⑼因果逆転
夢を見た。
暖炉の前で、湊が本を読んでいる。橙色の光に照らされた横顔は天使のように美しく、伸びた頸がぞっとする程、綺麗だった。
自分の手にはオーロラパールの刃が握られている。
あの白い首筋に刃先を滑らせたら、どんなに綺麗な血が噴き出すだろう。血が抜けた後の肌は透き通るように青白く、きっとどんな芸術品よりも美しいだろう。
光に群がる火取虫のように、侑は刃を振り上げた。
牙も鱗も毒も無い、狩り易そうな草食動物だ。この刃を振り下ろすだけで、その首筋を切り裂くだけで、ただそれだけで。
侑が刃を振り下ろそうとした時、横から腕が伸びて来た。それは侑の手を掴むと、感情の無い声で言った。
「それはないんじゃねぇの、兄貴?」
エメラルドの瞳が、呆れ切ったみたいに侑を見ていた。
烏のような黒髪を掻き混ぜて、弟――天神新は溜息を吐いた。
湊が顔を上げる。
新を見ると、湊は幸せそうに笑った。
二人の首元で銀色のドッグタグが光る。暖炉の火に照らされ、二人の周囲は聖域のような清浄な空気に満たされていた。美術雑誌を眺めて話し合い、時々、同じタイミングで笑う。そんな他愛の無い幸福で平凡な日常。
侑には、それが夢だと分かっていた。
新は死んだ。この世にはいない。湊は明るい未来を捨てた。どんなに願っても、祈っても、こんな夢は未来永劫叶わない。
有り得たかも知れない未来。届いたかも知れない夢。
弟が死んだあの日の絶望と後悔が、今も楔のように胸に刺さっている。
俺が死ねば良かったのにな。
新じゃなくて、俺が死ねば良かった。
そうしたら、湊は今も明るい世界を諦めず、航も平穏な日常で笑っていられた。薄汚れた俺なんかよりも、新が生き残るべきだったんだ。
その時、暖炉の前に座った湊が此方を振り向いた。
濃褐色の瞳には柔らかな光が灯っていた。
「侑が心から幸せな未来を見てみたい」
其処で、明転。
侑の意識は、階段を踏み外したかのような転落感と共に回帰した。
全身にびっしょりと汗を掻いていた。拍動が耳元で聞こえ、見慣れた天井が視界一杯に飛び込んで来る。
額には濡れたタオルが置かれていた。侑は体を起こし、濡れタオルで汗を拭った。
暖炉には火が灯っている。時折、薪が爆ぜた。ロッキングチェアは無人で、湊も新もいない。
夢だと分かっていた。有り得ないと知っていた。だけど、願わずにはいられない。俺は彼等の未来を守ってやれなかった。
「航のお兄さんに連絡したよ」
キッチンから、バシルの声がした。
振り向くと、バシルはミネラルウォーターのペットボトルを差し出した。喉がからからに乾いていた。侑は受け取って、一気に半分以上飲み干した。
「貴方の持ち物に、輸血パックと点滴液があったよ。見たことない薬だったけど、何か持病でも?」
腕には細い管が繋がれていて、その先には輸血パックと透明な点滴液があった。侑は、その持ち物に覚えが無かった。
湊が黙って送り付けていたらしい。用意周到過ぎて、怖いくらいだ。石橋は無視して泳いで渡るタイプだと思っていたけれど、命綱を巻いてから渡る人間だったらしい。
ちょっとな、と侑ははぐらかした。
自分の体質について、きちんと理解している訳ではなかった。幼少期に受けた薬物実験のせいで、脳に爆弾を抱えている。湊の作った薬で症状は抑えられているが、事例が無いので将来のことは分からない。
「航の双子のお兄さんなんだよね? 少しだけ話したけど、なんだかすごく年上みたいだったな。勿論、良い意味でね」
「……なんか言ってたか」
「元気になったら、連絡が欲しいって言ってたよ」
「分かった」
侑は濡れタオルを放って、携帯電話を引っ掴んだ。
時刻は午後七時。航はまだ帰宅していない。事情聴取が長引いているだけなら良いのだけど。
夢見が悪かったせいで、不安が拭えなかった。
