8.彷徨う刃

⑴ウジャトの目

 It is blood which moves the wheels of history.

(歴史の歯車を動かすのは血なのだ)


 Benito Mussolini






 粉のような銀色の雪がニューヨークの街を包み込む。

 二月も半ばを迎えたが、未だ春の兆しは無い。冬は堅固な檻のように仄暗く、人々を執拗に取り囲む。


 侑は、マンハッタンのアートバーゼルを訪れていた。

 四日間掛けて行われる現代アートの祭典だ。前半二日間に入場が許可されているのは、特別なVIP招待者だけだった。


 見事な大理石の壁に、静かな息遣いと足音が木霊する。擦れ違う富裕な人々の優雅な足取りと穏やかな嘆息が、広い館内の彼方此方で聞かれた。


 エンジェル・リードの名前と湊のコネクションにより、幸運にも前半の二日間に招待された侑は、白い壁に立て掛けられた額縁を眺めていた。近代的な価値観を絵画や彫刻などで表現する芸術家は、名を売るには最大のチャンスだった。事実、館内に展示された作品には売却済みの札が貼られ、熱心なコレクターや美術館関係者が既に購入を決めている。


 芸術のことは、正直、よく分からない。

 だが、美しいものに感銘を受ける情緒だけは最低限持ち合わせていたので、館内を眺めて回るだけでも楽しかった。


 館内の大きなホールの天井に、長いレースのタペストリーが飾られていた。窓を背景にしたその作品は、スポットライトを浴びて、白い床に影絵のような繊細な模様を映していた。


 幾何学的に広がる模様に、動物が隠れている。

 群れる鳥のようにも見えるが、中央には猫のような大きな目がシンボルみたいに織り込まれていた。幻想的な雰囲気を醸し出す作品は、美しかった。日が傾けば、この作品は異なる様相を呈するのだろう。


 面白いな、と感じて作者の札へ目を向けると、既に売却済みだった。肩透かしを食らったような心地で、侑はやがて売り払われるだろう美しい芸術品を見詰めていた。




「それが気に入りましたか?」




 よく鞣した皮のような、柔らかな声がした。

 侑が振り向くと、其処には白いシャツを纏った学芸員のような男が立っている。白髪混じりの黒髪は短く整えられ、年齢以上に若く見える。黒縁眼鏡の奥には青みのあるグリーンの瞳が煌々と輝いていた。


 スタッフと記された腕章を見遣り、侑はタペストリーに向き直った。




「ああ、残念でしたね。もう売却済みだ」




 男は眼鏡のブリッジを指先で上げて、残念そうに言った。

 アートバーゼルに出品される芸術作品は、若い芸術家が名を売るチャンスだった。この美しいレースのタペストリーも、何処かの裕福な人間に売り渡されるのだろう。




「神秘的な作品でしょう? これは宗教作品なんですよ」




 宗教作品?

 侑が尋ねると、男はタペストリーを指差した。




「作者はエジプトの方です。彼処にいる鳥は、イビス神。それから、こっちはトート神」




 エジプト神話に出て来る神様だったのか。

 侑は特定の宗教を信仰していないので理解が薄く、宗教作品と聞いて落胆する程だった。男は深碧の瞳を爛々と輝かせて、タペストリー中央の猫の目を指し示した。




「あれは、ホルスの右目。ウジャトの目とも呼ばれますね。満ち欠けする月に倣って、再生や修復、癒しの象徴とされます。この作品も、夜になればまた違った顔を見せてくれるでしょう」




 月光に照らされたレースのタペストリーを想像する。

 群青の砂漠に差し込む金色の月光と、華奢なレースの影はさぞ美しいだろう。


 しかし、売却済みならば仕方ない。

 侑は足を踏み出した。擦れ違う人々が振り返り、息を漏らしたり、奇異の眼を向けて来たりする。煩わしくなって歩調を早めた時、侑は或る工芸品に目を奪われた。


 それは、一本のナイフだった。

 刀身は朝日を浴びた水面のように七色に輝き、不可思議に透き通って見えた。刃の根元は唐草模様のように繊細な装飾が施されており、機能性を完全に無視している。グリップは血のように赤く、金色の扇模様が刻まれていた。


