⑵猛獣の檻

「なんだよ、泣いてんのか?」




 頭の上で男が言った。

 此処で泣いても、逃してくれそうにない。


 湊が黙って立ち上がると、男は楽しそうに笑った。




「俺は桜丘驟雨さくらおか しゅうう。この辺で剣道を教えてる」




 男――桜丘は、そう言って力強く笑った。

 体力を持て余した若者を指導したような態度だが、湊が受けたのは理不尽な暴行である。警察がいたら逮捕されるのは、桜丘だ。


 湊はスーツの埃を払った。




「俺には一生縁が無いよ」

「モヤシみたいだもんなぁ」




 桜丘が朗らかに声を上げて笑う。

 初対面の人間に、どうしてそんなことを言われなければならないんだろう。外見的特徴を揶揄するなんて最低だ。




「お前、明瞭学園のイジメ裁判に関わってるだろ?」




 否定を許さないような強い口調で、桜丘が問い掛けた。


 湊の頭の中では幾つもの可能性が過った。

 刑事告訴されている加害者が、桜丘の門下生だった?

 それとも、検察の関係者?


 可能性が精査される前に、桜丘が答えた。




「加害者側の弁護士と知り合いでな。知ってるか、常盤霖雨って」




 ぎょっとした。

 名前は知っている。人権派で人柄が良いと評判の弁護士で、父と葵くんの友達。関わったら絶対に厄介なことになる。


 湊は相槌を打つふりをして、駐車場の出口に向かって走った。だが、桜丘は風のように先回りして、進路を立ち塞いだ。




「どうしてすぐに逃げようとするんだ。臆病者だな、お前」

「自分が何をしたのか振り返ってから、言えよ」

「口だけは強気だな」




 話が通じないタイプだ。

 湊にとっては苦手な人間である。




「陰湿な仕返しをしたらしいじゃねぇか。軟弱者で、臆病者で、卑怯者だな」

「子供を甚振る大人だって最低だ」

「お前はやってることが、子供じゃないんだよな」

「アンタの狭い常識で語るな」




 湊が言い返したその瞬間だった。

 右ストレートが吹っ飛んで来て、頬に熱が走った。視界が一瞬、白く染まる。湊は砂利の上に投げ出され、目の前がぐらぐらと揺れた。




「それが目上の人間への態度か」




 口の中は血の味で一杯だった。

 殴られた拍子に口の中が切れたらしい。舌で傷口を確認していると、桜丘が眼前に蹲み込んだ。


 凄まじい力で胸倉を掴まれる。鼻が付きそうな程の至近距離で覗き込み、桜丘が恫喝するように唸った。




「お前の性根を叩き直してやる」




 誰か、誰か助けてくれ。

 この人、何を言っているのか分からない。












 9.夜空に光る

 ⑵猛獣の檻











 朱鳥無心流は、江戸時代から続く由緒正しい剣道の流派らしかった。桜丘驟雨はその道場の十代目の当主で、日本の剣道会の権威として名を馳せている。


 道場は瓦屋根の大きな建物で、多くの門下生が稽古に励む。

 剣道は警察官の術科教養の一つとされていて、桜丘家は現役の警察官に指導することもあるらしい。


 湊は道場の床に寝転んで、桜丘の説明をぼんやりと聞いていた。情報が余り頭に入って来なかった。夜の駐車場で拉致されて、道場に連れ込まれて、立ち稽古と称して一方的にボコボコにされたのだ。一本でも取れたら認めてやると言っていたけれど、途中の記憶が無く、気付いたら朝だった。


 道場には、老若男女様々な門下生が通っていた。

 懸命に稽古に励み、誇らしげに汗を流している。どいつもこいつも既製品みたいに同じような笑顔を浮かべやがってと、湊は卑屈に思った。


 剣道なんてやったことが無かった。――と言うよりも、武道自体の経験が無かった。


 湊は生まれも育ちもニューヨークで、周りにファッションとして剣道を嗜んでいる若者はいたが、本格的に身に付けようとしている者はいなかった。第一、警察官になるのでもなければ必要も無い技術である。




「いつまで寝てるんだ」




 不機嫌そうな声がして、顔を上げると桜丘が立っていた。

 紺色の胴着を着た姿は、確かに師範と呼びたくなるような貫禄を持っている。


 湊が倒れたままでいると、桜丘は溜息を吐いた。

 頭のすぐ横に何かが落ちる音がして、殴られたのかと思って身が竦んだ。救急箱だった。




「手当ては自分で出来るな?」

「救急車かパトカーを呼んで欲しい」

「手当てをしたら、続きをするぞ」




 本当に同じ言語を話しているのだろうか?

