9.夜空に光る
⑴弱り目に祟り目
It's not whether you get knocked down; it's whether you get up.
(打ちのめされたかどうかではなく、立ち上がったかどうかが大切だ)
Vincent Thomas Lombardi
電話が引っ切り無しに鳴っている。
何をそんなに焦っているのか、通話中にもキャッチが入って腰を据えて話していることも儘ならない。一つの商談を終えれば身内からの小言が入り、意味不明のクレーム対応をしていると、嘘吐きのハイエナがやって来る。
なんだかとても面倒臭くなってしまって、湊は携帯電話の電源を落とした。通話が繋がらないことで逃した魚はどのくらい大きいだろうか。この始末を付けるのにどんな罵詈雑言を堪え凌げば良いのか。
エンジェル・リードの事務室に一人で篭り、湊は机の上に顔を伏せた。疲労と睡魔が互い違いに襲って来て、後頭部が刺されるように痛む。
ニューヨークで、凄惨な事件があったらしい。
航と侑が大立ち回りをして解決に助力し、エンジェル・リードの名前も知られるようになった。今のところ、悪評が多いけれど、情報操作は得意なのでどうにか出来ると思う。――時間と体力の余裕さえあれば。
侑と航がニューヨークに行ってから、湊は自分がスケジュール管理が苦手であることを知った。
スケジュールを組んだ端から、優先度の高い予定が次々と舞い込んで来て、まるで賽の河原で石積みをしているみたいだった。所謂、リスケが兎に角、面倒なのだ。スケジュールを組んでいる間に、雑務は水のように溜まって行く。
手に負えないものは断ってしまえば良いと思っていたのに、王様みたいにスケジュールを押し込んで来る大馬鹿者がいる。それを突き放せる程、エンジェル・リードの土台は盤石じゃない。
「湊! 来たぞ!」
玄関から騒がしい声がして、湊は深く溜息を吐いた。
株価の変動を映していたパソコンを閉じ、湊は事務室を出た。応接室はベルガモットの甘く爽やかな香りに包まれているのに、玄関先から刺激的な香辛料の匂いがして目眩がする。
プライベート空間を他人に荒らされたかのような不快感を呑み込みながら、湊は招いてもいない客を出迎えた。
「ムラト。来る時は連絡をしてくれ」
湊が言うと、ムラトは無邪気に笑った。
アラブの大富豪、ラフィティ家の長男坊。エンジェル・リードにとっては大事なコネクションの一つだ。ムラトは取引相手であり、友達になるつもりは無かった。必要最低限の関わりだけで良かったのに、気付いたら此方の予防線を勝手に踏み越えて、王様みたいに居座っている。
「お前、電源切ってるだろ?」
「そうだったかな? 充電が切れちゃっただけさ」
「駄目だぜ。幸運の女神は前髪しかないんだから、チャンスは逃さず掴まなきゃ」
「俺は髪の長い女性がタイプだな」
「積極性の無い男はモテないぜ!」
「来る者は拒まず去る者は追わず、だよ」
「そんな消極的じゃ時代は乗りこなせないぜ」
頭が痛い。
そもそも湊のスケジュールが殺人的に多忙なのは、ムラトが気紛れに押し込んで来る商談やパーティーのせいだった。確かに有意義な取引で重要な社交場ではあるのだが、当日に言われることが多いので、スケジュールが狂ってしまうのだ。
クーデターを画策するような馬鹿息子と親しくするのは、将来的な不利益になるかも知れない。ムラトは此方のリスクなんて微塵も考えてはくれないので、湊の仕事は増える一方だった。
ムラトは勝手にソファに座って、家主のように寛いでいる。湊は仕方なく給湯室に向かい、ハーブティーを淹れた。厄介事ばかり持ち込む迷惑な男だが、一応は取引先である。
応接室から、ムラトが朗らかに言った。
「ヨーロッパの富豪のパーティーに誘われてるけど、来るか?」
「いつ?」
「今夜!」
「ふざけんな!」
堪らず水盤を叩くと、ムラトが快活に笑った。
腹立たしさが込み上げて来て、湊は叩き付けるようにマグカップをテーブルに置いた。反動で熱湯が跳ねて手に掛かり、湊は悲鳴を上げた。踏んだり蹴ったりだった。
「俺のことを暇人だと思ってんの?」
「思ってないぜ!」
「じゃあ、なんで当日に言うんだ」
「それなら、来なくても良いぜ。俺は、親切のつもりで言ってるだけだからな!」
ムラトは足を組み、傲慢に言った。
マグカップを投げ付けてやろうかと思った。
「何が親切だ。俺を嘘発見器に使いたいだけだろ」
「それはお互い様じゃないか?」
ムラトは微笑んだ。
彼に連れられて何度かパーティーに顔を出して、各界の重鎮と交流することが出来た。エンジェル・リードの活動だけでは知り得ない情報を獲得出来る上に、コネクションにも繋がるので一石二鳥ではある。勿論、それはムラトの純粋な親切ではない。
ムラトは、敵と味方の判別をしたいのだ。
湊は他人の嘘が分かる。集まって来るのが純粋な商人なのか、ハイエナなのか、獅子身中の虫なのか見極めようとしている。その為に、自分の存在は都合が良いのだ。
このままじゃ駄目だ。ラフィティ家の後光に当てられて、エンジェル・リードが呑み込まれてしまう。ムラトの傘下で良いように使われるなんて死んでも御免だ。
腕を組んだムラトが、慈悲と余裕に満ちた声で言った。
「俺達は運命共同体だろ?」
お前と心中する為に、エンジェル・リードを守って来た訳じゃないんだよ!
