⑽リトル・スター

 車軸を流す大雨がニューヨークの街を包み込む。

 朝から降り注いだ雨は止む気配も無く、雨水が濁流となって排水溝へ流れ落ちる。華やかな経済の中心地も、その日はモノクロの世界へと変わり果てた。


 烏のような傘が列を成す。

 郊外の墓所はノイズのような雨音に包まれ、喪に服した人々が涙を拭いながら牧師の言葉に耳を傾けた。墓石には傘が立て掛けられ、供えられた白い花々を静かに守っている。


 アートバーゼルの会場から見付かった遺体は、全部で二十人。全てが他殺だった。身元確認が不可能な程に損壊している遺体もあり、古いものは二十年近く昔のものだった。


 未曾有の大事件だが、証拠の類は見付かっていない。翡翠という男については一切の情報が分からなかった。名前も年齢も国籍も不明。そいつが事件に関わっていると証明するのは、航の証言だけだった。


 航は度々警察署に呼び出されて事情聴取され、自作自演だと嘯く警官もいた。翡翠の存在を主張すること自体が不利益になる。航は主張を曲げなかったので、湊や神木がコネクションを動員して、名誉を守る為に奔走することになった。


 真実が受け入れられるとは限らない。

 神木は、そんなことを言った。


 遺体の身元が判明し始めると、航への悪評は次第に減って行った。FBIは本部を立てて捜査に乗り出したが、犯人が逮捕されるまでには長い時間が掛かるだろう。


 そして、侑は遺族の葬儀に参列した。

 長い間、失踪とされていた家族が他殺体で見付かったのだ。葬儀には遺族の慟哭と嗚咽が響き渡った。希望を打ち砕かれ、諦め放心状態の遺族が、当たる先も無く涙を落とす。侑は黒い傘を傾けながら、彼等の悲壮な叫びをただ聞いていた。


 命の価値とは。罪の所在とは。

 彼等は誰を恨み、憎み、責めたら良いのか。家族を奪われたという結果だけが残って、情報は秘匿され、犯人は見付からない。


 この世は理不尽で、不条理で、不平等で、設計ミスだらけの欠陥品そのものだ。――けれど、どんなに深い絶望の底にも希望の光は必ず残されている。


 失踪者の中に、殺人容疑が掛けられている者がいた。

 それは、ナイフの呪いで人が死んだ直後に、失踪したとされる者だった。遺体が発見されたことで容疑が晴れ、無辜の一人として弔うことが出来たのだ。それを知った時の家族は、声も無く涙を落とした。


 遺体を弔うことが許される。

 それだけが、この事件の救いだった。


 侑は、形容し難い虚無感を抱いた。

 自分は人殺しだ。弁解するつもりは無いし、後悔もしていない。いつか断罪の刃が振り翳されたとしても言い訳はしないし、謝罪もしない。けれど、残された家族が悲しみに暮れる姿を見て、何も思わない訳ではなかった。




「侑」




 柔らかなテナーの声が自分を呼ぶ。

 振り向くと、黒いスーツを着た航が立っていた。連日の事情聴取のせいか、葬儀の雰囲気のせいか顔色が悪い。


 航の名誉は回復したけれど、傷痕が癒えるには時間が掛かる。湊は訴訟を起こしても良いと言っていたが、航はそれを望まなかった。航本人よりも、湊と神木の方が怒っていたと思う。


