⑸他人の命
「あの人、助からなかったよ」
帰宅すると、航は暖炉の前で美術雑誌を読んでいた。
家の中は日溜りのように暖かい。侑は濡れたコートをハンガーに掛けた。
「残念だったな」
そう言いながら、侑はあの男が助からないことを知っていた。他人が死のうが生き長らえようが毛程も興味は無かったが、航の尽力が徒労に終わったのは本当に残念だと思った。
航はパラパラと雑誌を捲りながら、几帳面に付箋を貼っていた。彼の目には他人には見えないものが見えるらしい。芸術方面の知識は皆無だと聞いたことがあるが、オークションや買い付けでは、航が推した作品は高値で売れることが多い。
航は視線を落としたまま、手を止めた。
「俺はまあ、別に大丈夫。それより、バシルが気の毒だ」
バシル・イルハムは、医学部に通う大学生で、航の同級生である。出身は紛争止まぬ中東で、彼は外科医を志して単身渡米した。
ジャンクマンという殺人鬼が出た時も、先程もそうだったが、彼は人を救いたいという衝動が強く、自己犠牲的である。それは美徳の一つなのかも知れないが、侑には自暴自棄にも見えた。
「親父も医者だった。大勢の人を救ったけど、その裏側で、どれだけの命を取り零して来たんだろう」
悟ったみたいに、航が言った。
航は、目の前で両親を失った。海の向こうにいた湊とは共有出来ない傷の一つである。
「どんなに手を尽くしても、救えないものはある」
侑が黙っていると、航が顔を上げて悪戯っぽく笑った。
「……今度、バシルを見掛けたら励ましの言葉でも掛けてやってくれ。バシルは侑のこと、ヒーローみたいに思ってるから」
「そいつ、見る目が無いな」
侑は鼻で笑った。
元殺し屋がヒーローなんて、世も末だ。
航は雑誌を閉じた。
「青い付箋は、俺のおすすめ。黄色は要検討」
そう言って、航は雑誌をテーブルに置いた。
近々開かれる個展の作品らしい。航のおすすめは外れないので、侑は写真に撮った。航は絵画や彫刻よりも、機能的な工芸品を好む。
ページを捲った時、あのナイフが見えた。
月の神の名を冠した妖しい刃。
オーロラパールの刀身に、根本は唐草模様に似た透彫。グリップは赤で、金色の月が刻まれている。
貼られた付箋は、黄色。要検討である。
侑が見詰めていると、航が横から覗き込んで来た。
「それ、綺麗だよな。曰く付きって書いてあるから、要検討にした」
「へえ……」
「怖い訳じゃないぞ?」
航が憮然と言った。
念押しするところが、航らしい。
「エンジェル・リードは未来のある若い芸術家に投資するんだろ? その作品の作者はもうこの世にいないし、こういうのを売ると評判が下がる」
来栖凪沙の時に学んだんだと、航が苦く言った。
侑も同感だった。エンジェル・リードの窓口係として、侑は作品の買付けをする。投資しても売れなかったり、金を持って蒸発する芸術家がいたりする。折角売れても、来栖凪沙のように道を踏み外す者もいて、収益は殆ど無い。
けれど、自分達の活動がいつか誰かを救うかも知れない。
誰が死のうが構わないし、自衛の為なら手を汚すことも厭わない。だからと言って、他人の不幸を喜ぶ程、性根は腐っていない。
航はキッチンに向かい、デニム生地のエプロンを纏った。
家でもバイト先でもキッチンに立つのだから、本当に料理が好きなのだろう。
侑はカウンター越しに問い掛けた。
「シェフ。今日のディナーは?」
「回鍋肉。デザートに杏仁豆腐も付けてやる」
航が白い歯を見せて笑っている。
その時、唐突に思った。
往来で致命傷を受け、積雪の上に倒れた名も知らぬ学生。
――あれが、航ではなくて良かった。
8.彷徨う刃
⑸他人の命
翌日から、侑は街を出歩くようにした。
散歩やビジネスのついでに、行方を晦ましたナイフの手掛かりを探した。界隈に詳しくなかったので、殆どが無駄足だった。
冷え切った両手を擦り合わせていると、スーパーマーケットから見知った青年が出て来た。両手に茶色い紙袋を抱え、突き出したフランスパンで前方すら見えていないみたいだった。
侑が声を掛けると、バシルが綻ぶように笑った。足を止めた反動で、フランスパンが傾き、中から林檎が転がり落ちる。侑は足元まで転がって来た林檎を拾った。
「買い物か? 重そうだな」
「そうなんだよ。実習が始まると忙しくて、料理や買い物をする暇が無いからね。纏めて作って、冷凍するんだ」