憎らしいし、疎ましい。だけど、此処で言い返すだけの地力が無い。非力な自分が一番、腹立たしかった。
9.夜空に光る
⑴弱り目に祟り目
都心で開催されたパーティーは、それなりに豪勢で、肩が凝った。
食事を楽しめる訳でもなければ、酒が呑める訳でもない。ムラトの腰巾着みたいに彼方此方へ連れ回されて挨拶し、下衆な視線に晒されて、気分が悪くなった。
解放されたのは午後十一時を過ぎた頃だった。
慣れない礼服を着崩して、湊は一人で夜の街を歩いた。公共機関の利用は避け、人気の無い道を選ぶ。補導されるのは面倒だった。
冬の空気は冷たく澄んでいるのに、地上の明かりが眩し過ぎて星が見えない。汚れた夜空を眺めながら、湊は白い息を吐き出した。
仕事用の携帯電話は、ずっと電源を落としている。
先日、中東の雑誌にラフィティ家当主のインタビュー記事が載った。当主がエンジェル・リードについて言及したせいで、アジアの富裕層の間で名前が売れて、把握出来ないくらいの客が押し寄せたのだ。
曰く、エンジェル・リードは投資家としては未熟だが、人間としては信用出来る。彼等の成長を願い、ラフィティ家は援助をして行く――うんちゃらかんちゃら。
ラフィティ家の後盾を得たのではなく、都合の良い生贄に祭り上げられたのだ。ムラトは運命共同体なんて言っているが、何かあったら罪を着せられて、トカゲの尻尾みたいに切り捨てられるだろう。
俺の歯車は、何処から狂ってしまったのだろうか。
ムラトを助けたことか、侑をニューヨークに送ったことか、それとも。
溜息を呑み込んだ時、プライベートの携帯電話が鳴った。
閑静な住宅街に間抜けな電子音が鳴り響き、湊はポケットに手を入れた。ディスプレイを確認すると、翔太からの電話だった。
侑をニューヨークに送り出してから、湊は立花の事務所に身を寄せていた。裏社会のトラブルに巻き込まれた時に自衛出来ると思わなかったからだ。
けれど、今朝、立花と喧嘩をして事務所を飛び出したのだ。
目玉焼きに何を掛けるかで言い争っていたのだけど、段々と互いにヒートアップしてしまった。怒りが頂点に達するとその場から逃げてしまうのは、自覚する悪い癖だった。
『よう、湊。無事か?』
翔太が明るい声で言った。
裏表の無い爽やかな声を聞いていると、荒んだ心が癒されるようだった。湊は周囲を見回して、住宅街の外れにある月極駐車場に入った。
月の無い暗い夜だった。駐車場は青白い外灯と住宅地の明かりに照らされ、仄暗く、まるで水の中にいるみたいだった。
悴む両手に息を吐き出し、湊は携帯電話を耳に当てた。
『立花もちょっと反省してるよ。だから、帰って来い』
「嫌だ。蓮治が謝るまで、絶対に帰らない」
『じゃあ、永遠に帰れないぞ。立花が謝る日が来たら、それは地球滅亡の日だ』
「だったら、地球なんて滅亡しちゃえば良いんだ」
どうして、いつも自分ばかりが譲らなければならないのか。
虚しさに似た苛立ちが込み上げて、翔太にまで八つ当たりしてしまいそうになる。
『どっちもどっちだと思うけどな』
翔太はそんなことを言った。
湊だって、言われなくても分かっている。喧嘩とはそういうものだ。どちらか一方だけが悪いなんてことは無い。分かっているけれど、男には退けない時がある。
『何かある前に帰って来た方が良いぞ。今は侑もいないんだから』
湊は、唇を噛み締めた。
俺だって、侑に頼りっぱなしで良いなんて思ってない。
翔太の言葉に他意が無いと分かっているのに、疲労のせいか考えが卑屈になってしまう。