 唇を噛んで堪えるしかないという場面で、誰かが代わりに怒ってくれるのは、幸福なことだ。それは間違いなく、航の持つ財産で、善性の賜物だと思う。




「憎みながら生きるのもキツいけど、責める先が無いのも辛いな」




 航はそんなことを言って、目を伏せた。

 見覚えのあるスーツだと思ったら、両親の葬儀で着ていたものだった。あの日は澄み渡るような青空で、隣には湊がいた。


 侑は微笑んだ。




「泣いても良いんだぜ?」

「なんで俺が」




 航は鼻を鳴らした。

 彼等は、両親の葬儀でも泣かなかった。鐘の音が響く墓石の前で、彼等は前方を睨むように、ただ立っていた。


 航は凪いだ眼差しで、悲しみに暮れる遺族の群れを眺めている。




「……侑にハレーションが掛かってた時、危険が迫ってると思った。だけど、そうじゃなかった」




 航が言った。

 彼には、他人には見えないものが見える。超感覚的知覚、霊感、シックスセンス。名称は分からないが、どうやら本当に自分とは違うものが見えているらしい。


 航の視線は、墓所を取り囲む森を見ていた。酷い雨の中、鬱蒼とした森には誰もいない。けれど、航は確かに其処を見ている。




「あれは、助けを求める声だった」




 果たして、それは誰の声だったのか。

 侑には、それを聞くことは出来ない。航は森を見詰めたまま、自嘲するみたいに言った。




「見付けてくれて、ありがとうってさ」

「……そうか」




 侑は、航の頭を撫でた。

 子供扱いするなと怒るかと思ったが、航は穏やかだった。

 呪いや幽霊が本当に存在するのかどうかは、分からない。だが、航があると言うのならば、信じたい。それで彼等が救われるのならば、幾らでも。












 8.彷徨う刃

 ⑽リトル・スター











 日本の新聞の大見出しに、イジメ裁判の記事が載っていた。

 被害者も加害者も未成年の刑事裁判は、前代未聞として反響を呼んでいる。


 この世には裁かれない罪があり、裁けない犯人がいる。

 生命は尊く、赦しは美しいものであるが、正しさだけでは生きられない。それが人という生き物の限界なのだと思う。


 侑は新聞を丁寧に折り畳み、鞄に入れた。

 空は、先日の豪雨が嘘のような快晴だった。携帯電話で時刻を確認する。飛行機の離陸まであと少し。


 侑がニューヨークに滞在したのは、凡そ一ヶ月。

 療養の為に渡米した筈だが、想定外のトラブルに巻き込まれて予定は一週間程ずれ込んでしまった。怪我は完治した訳ではないけれど、日本に残して来た湊が心配だった。


 出立の日、航とバシルが見送りに来た。二人は搭乗ゲートの向こうで、穏やかな顔付きで笑っている。機体に乗り込む前に挨拶をしようと足を踏み出すと、二人の後ろに幽霊のような男が立っていることに気付いた。


 湊と航の後見人、神木葵。

 何の義理で見送りに来たのか知らないが、喧嘩をしに来た訳では無さそうだった。侑が柵の側に近付くと、バシルが言った。




「船乗りのお兄さんに、宜しく言ってくれよ。高そうな菓子折が送られて来たんだ」

「菓子折?」

「借りを作りたくないって言ってたよ」




 航にそっくりだねぇ、とバシルは笑った。

 どうやら、貧血で朦朧としていた自分を助けたことへの謝礼らしかった。普段は大雑把なのに、恩には報いる義理堅さがある。それは誰譲りなのだろうか。


 神木は素知らぬ顔で立っていたが、侑が視線を遣ると溜息を吐いた。




「湊に言っとけ。何やってんだか知らないが、あんまり無茶すんなって」




 そのくらい、自分で言えよ。

 侑は思ったが、それを言えたら苦労は無いのだろう。不器用で損な役回りだ。だが、この男が湊と航を守って来てくれたのだ。


 心配する気持ちは、痛い程に分かる。

 唯一身内と呼べる存在が、守るべき子供が、自分の手の届かない所で危険に晒されている。侑には堪えられないし、冷静でいられる自信も無かった。だからきっと、湊と航の理性は、神木葵が育ててくれたのだろうと思う。




「確かに伝える。でも、あんまり厳しく叱ってやるな」

「それが響く相手じゃねぇ」




 言い返してやっても良かったけれど、彼等のことに関して口を出す立場にはない。侑は苦く笑った。




「良いか悪いかは、分からねぇ。でも、踏ん張って生きてるよ。それだけは、認めてやれば?」

「そんなことは言われなくても分かってんだよ」




 神木が当然みたいに言った。

 ツンデレと言う奴だろうか。オッサンに需要があるとは思えないが、想像していたよりも人間味がある男だったことに感心した。




「春休みになったら、会いに行くよ」




 航が言った。

 大学があるので長期滞在は難しいらしいが、顔を見に来るそうだ。その時まで日本にいるのかは分からない。




「楽しみにしてるよ」

「おう。湊のこと、宜しくな」




 またな、と拳を当てた。

 何のジンクスなのかは知らないが、湊と航にとっては大事な儀式らしいので、其処に加えられたのは喜ばしいことなのだろう。


 機体に乗り込んでから、小さな窓を眺めた。

 飛行機は離陸するまでが長い。滑走路をぐるぐると回る時間は如何にか短縮出来ないのだろうか。


 あんな奴等は、生きていたって仕方がないと思わないか?