自分の大切なものが、手の届かないところにある。知らないところで消えてしまっていても、自分は気付くことすら出来ないかも知れない。
侑が電話を掛けようとしたその時、玄関から航の声がした。
「ただいま!!」
蹴破るような勢いで、リビングの扉が開かれる。航は般若の形相で静電気みたいな苛立ちを纏っていたが、侑を見ると表情を和らげた。
「おお、無事で良かったぜ。バシルが手当てしてくれたのか? ありがとな」
「いや、俺は航のお兄さんの指示に従っただけだよ」
「湊と話したのか? 変人だったろ、ごめんな」
航は猛烈な勢いで話し、バシルが口を開く隙を与えない。
「災難だったな、侑。こんな日はさっさと寝た方が良いぜ。なあ、そうだろ。バシル?」
航は目を細めて笑った。
バシルはぽかんと口を開いていたが、何かを察したかのように苦笑した。
「そうだね。お大事にね、侑さん」
バシルはそう言うと、荷物を纏めて立ち上がった。
追い立てるみたいに航が玄関へ促す。些か強引だが、航らしくもあった。
8.彷徨う刃
⑼因果逆転
「警察署で、とんでもない話を聞いたよ」
暖炉の前、航がロッキングチェアに片膝を立てる。橙色の炎を映し、その濃褐色の瞳は煌々と揺れて見えた。
侑は役目を終えた輸血パックを袋に入れ、ゴミ箱に捨てた。医療廃棄物は処分に規定があるらしいが、分からなかった。
「あの建物の中から、八人の遺体が出て来たんだ」
「……遺体?」
航は神妙な顔付きで、頷いた。
「かなり古い遺体で、身元不明。まだ捜査中らしいんだけど、もっと増えるかも知れない」
「何なんだ、それ……」
アートバーゼルの会場は、公営施設だった。
どうしてそんな所に八人もの遺体があったのか。――気味が悪い。
航は膝に顎を埋め、目を伏せた。
「あんな奴等は生きていたって仕方ない。あいつが言ってた。もしかして、呪いの正体は、あいつだったんじゃないかな?」
「……五十年前のナイフだぞ」
「だけど、最初の持ち主が死んだのは、ナイフが作られてから随分と時間が経ってからだ。詳しいことは俺も分からない。でも、あれは呪いじゃなくて……」
そう言って、航は言葉を切った。
サイコパス――社会に於ける捕食者。
彼等を理解することは難しい。故に、我々は異なる生物であると認識する必要がある。
航の祖父が書き記した文章が蘇る。
この世界には、理解の及ばない人間がいる。そいつ等は恰も常人のふりをして社会に溶け込み、何食わぬ顔で搾取し続ける。
夕食の後、湊に電話を掛けた。
数コールと掛からない内に通話は繋がった。まるで、携帯電話の前で待ち構えていたみたいだった。
『怪我の具合は?』
いつもの呑気な挨拶は無かった。
侑はソファに身を沈めた。
「傷が少し開いただけだ。お前のお蔭で助かった」
『そうか。……良かった』
スピーカーの向こうで湊がほっと息を吐いた。
『航の友達が医学生なんだってね。知識のある人が側にいてくれて、良かったよ』
「ああ、そうだな」
この話題を掘り下げると、最終的には謝罪しなければならない。心配させたという点では甘んじて叱責を受けても構わなかったが、優先して話さなければならないことがあった。
「翡翠って男を知ってるか?」
『どんな人?』
「五十代後半くらいの大学教授みたいな男で、碧眼だった。多分、日本人。お前等の親父と面識があるらしい」
『聞いたことは無いな。その人が何かしたの?』
「あのナイフを持ってた。連続殺人犯かも知れない」
アートバーゼルの建物から遺体が発見されたことや、翡翠が語ったこと。侑が言うと、湊は沈黙した。
それが思案なのか躊躇なのか、侑には読み取れない。暫しの沈黙の後、湊が再び口を開いた。
『ナイフの流通経路を追っていたら、不思議なことが分かった。流通経路に必ず、仲介業者が入ってたんだ』
「仲介業者って?」
『美術商だったり、学芸員だったり、……アートバーゼルだったり』
背筋が寒くなる。
