⑺亡霊

「俺の爺ちゃんがカウンセラーでさ」




 明け方の冷え固まった雪を踏み分けながら、航が言った。

 歩く度にざくざくと小気味良い音がする。航は綿のような息を吐き出した。




「拠点は日本なんだけど、臨床心理学会の権威って言われてて、世界中を飛び回ってたんだ」




 航の祖父は、フィクサーの一角である。

 フィクサーとは世界を牛耳る裏の重鎮と呼ばれており、表社会には決して出て来ない。フィクサーの正体を知る人間は本当に極僅かで、侑にはその存在がどれだけの権力や影響力を持っているのか計り知れない。


 フィクサーは、第三次世界大戦を巡って派閥争いを繰り広げている。航の祖父は戦争を止めようとしているらしい。その派閥争いで暗躍しているのがパスファインダーと呼ばれる武器商人で、現在、エンジェル・リードが追っている人間だった。




「薬物に頼らない対話的アプローチに重点を置いてた。その事例検討集は、今でも臨床心理学の指針になってる」

「へえ、大したもんだな」




 祖父はカウンセラーで、父は精神科医。

 蛙の子は蛙と言うが、湊も航も医療には関心が無いらしかった。他人を助けるという意味では同じ道を選んでいるのかも知れないが、それにしては余りにも茨の道だ。


 湊は投資家となった。では、航はどうなのか。

 彼は何を志し、何を夢見て、何の為に学ぶのか。

 航に選択肢が残されているという事実が、湊の尽力の結果だ。航には幸せになって欲しいと、切に思う。




「バシルが、その事例検討集を持ってたんだ。日本語だから訳して欲しいってさ。流石に専門用語は分からないから、辞書引いたり、湊に聞いたりして読んでみた。……その中に、サイコパスについての記述があった」

「サイコパス?」




 航は深く息を吸い込んで、明け方の透き通る空を眺めた。その濃褐色の瞳は山々の稜線を越え、まるで海の向こうを見据えているみたいだった。




「――サイコパスは、社会に於ける捕食者だ。人は誰もその種を内包して出生する。幼児期には発芽し、成長の過程でやがて萎える。だが、この種子を開花させる人種が存在する。これは遺伝や環境に起因しない脳の機能障害だ。捕食者の花は一定数咲き出て、社会へ根を張る。それが花であると気付く捕食者はいない。この人種を理解することは難しい。故に、我々は咲き誇る花に対して、異なる生物であると認識する必要がある」




 侑はぎょっとした。

 内容ではなく、航がそれを当然みたいに丸暗記していたことに、度肝を抜かれた。航は淀みない口調で語り終えると、縋るように問い掛けた。




「俺の兄貴は、サイコパスなのか?」




 心臓に針が刺されたみたいだった。

 そんなこと、侑に分かる筈が無かった。真面に学校すら通ったことが無いし、戸籍だって偽造している。社会人とは呼べないような社会のあぶれ者だ。だが、此処で答えられないような非情な人間にはなりたくなかった。




「そんなことないよ」




 変わり者ではあるけれど。

 侑が言うと、航が力無く笑った。


 俺達は、この子に可哀想なことをしている。

 侑はそんなことに、今更気付かされた。


 湊は家族の為に手を汚したし、明るい未来を捨てた。その結果として航は生き残ったけれど、彼がどんな気持ちで生きているのかなんて考えもしなかった。


 置いて行く方と置いて行かれる方、どちらが辛いかなんて比べたって仕方が無い。だけど、たった一人の兄がいつ死ぬかも分からない世界に身を投じて、どんどん薄汚れて行って、誰かに恨まれ疎まれる姿を側で見て、航が何も感じない筈が無かった。


 これが航の地獄で、湊の罪だった。

 けれど、侑には彼等を引き上げるだけの力も土台も無い。きっと、それが侑の罰だった。


 薄水の空に白い朝日が昇る。

 侑は眩しさに目を細めた。




「この世には、救いようのない悪人もいる。ジャンクマンみたいに頭の螺子がぶっ飛んだ殺人鬼もな。それに比べたら、随分とマシだよ」

「比較対象が悪いんじゃないか?」

「俺はそういう物差ししか持ってねぇよ」




 マシな未来を残してやらなきゃな。

 この可哀想な子供達が今日も明日も笑っていられるように、優しい世界にしてやりたい。


 その為に出来ることは、何だろう?