勤勉な青年である。
侑は茶色い紙袋を代わりに持ってやった。バシルは白いビニール袋を両手にぶら下げており、中には肉や野菜が詰まっている。
バシルの家の近くまで送り届けることになり、侑は航に言われていたことを思い出した。表面上、バシルは落ち込んだ様子も無い。他人を励ますのは得意じゃないが、航の友達ならば仕方が無い。
「この前の学生、亡くなったんだってな」
侑が言うと、バシルの顔が分かり易く曇った。
「残念だったが、お前は立派だったよ」
「ありがとう」
バシルは、はにかむみたいに微笑んだ。
ぱんぱんに膨れたビニール袋を持ち直し、バシルは正面を睨んだ。
「あれは、助からない傷だった」
バシルの紫色の虹彩は、何処か遠くを見ている。
侑は感心しつつ、言葉の先を促した。
「助からない傷って?」
「俺の国には
荷物を両手にぶら下げたバシルは、まるで手枷を付けているみたいに見えた。深淵の底を覗いて来たかのような仄暗い目付きで、バシルは語った。
「俺の国には身分階級がある。多民族国家で、紛争は絶えず、治安も悪い。医療も食料も足りていないのに、武器だけは最新の物が流れて来る」
それは、パスファインダーの仕業なのだろうか。
今度、湊に聞いてみようと思った。バシルの故郷は中東。そういえば、クーデターを目論んでいたアラブの石油王の長男、ムラトも身分階級のある国の生まれだった。
「俺にはまるで、殺し合えって言われているように感じられる」
「誰に?」
「分からない。でも、そんなことをずっと続けていたら、誰かの思う壺だ。止めなきゃいけない」
揺るぎない意志を感じさせる、強い目だった。
きっと、彼は夢を叶えて大勢の人を救うんだろう。そして、湊と航の両親みたいに、何処かで呆気なく殺される。それでも、彼は止まらないし、止まれない。針の山を裸足で登って行くような危うさとプライドの高さは、まるで海の向こうの誰かを見ているみたいだった。
こういう人材を、死なせてはいけないのだろうと思った。
明るい未来がどんなものなのか知らないが、バシルのような人間ならば、世界は少しだけ優しくなるのだろう。
何か言葉を探し、声を掛けようとした、その時だった。
静電気のような殺気が肌の上を撫でた。侑が石畳を蹴って走り出したその瞬間、悲鳴が響き渡った。
平日の昼下がりに微睡む人々は、まるで冷や水を浴びせられたみたいに恐怖に竦み上がっていた。街路に真っ赤な血が溢れている。誰かが切り付けられた。侑の目は、人集りから遠去かる男の後ろ姿を捉えていた。
今なら、間に合う。
追い掛けるべきだ。
バシルが怪我人に駆け寄り、応急処置に動き出す。男の姿は遠去かる。侑は声を潜め、膝を突いた。
「俺は、犯人を追う。お前は警察に連絡しろ」
バシルは顔を上げずに、頷いた。
犯人は人混みの向こうだ。通行人が邪魔である。
侑は視線を巡らせた。歩道の横、赤信号で車が列を成している。侑はガードレールを越え、ボンネットに飛び乗った。
車高の低い車ばかりで助かる。侑は水切りのように車の上を飛び渡った。犯人が振り向く。グレーのニット帽を深く被った若い男だった。犯人の足取りが鈍った瞬間、侑は一気に襲い掛かった。
男の体に飛び付くと、二人は勢いよく街路を転がった。侑は男の腰を押さえ、頬を思い切り殴り付けた。奥歯の軋む音がして、血反吐が石畳の上に散る。男は抵抗を止めない。滅茶苦茶に拳が振り回され、その一発が侑の頬を掠めた。
侑は男の腕を押さえ、顎を下から蹴り上げた。人体の急所の一つである。脳が揺れて、黒目が弾ける。侑は男を俯せにして、後ろ手に拘束した。
金属の細い音がした。
それは、オーロラパールの刀身をした15cm程の装飾ナイフである。根元は唐草模様の透彫で、グリップには血が染み込んだような赤い布が巻かれていた。
アートバーゼルから紛失した芸術品の一つ。
男はナイフを見ると、突然、悶えるような悲鳴を上げた。水揚げされた魚のように激しく身を捩り、獣のような咆哮を上げる。侑は拘束を解かなかった。男は必死に抵抗し、街路に転がったナイフを取り戻そうと暴れ続けている。
その目は、狂気に染まっていた。
口の端からは泡になった唾液が溢れ、関節を押さえられているにも関わらず強引に手を伸ばそうとする。
何なんだ、こいつは。
薬物中毒者か? それとも、狂信者?
