⑹人の想い
踏み荒らされた積雪の上に点々と血液が散っている。
バシルは放心状態で、投げ出された食品や日用品を拾う気力も無いようだった。侑は雪の上に転がった野菜やチーズを拾い集めながら、そっと問い掛けた。
「被害者はどうなった?」
バシルの両手は血塗れだった。
紫色の瞳が車道を茫然と眺めている。
「輸血が間に合えば、もしかしたら……」
侑は鼻を鳴らした。希望的観測に意味は無い。
現代の医療は発展しているが、受け皿は今も足りていない。今頃、被害者は救急車の中で生死の境を彷徨い、病院を盥回しにされ、漸く搬送された時には手の施しようが無い。医療現場の実情は、想像するより冷たく乾いている。白衣の天使が御伽噺であることを知っている。
気落ちするバシルを励ますつもりで、侑は言った。
「何でもかんでも救える訳じゃないぞ」
「そんなの言い訳だ。医者が諦めたら、医療は何の為にあるんだ」
「それこそ詭弁だろ。医者だって命を選別する」
医療が全てを救うのならば、宗教や芸術は生まれなかった。
この世は理不尽と不条理に溢れているけれど、逆境の中に咲き出でる花は美しい。バシルの紫色の虹彩が鋭く射抜く。
「それが貴方の大切な人でも、同じことが言えるのか」
「……そういう話だったか?」
言葉は、刃物や銃器よりも扱いが難しい。
励ましや労りが真っ直ぐに伝わることは少ない。だからこそ、受け取った時にその尊さを知る。
侑は溜息を吐いた。
「お前、そんなに真面目じゃ生きて行くの大変だぞ」
「余計なお世話だね。妥協しながら生きていくのは御免だ」
バシルは立ち上がると、衣服に凍り付いた雪を払った。
買い物袋を奪うように受け取って、覚束無い足取りで歩いて行く。追い掛けるつもりは無かった。
帰宅すると、暖炉の前に航がいた。いつもは真っ直ぐに伸びている背中は猫のように丸まって、濃褐色の瞳はぼうっと炎を見詰めている。
侑が声を掛けると、航は嫌そうに眉を寄せた。
「なんかあったろ」
航はそう言って、暖炉の前から立ち上がった。
そのままキッチンに入ると、電気ケトルを稼働させる。湯を沸かす低い音が海鳴りのように響いた。
「侑の周りに赤いハレーションが掛かって見える」
「へえ……」
航は、他人には見えないものが見えるらしい。所謂、霊感だ。けれど、はっきりと見える訳ではない。
侑は対面カウンターに肘を突いた。キッチンでは航がハーブを調合している。伏せられた睫毛が頬に影を落としている。
「あのナイフを見たんだ」
侑が言うと、航が目を上げた。
透明な眼差しが真っ直ぐに射抜いて来る。
「あのナイフって、
「アートバーゼルだよ。最近やってただろ」
「現代アートの?」
「そう」
侑が肯定すると、航は不思議そうに首を捻った。
「現代アートに関係無くね? あれは古典美術だよ」
美術や芸術には区分がある。作り出された年代、技術、流通経路。誰の為に芸術があったのか。
古代、芸術とは神のものだった。それが中世では王や宗教権力者の為に作り出され、近代では富裕層の嗜好品となった。そして、現代では大衆の為に作り出されている。
あのナイフは大衆の為に作られたのではない。
そもそも、現代美術ではないのだ。
喉に小骨が引っ掛かったような違和感に、侑は俯いて思考した。航が「それで?」と先を促したので、侑は一先ず思考を横に遣った。
「売れ残ったら、美術館に寄贈されることになってたんだ。だが、そのナイフは消えて、通り魔殺人の凶器になった」
航の片眉が跳ねた。
ああ、それで。
航は一人納得したみたいに溢して、ティーポットに乾燥ハーブを入れた。湯を注ぐと柔らかな湯気が沸き立って、カモミールの香りがキッチンいっぱいに広がった。
航はティーカップにハーブティーを注ぎながら、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「そのナイフって、芸術品なんだよな? 手に入れたら愛着を持つもんじゃないのか?」
「宝箱に入れておくだけが愛着じゃないぜ。切れ味の良い刃を手にしたら、試し斬りくらいしてみたいと思うだろうさ」
「侍かよ」
航が笑った。
しかし、なるほど、侍か。
あの通り魔殺人は辻斬りの一種で、己の腕前や刃の切れ味を試そうとした。そう考えると、呪いは関係が無い。
犯人像については、侑には全く想像が付かなかった。
だが、生き物は群れを成すと凶暴化するものだ。それが世界経済の中心地ともなれば、どんな策略陰謀が蠢いていても不思議じゃない。
つーかさ。
航は腕を組んだ。
「このナイフは、侑の目から見て実用的なのか? 俺にはそう見えない。硝子ケースの中に飾っておくような繊細な作品だ」
「……まあ、敢えて使おうとは思わないな」
雑に扱ったら折れてしまいそうだし、刀身に特徴があるので目立つ。それなら何故、このナイフは人殺しに使われた?