 不意に、翡翠の言葉が脳裏を過った。

 神出鬼没の殺人鬼。神木は、そいつと面識があった。


 出会ったのは彼等が学生の頃で、今から二十年以上も前のことだった。その時は、早川翡翠と名乗っていたらしい。しかし、素性は一切不明である。


 拉致や薬物投与、テロや新興宗教の創立など、何をしたいのか全く分からないが、国際的に指名手配されてもおかしくないような犯罪者だった。


 湊と航の父は、他人の嘘が分かる人だった。

 そんな彼等の父が唯一、嘘を見破れなかった他人。


 ナイフの呪いに紛れて大勢の人間を殺したが、其処には明確な動機や理由は無い。殺し方にも一貫性が無く、ターゲットに共通点は無い。確実なことはただ一つ。そいつは今も生きて、何処かで獲物を探している。


 貴方は血に飢えた獣のようね。

 以前、アーティラに言われたことがある。自分の本質は、一体何なのだろう。血に飢えた獣か、愚かな殺人者か。


 そんなことを考えていたら、携帯電話が鳴った。マナーモードにしていなかったことに慌てて取り出してみると、湊からの着信だった。


 離陸にはまだ少し時間がある。

 ギリギリ出られる。侑は周囲を見遣ってから、通話に応えた。




「これから日本に戻るよ」

『えっ、本当? まだパーティの準備が出来てないよ!』




 パーティの準備って何だよ。

 侑は笑った。




「そんなもん、いらねぇよ」

『じゃあ、俺の準備は無駄になるってこと?』

「そういう訳じゃねぇけど」




 湊は、変な奴だ。

 裏社会に放り込まれて、世界の何もかもを恨んでもおかしくない状況で、薄汚れてしまっても、その魂はいつも雨上がりの空のように澄んでいる。


 何となく、訊いてみたいと思った。

 どんな逆境でも中指を立てて笑っているような子供が、どんな世界を見ているのか。自分の姿がどのように見えているのか。




「なあ、湊」




 侑が呼び掛けると、湊が返事をした。

 訓練された犬みたいだった。




「俺って、どういう人間なんだ?」

『どういう?』




 湊が復唱した。


 生命は尊いものだ。だけど、自分はそれを奪って生きて来たし、これからもそうするだろう。俺の本質は血に飢えた獣なのか。――翡翠と同じように。


 スピーカーの向こうで、湊が明るく言った。




『侑はねぇ、甘い物が好き』




 湊があんまり自信満々に言うので、侑は噴き出した。隣の席の男が怪訝な目を向けて来る。侑は空咳をして誤魔化した。


 一番最初に出て来るのは、それなのか。

 侑は可笑しくなってしまって、更に問い掛けた。




「それから?」

『出汁巻き玉子も好き。あと、手品が得意。車もバイクも運転出来て、子供に優しい』

「あとは?」

『歯並びが綺麗で、寝相が良い。煙草を吸う時も配慮があって、困ってる人を放っておかない。辛抱強くて、聞き上手。それから……』

「分かった分かった。もう充分だ」




 問い掛けたら、湊は幾らでも答えてくれそうだった。

 自分の殺し屋としてのスキルとか、過去とか。そんなことは湊にとっては、初めから重要なことではなかったのだ。


 春の日差しを浴びたみたいだった。

 冷え切った指先が温まって、体の奥底からエネルギーが湧いて来る。


 湊が言った。




『俺は?』




 まさか聞き返されるとは思わなかった。目の前にいないのに、きらきらと輝くあの濃褐色の瞳が見えるようだった。




「努力家」

『それから?』

「いつも笑ってる。弱音を吐かない。最近、料理に嵌ってる」

『うん』

「本が好きで、サーフィンとバスケが得意。双子の兄貴で、いつも弟を気に掛けてる」

『侑はすごいな。どうしてそんなに俺のことを知ってるの? もしかして、俺のファンなの?』




 湊が冗談ぽく言ったので、侑は笑った。




「俺はお前のファンだよ」

『そうだったのか。握手出来ないのが、残念だ』

「俺もだよ。でも、もうすぐ出来るさ」




 何かに落ち込んでいたような気もするけれど、それが何だったか思い出せない。湊と話していると、俯いて悩んでいるのが馬鹿らしく、勿体無いと感じられた。


 この子が踏み止まっている内は、俺も放り出す訳にはいかないな。侑は心からそう思った。




『最近、ギターを弾いてる』

「ギター?」

『そう。一曲覚えたから、今度一緒に歌ってくれよ』




 そう言って彼が口ずさんだのは、童謡のきらきら星だった。


 界隈では殺人事件や凶器が出回っているのに、湊の周りは明るい。自分が背中を押してやらなくても、彼は勝手に明るい未来を築いて行くのだろう。




「いいぜ。頑張って練習しろよ」




 凍える夜に毛布を差し出されたようだった。

 湊と話していると奇妙な感覚になる。彼は否定もしないし、詮索もしない。それなのに、当たり前みたいに欲しかった言葉をくれる。


 侑は通話を切って、携帯電話をポケットに押し込んだ。

 寒さはもう、感じなかった。

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