⑻ヒーローの片鱗

 空の木箱や雑品の数々が砕けて散った。侑は航の首根っこを引っ掴み、倉庫の影に身を潜めた。すると、今度は狩りを再開するとばかりに、翡翠は逃げ出す一般人を狙った。


 航が身を乗り出し、怒鳴り声を上げた。




「止めろ!!」




 それは、血を吐くような叫び声だった。

 けれど、翡翠は腕を下げない。淡々と作業的に、追い立てるように丸腰の一般人を射殺して行く。


 悲鳴と銃声が響き渡り、血と硝煙の臭いが充満する。




「お前、ヒーローの息子だろう?」




 その声は慈愛に満ちているのに、濁った碧眼は狂気に染まっている。


 革靴の足音がする。侑は息を殺して、航の頭を押し込んだ。航は手負いの獣のような警戒を滲ませて、震える程強く拳を握っている。その間も破裂音が鳴り響き、一般人が成す術も無く殺されて行く。


 憎悪でも、怨嗟でもない。純粋な殺意と好奇心。翡翠は実験動物を観察するみたいに、愉しそうに言った。




「ヒーローとは旧知の仲でね。昔は色々と話をしたよ」




 辺りがしんと静まり返る。

 一般人が逃げ切ったのか、翡翠が殺し尽くしたのか。

 侑は銃の装填を確認した。まさか銃撃戦になるとは思わなかったのだ。予備の銃弾は無い。




「ヒーローがよく言っていたよ。どんなに深い絶望の底にも、希望の光は必ず差し込む。人の善性を信じると」




 吐息を漏らすみたいに、翡翠が笑った。




「俺はあいつと約束をしていたんだ。絶望に膝を突くその時は、俺が殺しに行くと。――まさか、爆弾テロで死ぬとは思いもしなかったが」




 航は俯き、唇を噛み締めていた。

 癒えてもいない傷痕に塩を塗り込んで来る。こんな奴はろくでもないクソ野郎だ。侑は奥歯を噛み締め、そいつを黙らせる算段を考えた。




「笑えるよな。あいつは、人の善性に殺されたんだ!」

「違う!」




 脊髄反射みたいに航が叫んだ。

 その声で居場所を把握した翡翠が、容赦無く銃弾を撃ち放つ。壁が抉れ、火花が散った。




「爆弾を見付け、息子を置いて逝かなければならないと分かった時、どんな顔をしただろう? その息子がプライドを折った時、どんな音がしただろう?」




 侑は眉を顰めた。


 何者なんだ、この男は。

 何を知っている。何を狙っている。侑は、今にも飛び出しそうな航を片手で制した。




「楽しませてくれよ、ヒーローの息子。親父の代わりにな!」




 その時、足元で硬い音がした。

 其処に転がっていたのは、黒い鉄の塊――手榴弾だった。


 ピンは抜けている。蹴り返すには間に合わない。このままじゃ二人共、消し炭だ。


 侑は、ヒーローの死の瞬間を想起した。

 爆弾を見付けた時、ヒーローの背中には息子がいた。逃げることも出来た筈だった。だけど、ヒーローは爆弾に覆い被さって、幾つもの金属片に貫かれて死んだ。


 死ぬかも知れないその瞬間、身を挺して他人を守ることの出来る人間がいる。きっと、航はそういう子供だ。

 ジャンクマンが銃口を向けた時も、航は友達を庇って躍り出た。そういう人間を失くしちゃいけない。未来を作っていくのは、航のような人間だ。


 乾いた諦念が湧き出して、目の前が奇妙に明るくなる。

 良い死に場所じゃないか。薄汚れた自分には不釣り合いな程の大義名分だ。


 侑が足を踏み出そうとした瞬間、耳の奥にあのボーイソプラノが蘇った。


 ――侑が心から幸せな未来を見てみたい。


 明るい未来を捨てて、プライドを折って、底辺を這い回りながら生きている子供がいる。大舞台で輝かしく表彰されるような才能の坩堝。可能性の卵。夢はあるかと尋ねたら、彼はそんなことを言った。