「美術館に寄贈されるような高価で貴重な作品なんだよな? どうして現代アートの祭典に出てるんだ?」
理由がそんなに大切なのだろうか。
侑は唸った。どんな人間にも事情はある。エンジェル・リードの活動の中で、実力はあっても日の目を見られない芸術家を沢山見て来た。
航はリビングに戻り、テーブルに投げ出していた雑誌を手に取った。付箋の貼られたページを開き、小難しい顔をする。
現代アートの祭典、開催期間は四日。明日は最終日だ。しかし、其処にあの呪われたナイフは無い。今も何処かで獲物を探して彷徨っている。
「そういや、湊に調査を頼んでたんだ」
何か進展があっただろうか。
侑が言うと、航が目を細めた。何かが彼のプライドを傷付けてしまったらしい。
「……俺も聞く」
そう言って、航は階段を上がって自室に向かった。
年頃の子供は扱い方が難しい。侑は頭を掻き、そっと溜息を呑み込んだ。
8.彷徨う刃
⑹人の想い
暖炉の前にノートパソコンが開かれている。
侑が日本を離れてから二週間、湊の顔を見ていない。それはエンジェル・リードに携わってから初めてのことだった。
侑の心を知ってか知らずか、航はノートパソコンでテレビ電話を提案した。航としても、情報を共有したかったのかも知れない。
時差は凡そ七時間。日本は明け方だ。
航が電話を掛けて確認すると、湊はもう起きているらしかった。この双子は勤勉なので、早朝にはランニングやトレーニングをしているのだ。
航がパソコンを操作すると、画面いっぱいに湊の顔が映った。侑はそれを見た瞬間、まるで心臓を鷲掴みされたかのような息苦しさを抱いた。
白磁のような肌、通った鼻梁、くっきりとした二重瞼の下には濃褐色の瞳が爛々と輝き、長い睫毛が瞬きの度に音を立てるようだった。
相変わらず、顔だけは天使のような青年である。湊は早朝とは思えないくらいしゃっきりとした声で、挨拶を告げた。
『そっちは夜かな? 二人の顔が同じ画面に映ってる。なんだか、不思議だね』
澄んだボーイソプラノが、穏やかに言った。
FBIの後見人に、威勢良く啖呵切った男と同一人物には見えない。
航は身を乗り出した。
「世間話がしたい訳じゃねぇんだよ。調べて欲しいことがあるんだ」
『それはもしかして、噂の呪われたナイフのことかな?』
「話が早くて助かるぜ」
航が言うと、湊が笑った。
『ナイフの詳細は不要だよね? 俺よりも二人の方が詳しそうだ』
実はこの湊という青年は、若い芸術家に資金援助する投資家であるが、芸術に対しての関心が無いのだ。分を弁えていると言えば聞こえは良いが、興味が無いことには徹底的に手を抜く悪癖があり、知ろうともしない。
『俺は、ナイフの逸話について調べたよ』
流石。
航が指を鳴らした。
痒いところに手が届くというか、兎に角、頼りになる存在である。
『ナイフが完成してから作者は自殺した。酷い貧困だったみたいだね。刀匠がそれだけで食べていけるような時代では無かったから』
「……」
『それから、このナイフは色々な持ち主の元を転々としたけれど、みんな非業の死を遂げている。その死因や状況を調べてみたら、面白いことが分かった』
「どんなことだ?」
『交通事故で亡くなった人は、過去に悲惨な死亡事故を起こしていた。病死した人は医者で、悪質な医療過誤で起訴されていた。池で水死した人は動物虐待をしていて、池の中から手足を縛られた動物の死骸が大量に見付かった。高層ビルから転落死した人は教師で、教え子を自殺に追い込んでいる』
後で資料を送るね、と湊が微笑んだ。
まるで、天罰が下ったかのようだ。
過去の持ち主には、前科があった。そして、それは更生の余地の無い悲惨な事件や司法では裁けない悪辣な行いだった。
