⑶シックスセンス
「人間って歳を取ると、声がでかくなるのは何でなの?」
トラットリアのレジに肘を突いた航が、退屈そうに言った。
透明な日差しが差し込む休日の午後、店内は人で賑わっていた。仲睦まじいカップルに、優しげな老夫婦、流行に敏感そうな若い女性。トラットリア・セプテムは、先日の殺人事件で一躍有名店となっていた。
風評被害で閉店も危惧されていたが、今では世間の話題を集め、客足が絶えない。猫の手も借りたいくらいだと、航が覚えたての日本語で言っていた。
客が増えると収益も上がるが、同時にクソみたいな客も来る。
侑が店を訪れる少し前、性質の悪いクレーマーが来たらしい。運悪く対応することになった航は、意味不明の苦情を黙って堪え抜いたそうだ。
「顔を真っ赤にして、唾飛ばして、みっともねぇ。ああいう大人にはなりたくないね」
侑は苦く笑った。
元来、航は短気な性格である。そんな男が理不尽なクレームに言い返しもせず、拳を振り上げなかっただけでも相当な努力が窺える。侑がその場にいたら、相手を窓硝子の向こうに放り投げていた。
「理由を説明しろって言う癖に、聞いたら怒るって意味分かんねぇよな。怒る為の理由が欲しかっただけじゃねぇか」
「そうだろうな」
「あー、腹立つ!」
航が舌を打った。
猫なら逆毛を立てて、地面に尻尾を叩き付けていたと思う。
綺麗なアーモンドアイが釣り上がり、濃褐色の瞳に火花が散る。航の爪先は忙しなく床を叩き、如何にかして苛立ちを霧散させようと苦心しているのが分かる。
貧乏揺すりでは怒りが収まらなかったらしく、航は制服のエプロンを脱ぎ捨てた。そのままバックヤードに引っ込んで、休憩すると大声で宣言する。止めたり苦言を呈したりする者はいなかった。本当に悪質なクレーマーだったのだろう。慈愛に満ちた労りの声が彼方此方から飛び交った。
少しして、ジャケットを羽織った航がフロントに戻って来た。その手にはテイクアウトのコーヒーが二つあった。
「裏で飲もうぜ。俺の愚痴に付き合ってくれよ」
そう言って、航は困ったみたいに肩を竦めた。
俳優にでもなれそうなくらい容姿の整った、存在感のある美青年である。猫のような丸い瞳が印象的で、どの角度から見ても絵になる。
蓋のされた紙コップは温かく、冷えた指先が痺れるようだった。航が颯爽と歩き出すと、フロアの客が振り返る。背筋はぴんと伸びて、存在感が鱗粉のように舞って見えた。
トラットリアの裏口は、駐輪場になっていた。休憩中らしいスタッフが煙草を吸ったり、俯いて携帯を眺めたりしている。侑を見ると気安く声を掛けて来る者もいて、不思議な感覚だった。
航は木製の空箱に腰を下ろして、神妙な目付きをした。
透明な眼差しがX線のように侑を検分する。何を見られているのか分からないが、航は時々、何も無いところをじっと見詰めることがある。侑も、それを問い質したことは無かった。
「なにか、良くないものを見て来ただろ」
殆ど断言するみたいに、航が言った。
何のことなのか全く分からなかった。墓参りに行ったことも、神木葵に会ったことも告げていない。
「何のことだ?」
侑が素直に尋ねると、航は少し居心地が悪そうに目を伏せた。いつも堂々としている航には珍しい態度だったので、侑はしこりのような違和感を覚えた。
「侑って、幽霊とか怪奇現象とか信じる?」
「はあ?」
侑が声を漏らすと、航が眉間に皺を寄せた。
別に非難するつもりではなかったので、侑は短く謝罪した。航は些か気を悪くしたように体の向きを背けてしまった。心霊現象やオカルトは信じていない――というか、意識したことが無い。
幽霊より、サブマシンガンや毒物の方が恐ろしい。
余りにも遠い世界の話題だったので、侑は共感することが難しかった。
「特に、考えたことはない」
