外の田舎にパトカーが来ることは珍しい。しかも、二台も来ていた。近所では今頃、噂になっているだろう。
こういう時、近所付き合いの上手かった母の存在を思い出す。母は航に負けないくらい気が強く、しかも強かだった。母がいれば、葵くんは制服警官を引き連れて来るなんてしなかっただろう。
「俺の後見人がFBI捜査官なんだ。一人暮らしだから、心配してくれてる。俺は小さい時、よく喧華してたからさ」
「大丈夫だったの?」
「この通りだよ。バシルが心配するようなことは、何も無ぇよ」
航が笑うと、バシルも安心したかのように胸を撫で下ろした。心配をさせてしまったと言う罪悪感が胸に染み出す。航はそれを振り払うようにして、バシルをリビングに促した。
バシルは冷え切った体を温めるように、暖炉の前に両手を翳していた。後ろ姿が兄と重なって見える。この家にいた頃、兄もよく暖炉の前にいた。
航はブレンドコーヒーの入ったマグカップを、バシルに差し出した。白い湯気が沸き立ち、豊潤なコーヒーの匂いがする。バシルは礼を言って受け取ると、マグカップに息を吹き掛けた。
「お前、よくセントラルパークを走ってたって言ってたろ?」
「ああ、そうだよ」
暖炉の火に照らされたバシルは、まるで夕焼けの中にいるみたいだった。航はリビングテーブルの椅子に座り、問い掛けた。
「死にたいって言ってる奴は、いたのか?」
バシルは振り向いた。
アメジストのような紫色の虹彩は奇妙な輝きを放っている。見詰めていると、吸い込まれそうだった。
「若い子はね、よく言うんだ。繊細な年頃だから、何かあると、自分なんていらない存在なんだとか、死にたいとか、よく口にする。……でも、本当に死にたい訳じゃないんだ。死にたいくらい辛いって意味で、慰めて欲しいんだよ」
それは何となく、分かる。
殺すと決めたら、殺してやるなんて言わない。死にたいと零すのは、誰かに止めて、慰めて欲しいから。
未成熟な十代の子供。親に反発して、学校から遠去かって、ルールから逸脱することをアイデンティティの一つにする。
「イザベラとは、仲が良かったか?」
「イザベラ? 普通だよ。共通の友達がいて、偶に話すくらいだったかな」
「家出の理由、知ってるか?」
バシルは少し考え込むみたいに沈黙して、言った。
「ご両親は、いつも喧華していたらしいね。放任的な家だったみたいで、彼氏の家に泊まることも多かったみたい。最初の家出は、彼氏との喧嘩。次は……、お父さんとお母さんの離婚が決まった時だったらしいよ」
バシルは痛ましげに顔を歪めた。
大人は、いつもそうだ。自分達の都合に子供を巻き込んで、助けてもくれない。家を出た時、イザベラはどんな気持ちだっただろう。家族がバラバラになって行くのを眺めているしかなかった十代の少女。
「死にたいって、よく零してた」
バシルが、辛そうに言った。
十代の子供は生命力に溢れている筈なのに、どうしてか死に取り憑かれてしまう。イザベラもバシルも、そうだった。
そして、航は唐突に理解した。
ジャンクマンは偽善者。自分を正義の味方だと信じている。そして、居場所を失くした子供を誘き出して、死にたいと言った子供を殺害した。
確証は無い。こんなものは憶測だ。――だけど、妄想だと笑い飛ばすには、余りにも辻褄が合い過ぎている。
その時、携帯電話が鳴った。
もしかしたら侑か兄かと覗き込めば、それはアルバイト先の店長からだった。航が応答すると、店長は開店準備をするから人手が欲しいのだと言った。
一時は閉店も有り得たトラットリアが、また息を吹き返す。
エミリーは亡くなったが、容疑者とされていたダニエルの無実は証明されている。航は二つ返事でそれを受け入れた。あの店が、誰かにとっての居場所であることは間違い無かったから。
7.自殺志願者
⑼ジャンクマン
大都会の中心地にあるトラットリア・セプテムは、普段の賑わいが嘘のような静寂に包まれている。大勢の客で埋め尽くされる客席は伽藍堂で、騒がしいバックヤードや厨房も今は死んだように静まり返っていた。
航が訪れた時、表玄関は施錠が施されていた。
店長の促しで裏口から入ると、数人のスタッフが控え室に、暗い顔で頭を突き合わせていた。長い閉店期間の為に食材はダメになり、店は赤字、風評被害も酷く、平常営業に戻るには時間が掛かるだろう。
ジャンクマンが逮捕されたらすぐにでも開店出来るよう、店内の清掃やスタッフのシフトを組んで行く。ダメになった食材を廃棄し、業者に発注を掛ける。航は厨房の掃除をしながら、物寂しい静けさに耳を澄ませていた。