 死ぬな、殺すな、奪うな。

 自分の未来を諦めるな。


 こんな俺でも、帰る場所がある。

 待ってる奴がいる。放っておいたら何処かに消えてしまいそうな、弟の残した最後の希望が。


 此処は俺の死に場所じゃない。


 直感すると同時に、正体不明のエネルギーが体の隅々に行き渡る感覚がした。凡ゆる音が吸い込まれ、消えて行く。目の前の事象がコマ送りに見えるような超次元の集中状態。


 侑は航の胸倉を掴んだ。手榴弾の凶暴な光が追い掛ける。両足は発条のように軋み、地面が罅割れる。


 凄まじい爆発音が鳴り響いた時、侑は地面に吹っ飛んでいた。爆煙が噴き出して、航が激しく噎せ返る。侑は銃を握っていた。


 煙の動きで、翡翠の居場所が分かる。

 引き金を引き絞った瞬間、脇腹に焼けるような熱が走った。構わず発砲するが、手応えは無い。


 航から遠去けなければならない。

 侑は航を物陰に押し込んで、銃口の前に躍り出た。


 ハヤブサに撃たれた傷が開き、出血している感覚がある。

 思うように体が動かせないことが、何より腹立たしかった。


 翡翠を壁際に追い込んだ時、銃弾が底を突いた。濁った碧眼が愉悦に歪む。侑は構わず、弾倉で側頭部を殴り付けた。翡翠の顳顬から鮮血が散った。こんな人でなしでも血は赤いのかと思うと、不思議な感覚だった。


 脇腹に痺れるような痛みが走った。

 侑が痛みに呻いたその瞬間、翡翠が銃口を上げた。その指が引き金を引く刹那、銀色の閃光が走った。


 航が、あの呪われたナイフを握っていた。その眼光は抜身の刃のように研ぎ澄まされ、一切の油断も隙も無い。翡翠の背後に回り、航はその首筋にナイフを突き付けていた。




「動けば、殺す」




 地を這うような低い声で、航が言った。

 翡翠は背後を見遣り、肩を竦めて笑った。




「手癖が悪いな、ヒーローの息子」




 どうやら、侑が殴り付けたあの一瞬で、航は翡翠からナイフを掠め取ったらしい。抜け目の無さは流石、双子である。




「アンタは勘違いしてるよ」




 航は貫くような眼光をしている。

 弾切れは、侑も翡翠も同様だった。




「俺の親父は一匙の後悔も残さなかったし、俺の兄貴のプライドは折れてない」




 硝煙と血の臭い。瓦解した建物。積み重なる死体。この世の地獄を凝縮したような惨状の中で、航は透き通るような眼差しをしていた。澄んだテナーの声が、今は亡きヒーローの存在感を持って凜然と告げる。




「折れないから、ヒーローだ」
















 8.彷徨う刃

 ⑻ヒーローの片鱗














「降参だ」




 そう言って、翡翠が両手を上げた。

 それでも航はナイフを下さなかったし、侑も警戒を続けた。この翡翠という男が、ただの殺人鬼ではないと分かっていた。


 翡翠は両手を上げたまま、振り向いた。碧眼が航を捉えて、嬉しそうに微笑む。




「ヒーローの息子は、双子だったか……」




 舐めるように航を観察して、翡翠が言った。




「片割れの方にも、会ってみたくなったぜ」

「テメェが会うことは一生無ェよ」




 侑が言うと、翡翠は目を細めた。




「其処は随分と窮屈じゃないか、ペリドット?」




 翡翠が言った。

 侑は忌々しく思った。こいつは初めから全部知っていたんだ。エンジェル・リードとしてこの場所を訪れた時から、侑の過去も素性も知っていた。


 サイレンが聞こえる。警察のお出ましだ。けれど、翡翠はまるで意に介さず、蕩々と言った。




「どんなに取り繕っても、お前の本質は血に飢えた獣だ。人に慣れることは無いし、お前に守れるものなんて一つも無い」

「そんなことは、お前が決めることじゃねぇよ」




 黒煙の向こうに緊急車両の回転灯が見えた。

 武装した制服警官がスピーカーで呼び掛ける。お前は包囲されている、大人しく投降しろ。テンプレートみたいな恫喝がBGMのように流れて行った。


 翡翠はうっとりと微笑んだ。




「またな」




 その時、翡翠の足元から白煙が噴き出した。

 煙幕。侑は腕で口元を覆った。警官の動揺した声が響き、航が噎せる。革靴の足音が遠退いて行く。侑が追い掛けようとした時、焼鏝を刺されたかのような熱と痛みに襲われて、最早立っていることも儘ならなかった。