 実用的ではない。振り回せば根元から折れてしまうだろう。だが、侑は何故か、そのナイフから目を離すことが出来なかった。


 滑らかな曲線を描く剣の腹、オーロラパールの切っ先。

 上手く獲物の首筋に滑らせれば、それは糸のように細く、そして剃刀のように鋭く皮を引き裂くだろう。もしかしたら、血も出ないかも知れない。


 芸術とは、表現である。

 以前、湊が言っていた。

 見る者の心を打つならば、それは芸術なのだと。

 ならば、誰にも振り返られないナイフは、侑にとっては間違い無く芸術そのものだった。


 ぼうっと眺めていると、付いて来たスタッフの男が問い掛けた。




「これがお気に召しましたか?」




 男は、富裕層特有の余裕に満ちた声をしていた。




「買い手は付いておりませんよ?」

「……別に」




 気に入った訳じゃない。ただ、何か気に掛かる。

 このナイフを握った自分が、頭の中で鮮明に浮かび上がる。それを振り下ろした時、掌に返って来る反動、その一つ一つが、鬱陶しく脳裏を掠めるのだ。


 スタッフの男が眼鏡の奥で、すっと目を細めた。




「もしもご購入を検討されるのならば、ご注意下さい。このナイフは、曰く付きの品物です」

「曰く付き?」




 神妙な顔をして、スタッフの男は頷いた。




「この刃は人の血を吸うと言われています。今から五十年前に北欧で生み出され、イギリスの工芸家が装飾を施し、様々な資産家の元を転々としました。しかし、このナイフを手にした方は非業の死を遂げております。……作者も、含めて」




 その口調は淡々としているけれど、言葉の節々に警告を感じさせる。侑は神を信じていないし、呪いなんてものは、考えたことすら無かった。


 男の話を笑い飛ばしてやっても良かった。――けれど、何か気になる。


 何と形容するべきなのだろう。この薄氷の上を裸足で歩くような、暗闇に引き摺り込もうとするような、中毒性のある美しい刃紋。




「今回、買い手が付かなければ、ニューヨークの美術館に寄贈されることになっております」




 それは、良いな。

 呪いなんてものは毛程も信じていないが、例え手に入れなくても、この美しい刃が好きな時に見に行けるのは有難いことだ。


 ところで、と男が言った。




「学芸員の方ですか? それとも、コレクションを?」




 侑は口元を結び、思案した。

 そして、懐の名刺入れから銀色のカードを取り出して、男に差し出した。男はカードをまじまじと見詰め、微かな驚きを表情に浮かべた。




「貴方がエンジェル・リード?」




 男は目を見開いた。

 侑は悪戯っぽく笑った。エンジェル・リードの名が、表社会でも聞かれる程、真っ当な企業として認められているのは誇らしかった。あの日の選択は間違いじゃなかったのだと、自分に胸を張りたくなる。




「エンジェル・リードは、未来ある若い芸術家に資金援助をしています。もしも、貴方のお知り合いにそんな方がいらしたら、是非ご紹介下さい」




 男は一応納得したのか、名刺を懐へ入れた。

 会場をぐるりと一周したが、投資したいと思えるような作者の作品には巡り合わなかった。目を見張るような素晴らしい作品であっても、作者の人間性まで判断することは出来ない。


