⑷血塗られた刃
頭の片隅に、あの美しいナイフのことが引っ掛かっていた。それが何故なのか侑にはよく分からなかった。だが、あのナイフをこの目で見て、所在を確認しなければならないという猛烈な危機感があった。
ナイフの展示されていたアートバーゼルを訪れたのは、開催二日目のことだった。道路には薄く雪が積もり、空は鈍色の雲に覆われている。氷のような北風が吹き荒ぶ。侑は早足にアートバーゼルへ向かった。
見事な大理石の床に、革靴の音が反響する。
昨日よりも売却済みの作品は多かった。明日になればこの場所は一般公開され、より多くの客が訪れる。受付には、あの緑の目をした男がいた。
男は侑を覚えていた。エンジェル・リードの名が売れているのは、芸術分野への投資家自体が非常に少ない為だった。芸術を理解出来る者は少ない。例えどんなに優れていても、世間が評価しなければ売れることは無いのだ。
エンジェル・リードは、脚光を浴びることの無い不遇な芸術家にとってはまさに天使のような存在だった。自分達はこの活動について収益を期待していないので、援助を受ける芸術家は将来的なリスクも負わない。
「あのナイフを見にいらしたんですか?」
緑の目をした男が言った。
落ち着いた口調は、何処かの大学教授のような印象を受ける。侑が肯定すると、男は何かを言い淀むみたいに目を伏せた。
「あのナイフなんですが……」
「売れちまったか?」
「いえ、そうではなく」
男はそう言って、辺りに目を配った。
此方に意識を向ける者はいない。スタッフも客も展示された作品に目を奪われている。男は重い口を開いた。
「消えてしまったんです」
「消えた?」
侑が復唱すると、男は顔を歪めた。
「盗まれたってことか?」
「防犯カメラには何も映ってはおりませんでした。あのナイフは……、忽然と姿を消したのです」
まるで、オカルトである。
侑が眉を顰めると、男は言い訳のように続けた。
「勿論、警察には被害届を出しております。……お客様には、大変ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
「いや……」
侑は首を振った。
購入するつもりじゃなかった。ただ、確認したかっただけだ。何となく嫌な予感がして、それが現実にならなければ良いと思ったのだ。
昨日の航の言葉を思い出した。
何か良くないものを見て来ただろう、と。
侑はオカルトなんて信じていないが、航は意味の無い嘘を吐くタイプではない。昨日、暖炉の前で転寝した時に思ったのだ。――それは、あのナイフのことではないかと。
「見付かると良いな」
「ええ」
男は頷いた。
「もしも見付かりましたら、ご連絡を差し上げます。失礼ですが、お名前を頂戴しても?」
「……昨日の名刺の番号に掛けてくれ」
足元に水が溜まって行くような不安感が包み込む。
事件が起きている以上、情報を残すのは得策ではない。
「それより、アンタの名前を教えてくれ」
「私は、
「翡翠? 日本人か?」
「いえ、私の名付け親が日本の方で」
侑は曖昧に相槌を打った。
アートバーゼルのスタッフ、翡翠。苗字なのだろうか。
あのナイフが無いならば、長居するつもりは無い。侑は簡単に礼をして、その場を後にした。
建物を出ると、粉雪が舞っていた。
寒い訳だ。コートに顎を埋め、侑は携帯電話を取り出した。
時差を考えると、日本は夕方くらいだろうか。
二度、三度と電話を掛けたが通話は繋がらず、侑は留守番電話に折り返しの連絡が欲しいとメッセージを残した。
8.彷徨う刃
⑷血塗られた刃
折り返しの連絡が来たのは、侑がトラットリア・セプテムでコーヒーを飲んでいる時だった。
窓側の席は大通りが一望出来る。寒さから逃れるように人々は早足に道を行き、まるで水の流れのようだった。
侑が応答すると、湊の澄んだボーイソプラノが言った。
『何かあった?』
「分からない。だから、調べて欲しい」
湊は二つ返事で了承した。
説明をしなくても良いのは楽だ。侑は店内を見渡した。
今日は、航は厨房に引っ込んでいるらしい。店内は賑わっているが、混雑はしていない。自分に意識を払う者は無い。
「昨日、アートバーゼルで綺麗なナイフを見た。それが今朝になって紛失した」
『警察は動いてるの?』
「被害届は出しているそうだ。それより、そのナイフのことを調べて欲しいんだよ」
『ナイフ? どんなの?』
スピーカーの向こうでキーボードを叩く音がした。
「五十年前に北欧で作られたナイフなんだ。イギリスの工芸家が装飾をして、今まで色んな人間の手に渡った。だが」
『それを手にした者はみんな、悲惨な運命を辿っています?』
言葉の先を浚って、湊が笑った。
『ホープダイヤモンドみたいだね』
「なんだ、それ?」
『所謂、呪われたダイヤモンドだね。持ち主を次々と不幸にしたと言われてる。殆ど都市伝説で、逸話も脚色されてるみたいだよ。今は博物館に所蔵されている』
侑は奥歯を噛んだ。
電話口で、湊が問い掛ける。
『刃はオーロラパールで、根本が透かし彫りになってる?』
「ああ。グリップは赤だ。金色の扇模様があって」
『それは扇じゃないよ。月の満ち欠けだ』