 酷い耳鳴りがして、平衡感覚が狂っている。白煙の中、航が侑の腕を取った。其処から気力が注ぎ込まれて行くみたいに足が軽くなる。航は侑の腕を引きながら、警官から離れて行く。




「親父が、言ってた。……辛い時、もう駄目だと思う時にこそ立て。座り込む時は、死に行く時だと思えって」




 航は腕で口元を覆いながら、軽く噎せた。

 目の前は白煙に覆われ、どちらが前かも分からない。だが、航にはまるで、行き先が見えているようだった。


 そういえば、湊もそうだった。

 燃え盛り、沈み行く遊覧船の中で、彼だけが脱出のルートを見付けていた。生き残ることに関して、この双子には敵わないと思った。




「希望があるって、何度も言ってたよ」

「格好良い親父だな」

「そうかな」




 侑が言うと、航は鼻で笑った。




「俺は希望なんて大嫌いだ。だから、辛くて苦しい時はこう叫ぶことにしてる」




 白煙の中で航が振り向いた。

 吸い込まれそうな存在感を放ちながら、航は子供のように無邪気に笑っている。




「逆境上等!」




 雲間から朝日が差し込んだみたいだった。

 航は悪戯っぽく言うと、侑を白煙の外に導いた。




「警察の事情聴取は、俺が受ける。侑は帰って手当てをしたら、湊に報告してくれ」

「……」

「不安そうな顔すんなよ。俺は善良な一般市民だぜ?」




 じゃあ、また後でな。

 そう言って、航は白煙の向こうに引き返して行った。

 見えない糸が繋がっているような気がした。


 瓦解した建物の外は規制線が張られ、警官とパトカーが押し寄せていた。マスコミが遠巻きにカメラを向けている。侑は人目を避け、裏道を選んで帰路を辿った。


 体が重かった。

 傷跡が開いて、濡れている感覚がする。まるで着衣水泳でもしたみたいだった。白煙の外に出た筈なのに、視界が白く滲んでいる。だが、此処で気を失ったら航の気遣いが無駄になってしまう。


 冷たい路地裏で呼吸を整えていると、目の前に影が落ちた。

 表通りの光を背負って、それは労るような優しい声を出した。




「大丈夫か」




 紫色の虹彩が、宝石のように煌めく。

 バシル・イルハム。医者の卵で、航の友達。


 バシルは侑の横に跪くと、出血した患部を視診した。




「何があったんだ」

「うるせぇ、放っとけ」




 処置しようとする手を払い除けると、バシルが拳を握った。




「放っておけるかよ」




 抵抗する気力も無かった。

 バシルはハンカチで患部の止血をすると、侑の腕を肩に回した。見下ろす程の身長差だった。




「貴方が何者なのか、どんな事情があるのかは知らない。だけど、医療は平等なんだ。俺には貴方を助ける義務がある」




 そんな正論と綺麗事で、一体何が救えると言うのか。

 侑には分からない。バシルは殆ど引き摺るようにして、侑を運んだ。意識は朦朧としていた。視界に銀色の砂嵐が見える。


 バシルに引き摺られて帰宅して、侑はソファに倒れ込んだ。自分のことは自分が一番よく分かる。これは貧血の症状で、輸血が必要だった。だが、侑が行けるような病院は無い。




「救急車は……、呼ばない方が良いよね?」




 侑は咳き込んで、ポケットから携帯電話を取り出した。

 腹部からの出血の為に、ディスプレイには血が付いていた。着信履歴が残っている。侑は折り返す余裕が無かったので、バシルに投げ渡した。




「着信が残ってるから、そいつに掛けてくれ。俺のことは、そいつの方が詳しいから」

「どちら様?」

「航の兄貴」

「ああ、船乗りの」




 バシルはそんなことを言って、電話を掛け始めた。

 なんだかよく分からないが、バシルは湊のことを船乗りだと思っているらしい。いつか顔を合わせる日が来たら、驚くだろう。


 夢現に、湊の声が聞こえる。

 それは細波のように柔らかく、静かだった。


 話したいことがあって、聞きたいこともあった。

 出来れば声だけじゃなくて、顔が見たい。


 なあ、湊。

 お前の弟は、本当に格好良かったよ。

 間違いなくヒーローだ。


 得意げに笑う湊の顔が目蓋の裏に浮かんで見えて、侑の意識は薄明かりの中に途切れてしまった。

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