 湊には疑問だった。起き上がって救急箱を開けると、消毒液の懐かしい匂いがした。幼い頃は弟と殴り合いの喧嘩を繰り返し、流血沙汰もざらだった。互いの手当てが自分達の仲直りだった。


 思い出を噛み締めながら、湊は掌の消毒をした。握ったことも無い竹刀を一晩中握らされて、肉刺が潰れて痛かった。

 防具を着けなかったので、手足も痣だらけだ。此処まで手酷くやられたのは、本当に久しぶりだった。




「手当ては慣れてるんだな」

「弟と喧嘩しながら育ったからね」

「体力が余ってるんだな」

「バスケとサーフィンをしてたよ」

「軟派だな」

「向こうではメジャーなスポーツだったよ」

「向こう?」




 桜丘が聞き返した。

 この男はまるで自分のことを知っているかのように話すけれど、一体何を何処まで把握しているのだろう。味方でないことは確かだが、敵にしては遣り方が回りくどい。何がしたいのか湊には本当に分からなかった。


 手当てを終えた頃、綺麗な女の人が朝食におにぎりを持って来てくれた。シンプルな塩結びに沢庵、あおさの味噌汁。桜丘と道場の縁側に座って、並んで食べた。


 道場は竹垣に囲まれていて、向こうは通学路らしかった。幼い子供達の笑い声が聞こえる。まるでタイムスリップでもしたみたいな、平穏で穏やかな時間だった。




「ねぇ、桜丘さん。俺達って、初対面だったよね?」

「そうだが?」

「俺の国では初対面の人にはまず挨拶をするんだけど、この国は違ったの?」

「挨拶ならしただろ?」

「それって、あの右ストレートのこと?」




 湿布を貼った頬を指すと、桜丘が笑った。




「それは、お前が逃げるからだ」

「普通の神経なら逃げるだろ。文明人の遣り方じゃない」

「よく言うぜ」




 桜丘は皮肉っぽく言った。

 取り敢えず、桜丘の中で自分の評価が最低に近いことは分かった。湊は手に付いた塩を舐め取り、手を合わせて挨拶をした。


 綺麗な女の人が、空になった皿を見て嬉しそうに微笑む。そのまま何事も無かったかのように去って行くので、湊は縋り付いて助けを求めたい気持ちで一杯だった。


 奥さんだろうか。それとも、お手伝いさん?

 それを訊くだけの信頼関係を築けているとは思えない。黙っていたら、またあの立ち稽古と称したリンチが始まってしまう。




「明瞭学園の関係者ですか?」




 イジメ加害者の弁護士の知り合いと言っていた。平たく言えば、部外者である。どうしてそんな男に罵られて暴行されているのか分からない。改めて、これはどういう状況なんだろう。


 湊が訊くと、桜丘は首を振った。




「俺は関係者じゃないが、話は聞いてる」




 この人、真面な大人じゃないな。

 湊は静かに距離を取った。情報の真偽も確かめずに、初対面の相手を拉致するなんて普通じゃない。門下生には慕われているようだが、サイコパスの人間は仮面を使い分ける。


 桜丘は道場の外を眺めていた。黙っていると精悍な顔付きをしていて、時代劇に登場する侍のようだった。切れ長な目と涼やかな目元が印象的で、理知的に見えるのに、ジャングルの原住民より凶暴である。


