⑵透明人間の独白
銀色の雪原に、真っ白い石碑が突き立てられている。
其処に刻み込まれた名前に、侑は唇を噛んだ。
ニューヨーク郊外。豊かな自然に囲まれた墓所は、寒さの為か人気は無い。静かな墓所に、鐘の音が厳かに響き渡る。
侑は手にした切花を墓に供え、石碑を見下ろした。
それは、湊と航の両親の墓だった。昨年の爆弾テロに巻き込まれて亡くなり、葬儀では大勢の人が悲しみに暮れた。惜しまれ、悼まれ、冥福を祈られ、二人の両親は弔われた。
あの時、湊も航も泣かなかった。
湊は人形のような無表情で、航は鋭い眼光を石碑に向けていた。
私は甦りであり、命である。
私を信じる者は、例え死んでも甦る。
また、生きていて、私を信じる者はいつまでも死なない。
貴方はこれを、信じるか。
牧師の言葉が耳の奥に蘇る。侑は信仰を持たないし、神を信じない。だが、それを信じることで彼等の両親が救われるというのならば、信じても良かった。
鐘の音に混ざって、車のエンジンの音がする。侑は神経を研ぎ澄ませた。雪を踏み分ける小気味良い音が聞こえる。生き物は生きているだけで音を発生させる。呼吸、拍動、歩調。――武器を持っている。
侑は背を向けたまま、懐に手を伸ばした。
目的地のある人間の歩調だ。だが、殺意は感じない。
銃のグリップを握る。あと一歩近付いて来たら、振り返る。侑が身構えた時、聞き覚えのある声がした。
「なんで、こんなところにいるんだ?」
8.彷徨う刃
⑵透明人間の独白
抑揚の無い低い声だった。
振り向くと、喪服のような真っ黒のスーツを着た男が立っていた。それは雪景色の中であるにも関わらず、まるで透明人間のように存在感が無い。
神木葵は、切れ長な目を僅かに見開いていた。
湊と航の後見人で、現役のFBI捜査官。
生真面目で偏屈。だが、あの双子を本当に大切に思ってくれている。侑は警戒を解き、懐から手を抜いた。
「合理主義者は、墓参りなんてしないと思ってたぜ」
神木の手には、白い霞草の花束があった。
どうやら、目的は同じらしい。
神木は怪訝な顔をしていたが、侑が墓前を譲ると舌を打った。神経質そうな男だった。自分にも他人にも、厳しそうだ。あの双子にも、そうだったのだろうか。
「世の中、理屈で割り切れることばかりじゃないのさ」
神木はそう言って、墓前に花を供えた。
短い黒髪、不健康そうな白い肌。煙草の臭いがして、無性にニコチンが欲しくなる。神木は静かに手を合わせている。伏せられた目の下に、薄らと隈があった。FBIは多忙だと聞く。彼も例に漏れず、仕事に忙殺されているのだろう。
この男は、どういう人間なんだろう。
湊と航の両親は死んだ。彼等にとって身内と呼べる存在はとても少ない。神木が彼等の味方でいてくれるなら、心強いけれど。
「アンタ、あいつ等の後見人なんだってな。二人共、命知らずだから心配だろう」
「命知らずは、血筋だよ。父親もいかれてた」
「ああ、航から聞いたことがあるよ。メサイアコンプレックスの狂人だったって」
侑が言うと、神木は振り向いた。目の前にいても、陽炎のように存在感が無い。暗殺者だったら売れただろうな、と侑は思った。
神木は意外そうに目を丸めていた。
「航がそういう話をするのか」
「素直だからな」
クソ生意気で、可愛い子供である。
ジャンクマンの襲撃時には銃口の前に躍り出て、侑は心臓が凍る心地がした。他人の為に命を張れる人間は少ない。航は無謀であるが、勇敢だと思う。
神木は苦笑した。
「あまり自分のことを話す奴等じゃないだろ?」
「まあ、そうだな。でも、訊いたら教えてくれるよ。根が親切だ。両親の教育が良かったんだろう」
「そうだったら、良いんだけどな」
何かを含む言い方だった。
侑は、崩壊した家庭環境の中で育った。だから、湊や航に幸せな幼少期があったことが嬉しいし、愛されて来たことが誇らしかった。
だけど、それだけではなかったのだろうか。
侑が見遣ると、神木は墓を眺めて言った。
「湊は、大人に反抗しない子供だった。あいつが俺に反抗したのは、この前の電話が初めてだ」
「へえ」
「反抗しないからって、黙って従う奴じゃないんだがな……」
神木は嫌そうに顔を顰めた。
あの二人の父親は、家を不在にすることが多かったらしい。もしかしたら、この神木葵は父親以上に彼等と関わって来たのかも知れない。
相当、手を焼いたのだろう。
地雷原みたいな航と、反抗しないが従いもしない湊。二人は幼い頃から派手な喧嘩をして来たらしい。
しかし、なんと幸福な幼少期だっただろう。
派手に喧嘩をしても、仲直りが出来る。周囲の大人は苦労しただろうが、彼等が羨ましいくらいだった。
「反抗期は自立の一歩だそうだ。……だから、まあ、良かったんじゃねぇの?」
「良かった?」
「喧嘩の一つも出来ないよりは、マシだろ」
侑は、兄弟喧嘩というものをしたことが無かった。
支配的な父親の下で、弟を守りながら生きるだけで精一杯だった。侑は、弟に反抗されたことがないし、弟も我儘一つ言わなかった。
そういえば、自分も湊に反抗されたことが無い。
口喧嘩したら、負けそうだ。
向こうが手を出しても、自分はやり返せないだろう。
どんな言葉に傷付き、どんな風に触れたら壊れないのか。対等な友達になろうと約束したが、その日はまだ来ない。慎重なのか、臆病なのか、ずっと距離を測り続けている。