航は口をへの字に曲げて、憮然と言った。
「湊が大学時代に、超心理学を研究してたんだ」
「超心理学ってなんだ?」
「幽霊とか超能力とか、そういうオカルト」
「脳科学の研究してたって聞いてるぞ?」
「説明するの、面倒臭い。今度、湊に訊けよ。侑が理解するまで何度でも講義してくれるだろうさ」
「……それは、願い下げだな」
侑が言うと、航が笑った。
機嫌は少し回復したようだった。航は膝に肘を突いて、身を乗り出した。
「第六感とか、虫の知らせとかあるだろ? ああ言うのを、超感覚的知覚って言うんだって。俺はそれが鋭いらしい」
「勘が良いってことか?」
「大体、そんな感じ。嫌な予感が当たったり、時々、良くないものが見える」
「へえ」
じゃあ、航には本当に幽霊が見えるのか。
湊は他人の嘘が見抜ける男だったし、この双子の見えている世界は自分とは違うらしい。他人なら馬鹿にして笑い飛ばしていたが、航はそういう嘘を吐くタイプじゃない。
「今の侑は、何か良くないものに見られてる」
「幽霊か?」
もしもそれが本当に存在するのなら、自分の周りは死者で溢れ返っているだろう。侑はなるべく慎重に言葉を選びながら、問い掛けた。
「本当に残念だが、俺はそういうのは全く分からない。だけど、お前が言うなら信じる。どんな奴だ?」
「俺だってそんなにはっきり分かる訳じゃないんだよ。何かが侑を見ていて、それは良くないものだって分かるだけなんだ」
「ふうん」
幽霊なんて怖くも何ともないが、航が心配してくれているのは分かる。侑は紙コップを両手で包み込んだ。柔らかな湯気が立ち昇り、コーヒーの芳ばしい匂いが辺りに広がっている。
「じゃあ、気を付けるよ」
侑が言うと、航は「おう」と返事をした。
説明するのが嫌なんだろう。後は専門家の湊に聞いた方が早そうだ。
しかし、良くないものが見ている、か。
連想するのは幽霊よりも、生きた人間の悪意である。殺し屋時代から、大勢の人間を始末して来た。憎まれているだろうし、恨みも買っている。復讐されるだけの理由がある。ただし、それを受け入れる義理は無い。
その時、裏口からバシルが顔を出した。
店内が賑わって来たらしい。航は乱暴に返事をした。
ちなみに、バシルは事件収束後、一人暮らしのアパートに戻った。警察から事情聴取されたらしいが、現在は大学も変わりなく通っているとのことだった。
「じゃあ、また後で」
紙コップを片手に、航が微笑んだ。
雪のように溶けてしまいそうな微笑みだった。侑は紙コップを片手に返事をして、店内に消えて行く航を見送った。
8.彷徨う刃
⑶シックスセンス
『超心理学は、現在の科学では解明されていない現象を実証的に研究する心理学の一つだよ』
帰宅した時には、もう夕暮れだった。
ニューヨークの冬は長い。侑は雪に濡れたコートをハンガーに掛け、暖炉に火を入れた。航の言葉を思い出して電話をすると、湊がはきはきと答えた。
暖炉は完全に火が点くまで時間が掛かる。
航が帰宅する頃には家中が暖まっていると良いな、と思った。
侑は暖炉の側に置かれたロッキングチェアに座った。
「何言ってんのか分かんねぇが、お前は脳味噌の研究をしてたって言ってなかったか?」
『そうだよ。超常現象もオカルトも、人が認識出来る現象なんだ。人は知覚した情報を脳で処理するんだ。超能力者と呼ばれる人の脳の研究もしてた』
「まずは、自分の脳味噌を調べた方が良いんじゃねぇの?」
『調査していたよ。論文も書いた。そうしたら、SLCってカルト集団に目を付けられたんだ』
侑は、溜息が止められなかった。
湊の落ち度とは思わないが、何をやっても大事になってしまうのは、何故なんだろうか。そういう星の下に生まれてしまったのだろうか。
湊が言った。