生きていたら、より残虐な事件を引き起こしていたかも知れない。そんな奴等が、ナイフの呪いによって死んだ。
因果応報と言うけれど、それは全自動では行われない。この世には裁かれない悪事があり、救われない涙がある。侑は、義憤に駆られるような情緒は持っていなかった。所詮、他人事だ。だが、航が痛ましげに目を伏せるのが、辛かった。
『俺は因果律というものを信じている。罪はいつか裁かれ、善行は報われる日が来る』
「意外だな」
侑は素直に言った。
湊はリアリストだと思っていたのだ。けれど、エンジェル・リードなんて酔狂な真似をする人間は、ロマンチスト以外の何者でも無かった。
『……こういう言い方はあまり好きではないんだけど』
そう前置きして、湊は独り言みたいに囁いた。
『死んでくれて良かったと、思う』
苦渋を噛み締めたように、湊が顔を歪める。
『どんなに凶悪な事件を起こしても、自分が死ぬのは一度きりだ。こいつ等が野放しになっていたら、どれだけの人が苦しんだだろう』
「……」
『それが、このナイフの呪いなのかもね』
死んでくれて良かった。
その思いが、ナイフに刻まれた呪い。
因果逆転。呪いによって死んだのではなく、死んだ理由を呪いにした。
『物には、想いが残る。罪人に罰を望む人々の想いが、一つの芸術作品を呪いのナイフにした。それは少し、哀しいことだ』
「……そうだな」
侑は、弟の遺した油絵を想起した。
湊に送った三枚の油絵は、今は海の向こうにある。侑には弟が何を想い、何を願い、何の為に筆を執ったのか分からない。もう知る方法も無い。
だが、故人の遺した想いが呪いにされてしまうのは、残念なことだ。ナイフの作者がどんな想いで作り上げたのか知る由も無いけれど、神の名を与えた作品を報復装置にしてしまうのは酷い侮辱だと思う。
「止めてやらなきゃな」
航が言った。
作者は貧困を苦に自殺した。その作品は死後、他人の手に渡り、芸術作品として評価された。優れた芸術家は死んでから名を馳せる。けれど、生きていたら、どれだけ素晴らしい作品を生み出しただろう。
作者の亡くなった五十年前、弟が銃を握ったその日、エンジェル・リードのような受け皿があれば、違った未来はあったのだろうか。
侑は拳を握った。
「ナイフが消えた日の防犯カメラ映像が見たい」
『やってみる。警備が堅いから、時間掛かるかも』
「分かった。それなら、直接行く」
明日はアートバーゼルの最終日。
出来ることは全部やる。失敗よりも、やらなかった後悔の方が痛いことを誰よりも知っている。
「俺も行くからな」
火の点いた目付きで、航が言った。
危険はある。だが、侑にはそれを阻むことが出来なかった。
危険から遠去けようとして、追い縋る弟を突き放したことがある。その結果、弟の窮地に間に合わずに死なせてしまった。あの日の後悔と絶望が今も胸の奥に突き刺さっている。
だけど。
湊が不敵に笑った。
『じゃあ、俺はナイフの流通経路を調べようかな。歴史ある芸術作品が現代アートの祭典に売り出されるなんて、不自然だからね』
侑は笑った。
湊と航は似ていない双子であるが、同じことを考えるらしい。二人が示し合わせたみたいに、画面越しに拳を向ける。彼等の間にあるジンクスだった。
「モーション・オフェンスだぜ? 頼んだぞ」
二人が笑った。
信じる人がいれば、それは呪いになる。彼等の間にあるものが呪いなのか、それとも絆なのか。それを見極めるのも、面白そうだった。
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