神木は目を瞬いた。
「お前、ポジティブだな」
「悲観的になっても得しないからな」
「誰だって好きで悲観してる訳じゃない」
神木は墓石を見詰めると、力無く笑った。
まるで、贖いを終えた罪人のようだった。
「アンタは、俺が知る司法の人間とは随分と違う」
侑は、日本では国家公認の殺し屋だった。
所属は警察庁公安課であるが、表舞台に立つことは無く、上の命令に従って人を殺すことが仕事だった。恨まれていたし、憎まれていた。
全ての警察官が正義の味方という訳じゃない。
官僚の職場では上下関係が明確で、異物は疎まれる。日本という国は平和ボケしていて、海外の脅威に対して警戒が薄い。そのせいで後手に回り、侑が敵勢力に対して血の粛清を行うことも多かった。
命令はするが、自分の手は汚したがらない。
それが、侑の知る司法の人間だった。
それに比べて、この神木葵という人間は、自分に似ている。
「人殺しの臭いがする」
「犬みたいだな」
神木が軽蔑するみたいに言い捨てる。
アメリカは銃社会だ。日本よりも規制が緩い。FBI捜査官ともなれば銃を撃つ機会も多いだろう。だが、国家に飼われていた殺し屋の自分とも、いかれた殺人鬼のジャンクマンとも、神木葵は何かが違う。それが何なのか侑には言語化出来ない。
神木は、干渉も詮索も邪推もしない。
初対面の時とは大分、印象が違う。生真面目で神経質、能面のような無表情と粗雑な言葉遣いからは読み取れないくらい思慮深く、繊細。――裏社会の人間とは、違う。
「なあ、捜査官」
何が違うのだろう。
肩書きか、使命感か、背負っているものか。
生まれか、育ちか。侑は声が震えないようにと、腹に力を込めた。
「人殺しにも、明るい未来はあるか?」
侑が問うと、神木は不思議そうに首を捻った。
「あるんじゃねえの?」
どうしてそんな当たり前のことを訊くんだと言わんばかりの顔付きだった。侑は、胸が塞がれるような心地だった。
そうか、あるのか。
血塗れの両手でも、後悔ばかりの過去でも、過ちばかりの人生でも、明るい未来は残されているのか。
湊が、航が言っていた。
侑が心から幸せな未来が見てみたい、と。
侑はそっと息を逃した。
「幸せって、なんだ? 俺には、それが何だか分からない」
俺は、あいつ等に何をしてやれるだろう。人並みの人生なんて望んでいなかったし、ろくな死に方はしないだろう。彼等は、そんな俺の人生に舞い降りた希望の光だった。道連れにするつもりは無い。――そんなつもりは無いのに、あいつ等は当たり前みたいに願ってくれるから。
神木は懐から煙草を取り出すと、使い捨てのライターで火を点けた。紫煙が細く伸びて、空に吸い込まれて行く。
「お前の幸せを願う人間がいる。それ以上に幸せなことなんてあるのか?」
目から鱗が落ちたようだった。
神木は煙を吐き出して、少しだけ笑った。
「生きていてやれよ、天神侑。お前が心からあいつ等を大切だと思うならな」
神木は携帯灰皿に煙草を押し付けて、不敵に笑った。
何処か皮肉っぽい笑い方は、あの双子に似ている。この男は、正真正銘、彼等の育ての親だ。
親というものがどういうものなのか、侑には比べられるだけの物差しが無い。だが、信じられる相手かどうかは、分かる。
神木は墓石を見遣ると、踵を返した。そのまま立ち去ってしまいそうな背中に、侑は言った。
「アンタは立派な保護者だよ。年長者は、疎まれたとしても正論を言わなきゃならねぇ時がある。甘やかすだけが教育じゃねぇ」
「お前、いくつだ?」
「26歳だ。今年で、27か」
振り向いた神木が、意外そうに目を丸めた。
誕生日を祝ったことも、年齢を指折り数えていた訳でもないので、少し自信が無い。だが、感心してしまった。
もっと早く、何処かでろくでもない死に方をすると思っていた。人並みの生活も人生も望んでいなかったが、世の中は何が起こるか分からないものだ。
神木は鼻を鳴らした。
「まだ若造だな」
「そうらしいな」
「なんだか、よく分からない奴だな」
侑は少し笑って、懐に手を伸ばした。指先が煙草に触れた時、航の声が聞こえた気がした。
煙草なんて百害あって一利なし。
その通りなのだが、生きていると何かに縋りたくなる時がある。しかし、この苦労人の保護者を労ってやりたい気持ちもあったので、侑は手を引っ込めた。
「あいつ等に何かあったら、アンタに相談することにする」
「それは、連絡が来ないことを祈るばかりだな」
違いない。
侑は笑った。
神木は目を伏せて笑うと、遽に顔を上げた。
透明人間のような希薄な存在感は、空気に溶けてしまいそうだった。
「……昔、あいつ等の父親に言われたことがある」
神木は静かに息を吸い込むと、月光のように柔らかに言った。
「失っても、失っても、希望はある。だから、前を向いて生きて行くしかないんだよ」
「……それは、励ましか?」
「さあな」
神木は肩を竦めた。
「未熟者だが、大事な家族なんだ。守ってやってくれ」
他愛のない口約束のようにも、墓前での誓いにも聞こえる。侑は背筋を伸ばした。
「当たり前だ」
侑が答えると、神木は柔らかに笑った。
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