まさか、呪われたナイフに取り憑かれているとでも?
鳥肌が立った。生理的な嫌悪感と形容し難い不快感が湧き出して、今すぐにその男を殺したい衝動に駆られる。だが、すぐ近くでパトカーのサイレンが聞こえた。
警察官がパトカーから降りて来る。鍛えているようだが、張りぼての筋肉だ。この狂った男を押さえられるとは到底思えない。
「手錠を掛けろ!!」
男を地面に縫い付けながら、侑は叫んだ。
通行人が身を引いて、周囲に無人の空間が広がる。警官が怪訝に眉を顰め、小馬鹿にするみたいに耳打ちする。その間にも男は暴れ続け、辺りに狂気と恐怖が伝染して行く。
「早くしろ!!」
侑が怒鳴り付けると、漸く、一人の警官が手錠を出した。
後ろ手に拘束していた両腕に手錠が掛かる。その瞬間、男は糸が切れた人形みたいに弛緩した。
緊急車両のサイレンが聞こえる。
被害者はどうなった。
侑が立ち上がろうとしたその時、違和感を抱いた。足元に転がっていた筈のナイフが無かった。警官が預かっているのでもなければ、男が拾ったのでもない。そのナイフは、独りでに煙のように消え失せてしまった。
手錠を掛けられた男はパトカーに乗せられたが、抜け殻のようで、先程までの狂気的な抵抗が嘘みたいだった。学生くらいに見えた。航やバシルと同じくらいの。――こんな奴が、あの見事な傷を残したのか?
侑には、信じられなかった。
警官が事情聴取を始めた。訛りのある英語で捲し立てられるので、侑には半分程しか理解出来なかった。
そのまま警察署に連行されそうになった時、両手を血塗れにしたバシルが駆けて来た。
「この人は関係ありません!」
悲劇のヒロインみたいにバシルが喚く。見物客がわあわあと騒いで、連行されそうな侑を阻んだ。新鮮な体験だった。
それでも、警官は引き下がらない。話は署で聞くの一点張りで、強引に侑をパトカーに乗せようとする。
侑は迷った。
警官二人くらい、躱して逃げられる。
捕まったら素性を探られるし、湊に迷惑が掛かる。
だが、此処で逃げたら、その矛先はバシルに向かうだろう。
辺りは、人種差別に立ち向かう民衆のデモみたいだった。侑が深く息を吐き出した時、人集りが陽炎のように歪んで見えた。
「そいつは俺の身内だ」
喪服のような黒いスーツを着た透明人間――神木葵は、FBIのエンブレムを提示した。
警官が敬礼し、身を引く。侑は引き摺り出されるような格好で、どうにかパトカーから脱出した。
侑が顔を上げると、神木葵は機嫌悪そうに視線を尖らせていた。
「お前は疫病神なのか?」
パトカーは、犯人の男を連れて走り出す。
周囲の人間は自分とバシルを見ているが、神木には目を向けなかった。まるで、其処には誰もいないかのように。
「アンタこそ、幽霊なんじゃねぇの」
存在感も此処まで希薄だと、一種の才能である。
神木は舌を打った。猛烈な罵倒でも始まりそうな剣幕だったが、神木は深く息を吐くと、そのまま背を向けて歩き出してしまった。その後姿さえ、知覚する人間はいなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます