⑽未熟な勇気

 金色の閃光が目の端で瞬いた。

 銃弾とバシルの間に割り込んだ航の前に、一人の男が躍り出る。


 それはまるで、一筋の流れ星のように。

 銃弾が航の体を貫くコンマ数秒の刹那、鉄を打つような高音が厳かに鳴り響く。


 美しい金髪が室内灯を反射し、朝日を浴びた水面のように光り輝く。向けられた背中は、まるでヒーローのようだった。


 ジャンクマンの顔が恐怖と驚愕に歪む。

 航はバシルに覆い被さったまま、愕然と眺めていることしか出来なかった。


 ジャンクマンは動転し、震える腕で銃を構え直す。最早、照準すら合わせられない。耳を劈くような銃声と、鋭い金属音が不協和音のように鳴り響く。銃口と対峙する彼の手には、銀色の何かが握られていた。


 恐ろしい悲劇が遠退いて、緊張が氷のように溶けて行く。深い安堵が滲み出て、航はその背中に向かって声を上げた。




「侑!!」




 侑は振り向かない。

 ジャンクマンが狂ったように乱射する。侑はそれを片手で薙ぎ払い、まるで巨人のような存在感で距離を詰めて行く。


 ジャンクマンが引き金を引いた時、乾いた虚しい音がした。弾切れだ。それでもジャンクマンは、侑に向かって引き金を引き続けた。




「会いたかったぜ、ジャンクマン」




 侑はそう言うと、ジャンクマンの胸倉を掴み上げた。

 宙ぶらりんになったジャンクマンが何かを喚き立てる。悲鳴だったのか、罵声だったのかも分からない。侑は僅かに身を引くと、勢い良くジャンクマンをテーブルに叩き付けた。


 テーブルの上に置かれていたポーションとシルバーが吹っ飛んで、ジャンクマンが濁った呻き声を漏らす。侑はジャンクマンをテーブルに縫い付け、その首筋に銀色の何かを当てた。




「さっきは随分と楽しそうだったな。テメェの正義を俺にも証明してくれよ」




 ジャンクマンが引き攣った声を漏らした。

 侑は寒気がするような微笑を浮かべ、一切の抵抗や反撃を許さない。


 その時、割れた窓の向こうからサイレンが聞こえた。

 侑は拘束する手を離さない。ジャンクマンの首筋に当てられた銀色の金属、航はそれに見覚えがあった。


 武装した警官隊が雪崩のように押し寄せる。




「武器を捨てろ!」




 警官隊の怒号が響く。

 無数の銃口を前に、侑は両手を上げた。警官隊が投降を求めると、侑の掌から銀色の何かが音を立てて落下した。


 航は、息を呑んだ。

 侑の手に握られていたのは、拳銃でもナイフでもなかった。


 それは、一本のだった。

 警官隊に包囲された侑が両手を上げて膝を突く。けれど、彼は銃はおろか、ナイフの一本すら持っていなかった。


 つまり侑は、何の変哲も無い何処にでもあるようなディナースプーンで、銃弾を弾き、武装した殺人鬼を制圧したのだ。


 天神侑は、超人的な身体能力を持っている。

 彼は生身で他者の肉体を破壊することが出来る。元殺し屋だと言う彼が、銃を持った殺人鬼を相手にスプーン一本で立ち向かったその意味を、航は知っている。


 死なない、殺さない、奪わない。

 侑が兄と交わした約束。


 警官隊の中に、葵くんの姿があった。

 傷一つ無い航と、スプーン一本で制圧した侑を交互に見遣ると、葵くんは深い溜息を吐いた。


 ジャンクマンが手錠を掛けられるのが、航にはフィクションのように見えた。警官に捕縛され、連行されるジャンクマンが負け犬のように喚き散らす。




「僕は正義の味方なんだ! 子供達を救ってあげたんだ!」




 ――本当に、狂っていたんだ。

 航は唖然とした。この殺人鬼とは、絶対に分かり合えない。こいつは司法の下で裁かれ、相応の罪を負い、社会の外に出さなければならない。更生なんて望めない。赦しなんて与えてはならない。


 あれは、人の皮を被った悪魔だ。

 弾かれたかのようにバシルが顔を上げた。




「死が救いだなんて、絶対に違う!!」




 血を吐くように、バシルが叫んだ。けれど、連れられて行くジャンクマンは同じことをずっと口にしていた。


 自分は選ばれた。子供を救ったのだと。

 同じ言語を話しているのに、言葉すら通じない。相互理解なんて有り得ない。其処に広がる境界線は、人種や国境なんかよりも遥かに深い、断崖絶壁だった。


 ジャンクマンがいなくなると、警官隊は侑を包囲した。だが、侑は抵抗せず、そのまま連れ去られてしまいそうだった。其処に葵くんが割って入った。




「また会ったな、天神侑」




 葵くんの声は冷たく乾いている。

 情で動く人間ではない。航が割り込もうとすると、葵くんは無表情で警官隊を退げた。




「テメェが何者なのか知らねぇが……、うちのクソガキが世話になったな」




 葵くんは、そう言って笑ったようだった。

 それが葵くんなりの感謝の言葉であることは、知っている。侑は意味深に微笑むと、肩を竦めた。


 店内は酷い有様だった。窓は割れ、テーブルは吹っ飛び、壁には銃弾が穴を開ける。けれど、誰も死んでいない。

 生きていると言う実感が急に湧き出して、安堵感に両眼が熱くなる。航はその場に崩れ落ちた。生きていて良かった。――自分も、バシルも、侑も。


 航が蹲み込んでいると、目の前に革靴が見えた。




「よぉ、航」




 侑の声だった。

 警官隊の犇く店内で、侑は柔らかに微笑んでいる。




「お前も、か?」




 揶揄うような口調でありながら、侑の目は微塵も笑っていない。仄暗い笑みを口元に浮かべ、侑は滔々と言った。




「咄嗟に体が動いちまうってのは、俺もよく分かる。だけどな、これを見ろ」




 侑の指先には、金属で出来た金色の筒があった。

 銃弾。指先一つで人を殺す凶器。侑は掌に薬莢を転がした。




「こいつはフルメタルジャケットって呼ばれる銃弾で、大抵の銃はこいつを装填してる。こいつは貫通力があって、例え車の装甲でも穴が開く。人体なんて、簡単に突き抜けるんだぞ」




 血の気の引く音が、聞こえたような気がした。

 侑は薬莢を握ると、眉間に皺を寄せた。エメラルドの瞳には、獰猛な光が宿っている。




「他人を庇うのも結構だが、銃弾の性質くらい分かっておけよ。この世界には邪魔者を貫通させてターゲットを撃ち抜く奴も、跳弾を操る奴もいる」




 航がバシルを庇ったことに、論理的な理由は無かった。だが、侑が現れなければ、ジャンクマンの銃弾は航諸共、バシルを撃ち抜いていたのだ。


 自分がやったことは、無意味だった。




「俺だって、いつでも間に合う訳じゃねぇ。……お前が死んだら、湊が独りぼっちになっちまうぞ」




 侑は薬莢を捨てると、腹立たしげに言った。

 その声は苦渋に染まっている。反論の余地は無かった。俺は無意味に自分を危険に晒しただけだった。だけど、あの時の自分の行動全てを否定する程、航は賢く生きてはいない。




「航は勇敢だった」




 バシルが、言った。

 侑は小馬鹿にするみたいに鼻で笑った。




「勇敢な者は早死にする」




 侑の声には、深い絶望が滲んでいる。

 それは、彼が自分とは別の世界に生きていて、今も地獄の底を彷徨っていることを痛感させた。


 バシルが何かを言い募ろうとするのを、航は制した。

 逆の立場だったら、自分も同じことを言ったと思う。善意が美談になるとは限らない。


 この世は理不尽と不条理で溢れている。

 侑は皮肉っぽく笑って、まるで何事も無かったかのようにトラットリアを出て行った。














 7.自殺志願者

 ⑽未熟な勇気












 ニューヨークを騒がせた連続猟奇殺人が解決したのは、二月の半ばだった。大寒波に襲われた街は豪雪に見舞われ、凡ゆる交通手段は麻痺し、まるでロックダウンしたかのようだった。


 流石の大学も自然の脅威には太刀打ち出来ず、吹雪が止むまで休校となった。人々は家に閉じ籠り、ワイドショーはジャンクマンと呼ばれた殺人鬼の話題で持ち切りだった。


 ジャンクマンは、一流企業に勤めるやり手の営業マンだった。だが、不況の波を受けてリストラされ、彼は失意の中、気を紛らわせる為にセントラルパークを彷徨っていた。


 そんな時、バシル・イルハムと言う青年に会った。バシルは初対面の相手にも気さくに話し掛け、相手の言葉に耳を傾け、否定もせずに励まし続けた。

 そんなバシルに差別的な罵声を浴びせる者や、怒鳴り散らす者がいた。それを見たジャンクマンは人々や社会に深い憤りを覚えた。そして、バシルに同情し、彼が救えなかった子供達を代わりに自分が救ってやろうと考えた。


 ジャンクマンはセントラルパークに通い、家出した子供を自宅に誘った。初めは子供達から感謝されるだけで満足した。しかし、仕事を失くしたジャンクマンは子供達を養うことなんて出来る筈も無い。そんな時、匿った子供の一人が言ったのだ。


 もう、死にたいと。


 殺意と言うものは通り物と同じで、いつ誰の元に訪れるのか分からない。ジャンクマンは子供の願いを叶えた。銃弾に倒れた子供の亡骸を見た時、形容し難い程の感動と充足感を覚えたのだと言う。