 来栖凪沙という若い芸術家がいた。

 彼女は間違いなく売れる芸術家だったが、パスファインダーと言う悪魔の囁きに取り憑かれ、その両手を血に染めた。


 彼女を見出したのは、侑だった。

 彼女が復讐者となって事件を引き起こし、エンジェル・リードはその尻拭いに奔走している。侑はそのことに僅かながら、負い目を感じていた。


 名刺を受け取った男が、思い出したみたいに手を打った。




「エンジェル・リードは『神の目』を持っているという噂を聞いたことがあります。それは本当でしょうか?」




 相変わらず、広まって欲しくない情報ばかりが噂される。

 侑は肩を竦めて笑った。




「さあ、知りませんね」












 8.彷徨さまよう刃

 ⑴ウジャトの目












 喫煙エリアは会場の外にあった。

 近年は、喫煙者に対する規制が厳しい。趣味趣向を制限しようとする動きは圧政に似ているけれど、この世の中の人間は喫煙者に対しては当て嵌まらないと考えているらしい。


 四方を半透明の衝立に囲まれ、屋根も無い。

 まるで、見世物小屋である。人権団体が騒ぎ出さないのは、喫煙者に人権が認められていないからなのか。


 数時間ぶりにニコチンを摂取し、体が痺れるような安心感に包み込まれる。侑は灰皿の前を陣取り、寒風の吹き込む喫煙エリアで携帯電話を取り出した。


 寒さに堪えたのか、利用者は一人二人と減って行く。最終的には侑一人が取り残された。

 着信履歴から目当ての番号を呼び出し、耳に押し当てる。暫くコールが続いて、煙草が半分程の長さになった頃に漸く繋がった。




『やあ、侑。ご機嫌いかが?』

「なんだ、その挨拶」




 侑は笑った。

 澄んだボーイソプラノは、スピーカー越しだと少女の声にも聞こえた。侑は煙草の灰を灰皿に落とした。




「ニューヨークのアートバーゼルに来てる。名品珍品取り揃えてたぜ」

『へえ。良いのがあったら、買ってもいいよ』

「あったらな」




 侑が言うと、湊は息を漏らすみたいに笑った。

 日本を離れて二週間経つ。毎日のように怪我の具合だとか、何を食べたとか、そんな他愛の無い電話をする。


 大事な人間には、生きていて欲しい。幸せでいて欲しい。例え、側にいられなくても。だけど、遠去けなくても良いと分かってから、声だけでは満足出来なくなって来た。


 湊は怖いもの知らずで無茶ばかりする。

 侑は、どんな理不尽や不条理からも守ってやりたいと思う。許されるのならば、彼の隣で。




『報告がある』




 湊が、固い声で言った。

 侑は居住まいを正した。ろくな話じゃないことは経験則として知っている。




『伊能雅美って人がいただろう? 首都圏が停電した夜に、蓮治が射殺した』

「ああ」

『死因は一目瞭然だった。でも、この国では変死として処理するから、司法解剖されたんだ』




 なんだか、変な話だ。

 侑の生まれた国は、臭いものには蓋をする。明らかな射殺事件でも、事件性の無い変死体として処理し、その手続きの為に解剖する。本末転倒という奴ではないだろうか。




『司法解剖の執刀医が、伊能雅美の脳から電子機器の破片を発見した。……蓮治の腕が良過ぎるせいで、壊れてしまっていたんだけど』




 湊が苦々しく溢し、侑は歯噛みした。

 ハヤブサの三代目――立花蓮治は、物事をややこしくする名人である。先日のエトワスノイエスの一件については、此方に落ち度は無いと思っている。損害賠償請求したって良い筈だ。




『あれは、ブレイン・ネットワークインターフェースだ』




 ブレイン・ネットワークインターフェース。

 それは、パスファインダーの伝達手段の一つ。脳内に埋め込んだ機械を介して、離れた相手と情報の遣り取りをする。秘匿性が高く、足も付かない。


 すると、つまり。

 侑は短くなった煙草を灰皿に落とした。




「そいつも、彗星の一つだった?」




 侑が訊ねると、湊は肯定した。

 エンジェル・リードが追っているのは、蛍と呼ばれる武器商人。停電の夜、湊の指示でハヤブサが射殺したのは、別人だった。どうして、そんな間違いが起きたのか。侑も湊も、引っ掛かっていたのだ。




「奴等も、一枚岩じゃなかったってことか」




 裏切りもお手の物だったという訳だ。

 伊能は、蛍に利用され、自分達は欺かれた。何故か。情報で劣っていたからだ。


 ブレイン・ネットワークインターフェースは、脳に直接機械を埋め込む。そんな状態で身内を欺けるものなのだろうか。侑にはよく分からなかった。




『奴等の使うブレイン・ネットワークインターフェースは、俺達がこうして電話するよりも、遥かに効率的で秘匿性の高い伝達手段だと思う。だけど、問題はある』




 湊が言った。




『人の脳は必ずしも合理的判断をする訳じゃない。他人の言動に引き摺られるんだ』

「まあ、そうだろうな」

『人は、より強烈なカリスマ性のある思想に傾倒する。……それは或る意味、洗脳に近いのかも知れないね』




 相手が武器を持って襲って来るなら、幾らでも相手をしてやる。だが、それが脳内ではどうしたら良いのか全く見当が付かない。


 湊は、日本の司法にコネクションがある。

 解剖記録もその伝手で入手したのだろうが、侑は心配だった。湊は悪知恵の働く男だが、まだ19歳の子供だった。神の目と称される嘘を見抜く能力を持っていたとしても、奸謀、銃弾の飛び交う戦場に生きるには早過ぎる。




「……あんまり、無茶すんなよ」

『分かってるよ』

「お前がいないと、俺が困る」




 スピーカーの向こうで、湊が笑った。

 どんな顔で笑ったのだろう。照れ笑いか、悪童の笑顔か。どちらにしても、目の前で見られないことが残念だった。

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