つまり、人が死んだのはナイフの呪いではなく、意図的な殺人だったのだ。犯人は美術家を装ってターゲットを物色し、呪いのふりをして人を殺した。
証拠は無いし、ろくな捜査もされなかった。
何故か。――みんなが、それを望んだからだ。
『ナイフの呪いが起こった時には、失踪者が出てる』
「……お前は、呪いだと思うか」
『分からない。でも、もしもこれが人為的な事件だとしたら、相当頭が良い犯人だろうね。証拠も残さず、疑われもせず、今も捕まっていない』
侑は瞼を下ろした。
世の中には、とんでもない狂人がいて、言葉も出ないような凄惨な事件が起こる。猟奇殺人と呼ばれるそれは一世を風靡するけれど、実際は氷山の一角でしかない。
真の邪悪は、社会の中に溶け込んでいる。そして、そいつ等は今も何処かで獲物を探し、虎視眈々と狙いを定めているのだ。それを見抜き、理解することは難しい。
『俺は困っている人がいたら助けるし、別に理由なんて無い。そいつ等が人を殺すのも、同じなのかもね』
「……理由も動機も無いってことか?」
『可能性の話さ』
湊は乾いた声で言った。
『世の中には、答えのない問題が山積みになってる。人を傷付けたり、道を踏み外したりするのに必ずしも理由があるとは限らない』
「そりゃ、経験談か?」
『そう見えるの?』
「見方によってはな」
湊が笑った。
『俺はちゃんと考えてる』
「じゃあ、なんで進んで貧乏籤ばかり引くんだ?」
『皿の上の餌を待つだけが人生じゃないのさ』
何言ってんだ、こいつ?
侑には理解不能だった。
「自分から腐った餌を食いに行ってる理由を訊いてるんだ」
『食べ物は腐りかけが一番旨いらしいよ』
「それで腹下してりゃ世話ねぇわ」
湊が笑ったので、侑も釣られて笑った。
悲観的なのか楽観的なのかよく分からないところが、湊らしい。
『翡翠って人のことは、調べておくよ』
「ああ。それから、あのナイフのことなんだが」
『あれは殺人事件の凶器だ。警察に押収されてる』
「そうか……」
結局、呪いのナイフのままか。
物に罪は無いけれど、事実は残る。背景はどうあれ、あのナイフによって人が死んでいる。俺達には何も出来ないし、犯人も捕まらない。
侑はキッチンを見遣った。航が夕食の片付けの為に水盤の前に立っている。機嫌良さそうに鼻歌なんて歌っているが、どうにかマシな落とし所を見付けてやりたかった。
『あのナイフの呪いは、何十年も掛けて刻み込まれた。それを解くのは同じくらい長い時が必要だ。今は眠らせてやるべきだと思う』
「……そうだな」
じゃあ、俺達がやったことは何の意味も無かったのか。
ナイフは呪われたまま、殺人犯は裁かれず、自分は怪我を悪化させて、航は危険を冒した。得たものは何も無い。
疲労感に背中がどっと重くなる。
「全部、無駄だったな」
『俺はそう思わないね』
即座に湊が否定した。
どんな状況でも諦めないのは湊の長所であるが、もう何も出来ないのだ。だが、湊は確信を持った強い口調で言った。
『遺体が見付かったんだろ?』
「そうだよ。八人な。もっと増えるかも知れないってさ」
『遺体の身元が分かれば、弔うことが出来る』
「些末な問題だろ」
『何言ってんだ、侑』
湊が低い声を出した。
全然怖くない。
『失踪した人の家族が、どんな気持ちだったと思うんだ。遺体を弔うのは、悲しみに区切りを付ける為の大事な儀式だ』
「そりゃそうかも知れないが……」
侑は人を殺すし、死体は業者に委託して処分して来た。その手前、遺体発見を喜ぶのは居心地が悪かった。
これだけの事件があったのに、救いはそれしか無いのか。――いや、救いが残されているということ自体が、幸福なのだろう。
『解釈するしかない。少しでも救いのある方にね』
侑は肯定した。
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