 ジャンクマンの自宅には、殺害された八名の子供の頭部が保管されていた。それ等はクーラーボックスに入れられ、まるで眠っているかのような安らかな顔付きをしていたと言う。


 ジャンクマンはバシルを殺害した後、自殺するつもりだったらしい。金は底を尽き、家賃の支払いは滞り、その日食うものも無い。トラットリアの襲撃は、追い詰められたジャンクマンの自暴自棄な心中だった。


 航には、一つも共感することが出来なかった。

 ジャンクマンはいかれた殺人鬼だった。バシルは不運に巻き込まれ、駆け付けた侑によって制圧され、逮捕された。


 航は携帯電話を取り出した。

 兄からの定時連絡が来るまで、カウントダウンする。

 予定通りの時刻ぴったりに携帯電話が鳴って、航はコール音が途切れる前に応答した。




「ジャンクマン、捕まったぞ」




 航が言うと、湊が肯定した。




『侑から聞いてる。航が無事で、本当に良かった……』




 兄の声は微かに震えていた。

 侑から逮捕の顛末を聞いた時、兄はどんなに肝を冷やしたことだろう。航にとっては、唯一とも呼べる家族である。心配をさせたと言う一点に於いては、反省するべきだった。


 ただ、自分達の間にはそんな言葉は無用である。

 互いが生きている。其処がどんな世界であっても、無事で笑っていてくれたなら、それだけで良かった。




「侑に叱られたよ」

『うん。……でも、俺はどっちの気持ちも分かるよ』




 湊が言った。




『失敗することよりも、やらなかった後悔の方が辛い。褒められる遣り方ではなかったけれど、俺はお前を誇りに思う』




 航は笑った。

 同じ場面にいたら、きっと湊も飛び出した。もしかしたら、バシルを庇うよりもジャンクマンに飛び掛かっていたのかも知れないけれど。




「お前に慰められる程、落ちぶれてねぇよ」

『それなら良かったよ』




 此処で怒って言い返すような兄貴だったなら、きっと生き延びてはいなかった。理不尽や不条理を堪えて、堪えて、堪え抜いて、今日も生きている。


 俺だって、いつでも間に合う訳じゃねぇ。

 侑の声が蘇る。銃口を突き付けられた自分を見た時、侑はどんな気持ちだっただろう。兄との約束の為に、スプーン一本で殺人鬼に立ち向かった侑は、どんな覚悟をしただろう。


 窓の向こうは真っ白に染まっている。食料は買い込んでいるから、数日は家に篭っても大丈夫だ。この余暇に、湊に勧められた本を読み切ってしまおう。




「そういえばさ」




 航が言うと、電話口で湊が返事をした。

 相変わらず、何処で何をして、何がしたいのかもさっぱり分からない。けれど、生きている。今日も明日も、生きて行く。




「侑の好物って何?」

『好物か如何かは知らないけど、一番喜んだのは出汁巻き玉子だったかな』




 大根下ろしもたっぷり載せてやってね。

 そう言って、湊が笑った。


 出汁巻き玉子は、もう随分と作っていない。そういえば、侑は西洋人みたいな容姿をしているが、生粋の日本人だった。和食の方が好きだったのかも知れない。




『あと、甘い物も結構好きみたいだよ』

「意外だな」

『だろ? 可愛いところあるんだよ』




 湊が朗らかに笑った。

 あの超人的な元殺し屋も、兄から見たら可愛げのある仲間か。兄が大物なのか、侑が人間味のある男なのか、どちらなのか。


 しかし、お蔭で目標は達成出来そうだった。




「ありがとな」




 航が言うと、湊も笑った。




『豚が飛ぶぜ』

「言ってろ」




 じゃあな、と航は言った。湊は、またねと言った。

 通話を終えた携帯電話をソファに放り、航は立ち上がった。二階の客室が開いて、侑が欠伸をしながら階段を降りて来る。航がキッチンに入ると、侑がカウンターから覗き込んで来た。




「今日の朝飯は何だ?」




 先日の物騒な剣幕は全くない。天神侑は基本的には常識的で気の良い好青年である。航は卵焼き機を取り出して、笑ってやった。




「出汁巻き玉子」




 航が言うと、侑が笑った。

 それはまるで、冬を超えた蕾が花開くかのような爽やかな笑顔だった。


 兄の作った出汁巻き玉子がどんな出来栄えだったのかは知らないが、料理の腕では負ける気がしない。食べることは生きることだ。俺達は大勢の犠牲の上に生きている。


 地獄の底を彷徨う侑が、生きていて良かったと思えるように、少しでも優しい世界であるようにと、切に願う。


 航は袖を捲った。




「湊より美味いって言わせてやるから、楽しみにしとけよな」

「楽しみにしてるよ」




 そう言って、侑は微睡むように微笑んだ。

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