じゃあ、俺が一人でも生きられるくらい強かったら良かったのかよ。そうしたら、侑は怪我をしなくて、立花の世話にならずに済んで、権力者に利用されることも無かったのか。
駐車場は白い混凝土の壁に囲まれていた。湊は砂利を踏み締め、壁に寄り掛かった。
壁の向こうは一軒家だった。穏やかな家族の団欒が微かに聞こえ、温かな光が溢れている。湊にはもう戻れない世界だ。
「俺だって忙しいんだ」
方便ではない。事実だった。
エンジェル・リードの投資活動の他に、不規則に押し込まれるムラトの誘い、それから、明瞭学園のイジメ裁判。
法曹界とのコネクションが欲しくて、私立高校のイジメの実態について調査した。紆余曲折あって、湊はイジメの証拠を掴み、加害者に社会的制裁を加えた。
そのこと自体には何の後悔もしていないが、被害者遺族が刑事告訴したので、弁護側は提出された証拠の出所を調査し始めたのだ。社会的制裁にエンジェル・リードの名前が出されてしまうと、ちょっと面倒である。
「今日はうちに帰る。蓮治にはそう伝えてくれ」
『待てよ、湊』
「ごめんね、翔太」
言葉の先も聞かず、湊は通話を叩き切った。
一軒家から明かりが消えて、駐車場は闇に包まれた。携帯電話をポケットに戻して、顔を上げた、その時だった。
「お前が湊だな?」
腹の底に響くような低い声がして、振り返った先に誰かが立っていた。それは青白い外灯に照らされ、路傍の石のように気配が無い。
それは、一人の男だった。
険しい山岳地帯の巌のように荒々しく、何処か近寄り難い壮年の男である。筋骨隆々とは言わないが、がっしりとした骨格に均整の取れた筋肉が搭載されている。
薄闇の中、その男は猛獣のような目をしていた。丸腰で獅子の檻に放り込まれたかのような緊張感と威圧感が首を絞める。咄嗟に後退ると、混凝土の壁に当たった。逃げ道が無い。
「……先に名乗るのがマナーじゃないの?」
そう言いながら、湊は視線を巡らせた。
武器の類は携帯していない。銃もナイフも爆弾も、嫌いだからだ。男の口角が釣り上がる。摺り足のように一歩目が踏み出される刹那、湊は背後の壁に攀じ登った。
混凝土は風化して、内部から赤く錆びた鉄芯が出ている。
背後から砂利を蹴り飛ばす音がした。湊が頂上に足を掛けたその瞬間、猛獣の牙に掛かったかのような絶望が襲った。
襟首を掴まれて、思い切り後方に投げ飛ばされる。視界が激しく揺れて、宇宙遊泳ってこんな感じなんだろうな、と何故か思った。
砂利の上に腰から落ちて、目の前が真っ白になった。
痺れるような痛みが湧き上がり、立つことが出来ない。湊はその場に蹲り、砂利を握り締めた。
「敵前逃亡が、お前のマナーか?」
頭の上で、男が言った。
どうして、こんな目にばかり遭うんだ?
俺が何をしたって言うんだ?
なんだか、酷く泣きたい気分だった。
湊は奥歯を噛み締めた。すぐに暴力に走るなんて最低な大人だ。こんな奴と話すことなんて何も無い。
男が覗き込んで来る気配がしたので、湊は握った砂利を投げ付けた。そのまま逃走しようと試みるが、足元に何かがぶつかって、湊は手も突けずに転倒する。
足払いを掛けられたことに気付いたのは、男が溜息を吐いた時だった。
「雑魚過ぎるぞ、蜂谷湊」
落胆したみたいに、男が言った。
どうやら、この場で殺されることは無さそうだ。
だけど、どうして知りもしない男に投げられて、足払いを掛けられて、呆れられなきゃいけないんだ。
この世は兎に角、理不尽に出来ている。
湊は砂利の上に突っ伏したまま、言葉を呑み込んだ。
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