あったよ、とスピーカーの向こうで湊が言った。
掌に力が籠る。侑は、どうして自分が懸命にナイフのことを調べているのか分からなかった。放っておいても良い筈なのに、どうして。
『作品名は
「持ち主は、みんな不幸になってるのか?」
『ちょっと待ってね。ええとね……、作者は完成してから、そのナイフで自殺してるね』
一人目は池に身を投げた。二人目は交通事故。三人目は薬物中毒で、四人目は病死……。
湊がつらつらと語る。その言葉を聞いていると、胸の内側に黒い靄のようなものが発生して、体が重くなる心地がした。
「本当にあるのか、呪いなんて」
『呪いとは、人の思いのことだよ。血筋、名前、罪、歴史。全部、呪いの一種だ。商人が品物に値段を付けるのも同じ。信じる人がいれば、それは実在する』
「つまり?」
『そのナイフが呪われてると思う人がいれば、それは呪いになる』
侑は唸った。
湊の指す呪いの範囲が広過ぎる。時々、湊と話が食い違う時がある。それが知識量の差なのか、理解力の問題なのか、侑にはよく分からない。
『呪いは観測者効果の一つで、自己暗示に近いものだよ』
機械と話しているみたいだ。
侑は腹の据わりが悪くなって、コーヒーを啜った。
『そのナイフが失くなったの? 物騒だね』
「ああ」
『ニューヨークはどうしちゃったんだろうねぇ』
湊が呑気に言った。
相手が海の向こうにいる実感が湧き出して、侑は胸を撫で下ろした。他人事なのだ。そう、自分には関係の無いこと。湊も航も巻き込まれていないし、首を突っ込む理由も無い。
ほっとして視線を窓の向こうに遣った、その時だった。
皿の割れるような悲鳴が迸り、小石を投げ込まれたみたいに人の流れが滞る。侑は身を乗り出した。大通りの中央で、誰かが倒れている。整然とした石畳の道に、真っ赤な血液が見える。
「悪ィ、湊。掛け直す」
返事を聞かず、侑は通話を叩き切った。
これから何か恐ろしいことが起こるような、嫌な胸騒ぎがした。侑は人集りを掻き分けて、騒ぎの中心地まで一直線に駆け付けた。
人々は恐怖と不安に騒めいている。前方の男を退けた時、雪の積もった街路に赤黒い血液が点々と散っていた。
学生のような青年が一人、脇腹を押さえて蹲っている。銀色のダウンコートは、鋭利な刃で脇腹から背中まで切り裂かれていた。コートから零れ落ちた羽毛が埃のように舞う。
「退いて!!」
褐色の肌をした青年が、人混みを掻き分けて声を上げる。濁流に呑み込まれているみたいに、細い腕が滅茶苦茶に振り回されていた。侑はその腕を引っ掴み、野菜を抜くようにして引っ張り出してやった。
バシル・イルハム。
航の同級生の医学部学生。
バシルは蹲る男の横に膝を突き、応急処置に動き出した。
ダウンコートを捲ると、濃厚な血の臭いがした。追って来たらしい航が、制服のエプロン姿で人混みを制する。
バシルの的確な止血処理、航のアシスト。侑は人混みに紛れて、男の傷口を見ていた。
擦れ違い様、何かの刃物で切り上げたようだ。躊躇い傷は無い。通り魔的な犯行だ。雪に散った血液は、動脈から流れている。冬は血管が収縮するから出血は少ないが、恐らく、傷は内臓まで届いている。多分、助からない。
その傷は、とても美しかった。
一切の油断も躊躇も無く、ただ肉を切り裂く為に生み出されている。余分な力は込められず、まるで重力を受け流すみたいに淡々と。それは最早、芸術の域にある。
素人の犯行じゃない。
女や子供にも無理だ。
犯人は刃物の扱いに慣れている。そして、その刃はナイフのように短く、ぞっとする程に切れ味が良い。その瞬間が見られなかったのは、残念だった。
侑は、あのナイフを想起せざるを得なかった。
北欧神話の月の神、
月は再生や修復、癒しの象徴。
バシルの両手は血塗れだった。救急車のサイレンが聞こえる。侑はゆっくりと身を引き、人集りから離れた。自分が犯人ならば、もう逃走している。
逃走経路を想定する。無駄足になっても構わなかった。
返り血は浴びていないだろう。逃げ出す一般人に紛れて、暫く大通りの道を行く。適度なところで裏道に逸れて、可能なら車に乗る。侑は先回りするつもりで走り出した。
見てみたい。
あんな見事な腕前は、中々お目に掛れない。
コートは切り裂かれていたのに、出血は内部に留まっていた。自分も刃物を扱うからこそ分かる鮮やかな手口。
雪の上に足跡が残っていた。
逸る鼓動を抑えて、侑は必死に追い掛けた。
どんな男だろう。
何者なのか。
この国にもフリーの殺し屋がいるのか。
戦ってみたい。
緊張と高揚がピラミッドのように積み上がって行く。
足跡を追って角を曲がった瞬間、侑は足元が抜けるような落胆に襲われた。目の前には、交通量の多い車道が広がっていたのである。
足跡は消えている。此処から車に乗った可能性が高い。
協力者がいたのか。
後ろ髪を引かれるような心地で、侑は道を引き返した。
あと一歩踏み込めば、犯人の顔を拝めたかも知れない。
その洗練された技を体感出来なかったことが、悔しかった。
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