『航は、本当に見える人間だ』
「本当にいんのか、幽霊なんて」
『分かんないから研究してたんだ』
「研究した結論は?」
『大抵の場合は、思い込みとただの自然現象。でも、幽霊の目撃情報は世界中の至るところに存在する。其処には言語や文化、宗教の壁も無い。みんなが信じていると、それは実在するようになるんだ』
「じゃあ、信じていなければ実在しないってことだな」
『侑のそういうポジティブなところ、嫌いじゃないよ』
どういう意味だ。
議論を放り投げたようにも感じたが、これ以上、小難しい話を聞くのも面倒だった。
「そういや、お前の両親の墓で神木さんに会ったぞ」
『葵くん? まだ怒ってた?』
先日の事件の折、警察署に連行されそうになった侑を湊が強引な遣り方で食い止めたのだ。その時のことを酷く叱られたらしい。
「全然、怒ってなかったぞ」
『それは良かった』
湊が笑った。
叱るという行為の本質は、他者への関心である。神木も湊も、その辺の意味を履き違えてはいない。神木の不器用な優しさが、湊に真っ直ぐ伝わっていることが嬉しかった。
「そっちはどうなんだ?」
侑が訊ねると、湊は困ったみたいに言った。
『この前、明瞭学園のイジメを告発しただろ? その裁判が来月に行われることになったんだ』
「早いな」
『異例の早さだよ。被害者側には是非、勝利して欲しいね』
「そうだな」
明瞭学園で起きたイジメに対して、被害者遺族は学校側ではなく、担任教師とクラスメイトを相手取って刑事裁判を起こしている。担任教師は兎も角、クラスメイトは未成年だ。世論が動くだろう。
民事ではなく、刑事裁判。
被害者遺族は、刑事罰を望んでいる。
復讐は不毛だと、ハヤブサは言う。
そんなことは言われなくとも分かっている。それでも納得出来ないから、自分が許せないから、不毛であってもその道を選んだ。そして、被害者遺族は血の粛正ではなく、法に則って罰を受けて欲しいと望んでいる。
裁判で負けてしまったら、遺族は刃を握り、復讐の鬼となるかも知れない。
その時には、万全の状態で帰国したい。
ドンパチする必要は無いが、何かあった時に遅れを取ったら、それは死に直結する。ハヤブサに撃たれた場所は縫合して、既に抜糸も済んでいる。派手に暴れなければ、もっと早く戻れるだろう。
『被告人側の弁護人がちょっと厄介なんだ』
「凄腕の弁護士なのか?」
『ベテランではあるけど、腕はまあまあ。ただ、顔見知りなんだよね』
顔が広いと、そういう弊害もあるらしい。
『
じゃあ、尚更、早く戻ってやらなきゃな。
侑はそう思った。身動き出来ない湊の代わりに、手足となってやりたい。
「それまでには、日本に戻るよ」
『医者は全治半年って言ってたけど?』
「そいつはヤブ医者だ」
『ヤブ医者じゃないよ。……でも、侑が戻って来てくれるのは心強い。だから、待ってるね』
またね、と言って通話は切れた。
通話の切れた携帯電話に、自分の顔が映っている。
航と湊の声が耳の奥に蘇る。彼等の言葉を疑う訳ではないが、侑はオカルトを信じていない。知覚出来ないのならば、それは存在しないも同然だ。
侑はロッキングチェアに背中を預け、天井を眺めた。
シーリングファンが暖かな空気を掻き混ぜる。薪の爆ぜる音が静かに響き、侑の意識は微睡み、眠りの中に溶けて行った。
夢現に、侑は金色の閃光を見た気がした。
細やかな装飾の施された繊細なオーロラパールのナイフ。グリップには赤い布が巻かれ、金色の扇模様が刻まれている。
それは獲物を探して闇夜を彷徨い、血を吸うまで止まらない。
ナイフの切っ先から、鮮血が滴り落ちる。
あれは、誰の血なんだろう。
あれは、一体……。
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