 8.彷徨う刃

 ⑺亡霊











 ニューヨーク州マンハッタンで開かれた現代アートの祭典は、終幕を前に静かな賑わいを見せていた。


 侑と航が到着した時には、既に殆どの芸術作品が売却済みになっていた。初日に訪れた時の厳かな雰囲気は消え、寂れた商店街の閉店セールのように虚しく見えた。


 前二日は招待客に、後二日は一般開放されている。最終日は芸術とは無縁そうな学生が多かった。侑が裏口に回ると、見知った顔が見えた。


 印象的な碧眼をした壮年の男だった。

 このアートバーゼルのスタッフの一人で、翡翠と名乗った。

 翡翠は侑を見付けると会釈した。日本人は知り合いを見付けると取り敢えず頭を下げる。




「またお会いしましたね」




 柔和な表情で、翡翠が言った。

 清潔感のある白いスーツに、糊の効いたグレーのシャツを着ていた。紺色に金のストライプが入ったネクタイには品があり、彼がそれなりの立場を持っていることを知らしめる。




「作品は殆ど売れてしまったのですが、良かったらどうぞご覧下さい」




 そう言って、翡翠は館内へ促した。

 腕を広げた時、微かに嗅ぎ慣れた臭いがした。


 侑は咄嗟に周囲を警戒した。館内には一般客、裏口では撤収の為にスタッフが動き始めている。




「あのナイフは、見付かりましたか?」




 侑が訊ねると、翡翠は表情を曇らせた。




「いえ……、情報は何も」




 捜査情報は秘匿される。

 通り魔殺人とあのナイフを結び付ける因果は無い。きっとナイフが見付かっても、この男の手には戻らない。芸術作品であっても、人を殺めた凶器であれば警察に押収されるだろう。


 侑は翡翠を見詰め、距離を測った。

 航を突き飛ばしてホルダーから銃を取り出し、引き金を引くまでの時間を計算する。一撃で終わらせたい。


 翡翠と言う男は、アートバーゼルの親切なスタッフだった。名付け親が日本人で、エンジェル・リードのことを知っている。今日、此処に来るまで気付かなかった。――この男からは、血の臭いがする。


 目付きが違う。足の運び方が違う。

 纏う雰囲気が、張り巡らされた警戒が、構え方が一般人とは違う。本能が告げる。この男は、玄人だ。それも其処等の殺し屋や、ジャンクマンのような殺人鬼とも異なる。


 ああ、こいつだ。

 あの日、取り逃した人殺しの玄人。一切の証拠も残さず、白昼堂々大通りのど真ん中で、あんな華奢なナイフでターゲットを仕留めた男。


 死神が薄汚い格好をして、路地裏に潜んでいるとは限らない。


 航が血の気の引いた顔で、一歩後退った。侑は庇うように間に立った。翡翠は穏やかな顔付きをして、館内を指し示す。侑には他人の嘘は分からない。だが、人殺しの腐った臭いというものは、どんなに洗い流しても消し去ることが出来ない。その瞳は淀んだ沼のように濁っていた。