何処かで少女の啜り泣く声がする。
殺されたエミリーと仲の良かったアルバイトの少女だった。ダニエルはいない。店長は事務室に閉じ籠り、スタッフが仮面のような無表情で作業を続けている。
ジャンクマンの被害者は、四人。
航と同じくらいの子供達だった。追い詰められて行き場を失くした子供達は、悪い大人の手を取り、殺されてしまった。どんな気持ちだっただろう。その最期が一瞬で、せめて苦痛を感じる間も無かったと祈ることしか出来ない。
料理の受け取り口から、バシルが顔を覗かせる。
空元気みたいな笑顔だった。目の下に隈がある。家にも帰れず、家族にも会えず、働き口も無い。それでも、バシルは人前では落ち込まないし、泣き言も言わない。
「手が空いたら、客席の清掃に回ってくれる?」
バシルが言った。
航は手にしていたデッキブラシを壁に立て掛けて、厨房のスタッフを振り向いた。使われていなかったので、清掃自体はすぐに終わりそうだった。他の厨房スタッフが、航の担当区域を代わってくれた。
バックヤードを抜けて客席に行くと、無人のフロアは侘しい印象を受けた。掃除機の稼働する音がする。窓硝子を拭き、ポーション類を補充するスタッフ。航はダスターを手に取って、使われていないテーブルを消毒して回った。
店内は薄暗かった。バシルは俯いたまま掃除機を掛け、時々、鼻を啜った。エミリーもイザベラも、航には然程面識も無い赤の他人だったが、バシルはそうじゃなかった。
「犯人は必ず捕まる」
航が言うと、バシルが手を止めた。
泣きそうな笑顔が、兄にそっくりだった。
「俺も、そう信じてる」
バシルが言った、その時だった。
突然、バシルの背後に真っ黒い影が現れた。それは舌舐めずりをするかのような不気味な笑顔を浮かべ、硝子にべったりと張り付いている。
戦慄が体を貫いた。
「バシル!!!!」
航が叫んだ瞬間、バシルが振り返った。だが、その黒い影は薄笑いを浮かべて、何処かへ走り去った。航はバシルの首根っこを引っ掴み、窓硝子から距離を取った。
声を聞き付けたスタッフが駆けて来る。
表玄関は鍵が掛けられている。入れない。入って来るとしたら、それは。
生命の危機にも似た緊張が駆け巡り、航はバックヤードから裏口へ走った。あれが何なのか分からない。だけど、食事をしに来た客には見えなかった。
女性スタッフの悲鳴が迸る。裏口は半開きで、スタッフは顔面を蒼白にして尻餅をついている。重い足音が響く。航は足音を追い掛けて方向転換した。
そして、次の瞬間、銃声が響き渡った。
硝子の割れる凄まじい音と悲鳴が轟く。バシルの悲鳴が聞こえた。航がバックヤードを抜けて辿り着いた時、それは客席にいたバシルに銃口を向け、けたけたと笑っていた。
「助けに来たよ」
酷い嗄れ声だった。
身長は180cm前後、筋肉質。営業マンのような黒いコートを着ているが、ボサボサの頭は胡麻塩のようだった。肩口には埃のように頭垢が降り積り、離れていてもなお、悪臭がする。
航は怒鳴った。
「やめろ!!」
けれど、そいつは振り返りもせずにバシルを見ていた。
バシルだけを。
「君も助けて欲しかったんだろう?」
そいつは、うっとりと笑った。
「セントラルパークで初めて君を見た時、僕は天啓を受けたんだ。苦しむ人々に囲まれた君は、宗教画のように美しかった。だけど、君はみんなを救っても、誰にも手を差し伸べられはしない」
ボソボソと、独り言のようにそいつが呟く。
「それなら、僕が助けてあげる。君が助けられなかった子供も、君自身も」
スタッフの制止も、バシルの悲鳴も、航の怒号も届かない。そいつは硝煙の立ち昇る銃口を向け、一人芝居のように愉しそうに嗤っている。
「僕に君を救わせておくれ」
そいつの指先が引き金を引き絞る。航にはそれが、スローモーションに見えた。
何かを考えている余裕は無かった。間に合わない。殺される。その銃弾はバシルの眉間を撃ち抜いて、そいつは正義の味方と自分に酔う。
そんなのは、絶対に御免だった。
俺の兄は、友人の為に未来を捨て、家族の為にプライドも折った。兄が社会から転落した時、航は何も出来なかった。
あんな思いは、もう二度と。
もう二度と、嫌だ。
もう二度と、目の前で大事な人を失いたくない。
ただ、それだけだった。
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