 桜丘は石像のように固まったまま、静かに言った。




「加害者とされている生徒が、自殺を図ったぞ」




 湊は目を瞬いた。




「それが?」




 それが、なんだと言うのか。

 桜丘は忌々しげに顔を歪めた。今にも殴り掛かって来そうな迫力があった。話が通じるとは思わないけれど、湊は一応、補足した。




「被害者は自殺してる」

「別の話だ。お前の陰湿な仕返しで、子供が一人死のうとしたんだぞ」

「それが何なの?」




 湊には、本当に分からなかった。

 命は尊いものだ。自殺は愚かで、傷ましいことだ。湊にはそれ以上の感想を持てなかった。自分がやったことに後悔はしていないし、覚悟も決めている。




「お前は何も思わないのか!」




 桜丘の怒号が響いて、稽古に打ち込んでいた門下生達が動きを止める。奇妙な静寂の中で、桜丘ばかりが獣のように荒い呼吸をしていた。


 何も思わないとは、どういう意味だ。

 何も思わなかったのなら、こんなことになっていない。

 湊は眉を顰めた。




「自殺未遂なんて卑怯だと思うよ。人を自殺に追い込んでいながら、裁かれる番になったらそうやって罪から逃げるんだ。死んだら同情してもらえると思ったんだろうね」

「お前は、本当に……!」




 桜丘の語尾は震えていた。

 殴られると思ったし、殴り返すつもりだった。

 この人と話が通じないのは、見ている世界が違うせいだったんだろう。薄寒い諦念が滲み出して、湊は鼻を鳴らした。




「俺は、後悔も反省もしない。あいつ等は覚悟が足りなかった」

「このクソガキ!!」




 桜丘の拳が振り上げられる。今度は受け止める。

 最初に狙うのは、喉か眼球。

 侑の教えを思い出し、湊は拳を握った。


 湊が身構えたその時、道場に声が響き渡った。




「ちょっと待った!!」




 桜丘の拳がぴたりと止まったので、湊のカウンターは目の端を掠めて行った。人でも殺して来たような濃厚な殺気が迸る。湊も決して裏社会で遊んで暮らしていた訳ではないので、すぐに距離を取った。


 湊が道場の奥に転がり込むと、桜丘が床板を踏み締めた。激怒が床を伝って来るようだった。

 声を上げた闖入者が、酷く慌てた様子で割り込んで来る。御人好しを絵に描いたような柔和そうな男だった。


 優男は湊を背中に庇った。

 その瞬間、桜丘の怒号が道場を震わせた。




「其処を退け、霖雨!!」




 湊は、スーツの背中を見上げた。

 安そうな紺色のスーツに、穴の開いた靴下。割って入った癖に誰よりも動転しながら、其処を退こうとはしない。


 霖雨と呼んでいた。

 親父と葵くんの友達で、加害者の弁護人。

 この人が、常盤霖雨――。




「止めろって、驟雨!」

「うるせぇ! そういう調子に乗ったクソガキは、誰かが止めてやらなきゃなんねぇんだよ!」

「じゃあ、保護者を通せ! こいつの後見人が死ぬ程、心配してんだよ!」

「後見人が何だァ!」

「訴えられたら、確実に敗けるからな! 俺は絶対に弁護しないぞ!」




 猛獣と飼育員みたいだった。

 湊は自分を庇う背中を見詰め、そっと問い掛けた。




「貴方が、霖雨くん?」




 霖雨くんの横顔が振り返る。

 この人を知っている。父のアルバムで見たことがある。生前の父は、彼の隣で笑っていた。


 地中に埋まった化石が、長い時を超えて発掘されたみたいに。一陣の風が梢を揺らし、森を震わせるように。

 あったかも知れない未来が、有り得たかも知れない可能性が、目蓋の裏に浮かび上がる。




「会いたかったぜ、湊。喧嘩っ早いところ、親父にそっくりだな」




 直した方が良いぞ。

 そう言って、霖雨くんは苦く笑った。


 肩の力が抜けて、湊はその場に尻餅をついた。

 話が通じそうな人が来てくれて、本当に良かった。


 霖雨くんが手を差し出す。湊が立ち上がる間、霖雨くんは桜丘を睨み、警戒していた。この二人はどういう関係なのだろう。此処は道場ではなくて、動物園だったのか。




「帰るぞ、湊。悪かったな」




 やっと、帰れるのか。

 倒壊した建物に閉じ込められて、救急隊のヘッドライトに照らし出されたみたいだった。性被害者みたいに庇われながら道場を出て行く湊に、桜丘が言った。




「逃げるのか、湊!」




 本当に話が通じない人だ。

 何を言っているのか分からないし、もう会話も必要無いだろう。湊は頭を下げた。




「塩結び、ご馳走様でした」

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