「昨日、大通りで人が刺されたことを知ってるか」




 侑が言うと、翡翠は僅かに目を眇めた。




「ええ、新聞で読みました。痛ましい事件です」

「……なんで」




 侑は奥歯を噛み締めた。

 証拠は無い。だが、確信はある。




「なんで、そいつを殺した?」




 侑が問い掛けた瞬間、濃厚な殺気が迸った。

 まるで辺りから音が消え失せたかのようだった。碧眼の奥に狂気の炎が見える。翡翠は仄暗い笑みを浮かべていた。




「あいつは、強姦魔だった。幼い少女を狙って物陰に押し込み、動画撮影してはネットに流す、低俗な人間だ」




 冷たいものが背筋を抜けて行った。

 指先から血の気が引いて、感覚ばかりが研ぎ澄まされる。すぐ後ろに航がいる。それが侑を踏み留まらせる。




「その前の奴は、薬の売人。依存性の高い違法薬物を売り捌いて、何人も廃人にした」




 罪の自供。――いや、違う。

 この男は、罪だと考えていない。言葉や口調に迷いが無い。良心の呵責も倫理観も持ち合わせていない。故に、何をして来るか分からない。




「危険運転で大勢を殺した殺人鬼、コネでメスを握り、患者を殺したヤブ医者。動物虐待の常習者。教え子を自殺させた淫行教師……」




 ぞくりと、肌が粟立った。

 こんなことは初めてだった。これまで幾度と無く死線を潜り抜け、いかれた人間を始末して来たが、この男は根本的に何かが違う。


 気味が悪い。不気味。空恐ろしい。だけど、何故なのか、こいつの話をもっと聞きたいと感じる。その論議を、イデオロギーを知りたい。


 まるで、磁石のように意識が引き付けられる。

 形容し難い不思議な魅力が、この男にはある。




「あんな奴等は、生きていたって仕方がないと思わないか?」




 全身の筋肉が冷え固まって行くようだった。

 真面な人間でないことは明白だった。だが、この男の目は復讐者のそれとも違う。乾き切った諦念と空虚な瞳。殺した相手を人間だと思っていない。


 死んでくれて良かった。

 湊の言葉が脳裏を掠める。


 分かっている。そんな奴等は死んで当然だ。生きているだけで誰かを傷付け、奪って行く。この世には救い難い悪人がいて、目を逸らしたくなるような残虐な事件が起こる。因果応報は全自動ではない。大切な人を守る為に刃を握ったとして、侑にはそれを咎められない。


 空気が重く伸し掛かる。息も出来ないような緊迫感に襲われ、侑は後退った。


 その時、航が絞り出すような声で言った。




「アンタがそれを決めるのか」




 まるで、空気が送り込まれたみたいだった。

 航は侑の横に並び立ち、翡翠を射抜くように見詰めていた。




「どんな人間にも家族はいる。例えそいつ等が救い難い悪人であったとしても、報復が許されるなんて前例は作っちゃいけない」




 航は、まるで惑星のような強烈な引力と存在感を放ち、凜然と言い放った。侑はその姿に、見たこともない彼の父を見た気がした。


 世界を守った正真正銘の英雄。

 航は間違いなく、その血を受け継いでいる。


 翡翠は俯いていた。肩が微かに震えている




「僕だって本当は……、こんなことしたくなかった……」




 翡翠は両手で顔を覆って、声を震わせた。




「でも、あのナイフが僕に囁くから……」




 航が顔を歪めた。けれど、侑は警戒を解かなかった。

 感涙しているなんてことは、有り得なかった。翡翠は顔を上げると、三日月のように口角を釣り上げた。




「――なんてね」




 翡翠は、舌を出した。おちょくられている。嘘の上に嘘を重ねて、この男の真意は全く見えない。アートバーゼルのスタッフという仮面が剥がれ落ち、断罪者の鎧を捨て、翡翠は血の気が引くような歪な笑みを浮かべている。




「俺は面白いことが大好きだ。正義だの悪だの、そんなものはどうでも良い」




 翡翠は高笑いでもしそうな上機嫌で、舞台演者のように堂々と語った。




「人の絶望した顔が大好きだ。その精神が強靭である程、それが折れる瞬間はどれだけ美しい音がするだろう?」




 翡翠の演説は狂気に染まっている。明らかに真面な人間じゃない。だが、周囲で作業を続けるスタッフは異変に気付かない。こいつは、神木葵と同じ透明人間だ。


 翡翠の腰から銀色の閃光が走った。侑が銃を取り出す間に翡翠は一瞬にして距離を詰め、オーロラパールの刀身を振り上げていた。


 銃弾は間に合わない。振り下ろされる刃を弾倉で受け止めると、金色の火花が散った。その時になってスタッフが異変に気付き、悲鳴を上げた。


 翡翠は浅く笑い、懐から銃を取り出した。

 その照準は逃げ出すスタッフを捉え、侑や航が動き出すよりも早く引き金を絞っていた。


 乾いた破裂音が鳴り響く。

 銃弾はスタッフの後頭部を貫き、割れた頭蓋骨から血液と脳漿が噴き出した。


 辺りは凄まじいパニックに陥った。逃げ惑う人々を追い立てるように翡翠が発砲する。侑がその腕を狙って蹴り上げると、翡翠は忍者のように身を翻した。


 破裂音と共に銃弾が頬を掠めた。侑は手の甲で銃口を払い、翡翠の腹目掛けて発砲する。けれど、それは寸前で避けられる。翡翠は踊るようなステップを踏んで距離を取ると、再度、銃を構えた。


 なんだ、こいつ。

 軍人や工作員のような訓練された動きじゃない。

 陽炎のように霞み、逃げ水のように消えて行く。だが、滲み出す殺気は殺し屋のようなプロでも無い。


 翡翠の銃口が持ち上がる。直線軌道上に航がいる。侑は奥歯を噛み締め、引き金を絞った。

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