⑶ドナドナ

「元気そうで良かったよ」




 車に乗った時、霖雨くんがそんなことを言った。

 湊は首を捻るばかりだった。手足は青痣だらけで、頬は腫れて、肉刺は潰れて出血している。疲労困憊でろくに頭も回らないこの状態の何処が元気そうに見えるのか。


 助けられた手前、言い返すのは憚られる。

 湊は黙って助手席に乗った。車は道場の駐車場に入っていたが、駐車したというよりも飛び降りたような状態だった。桜丘の暴挙を知って、慌てて駆け付けたのかも知れない。


 連絡しなきゃ。

 湊は携帯電話を取り出して、弟と侑にメッセージを作った。自分の状況をどんな言葉で伝えたら良いのか分からず、結局、生存報告しか出来なかった。




「お前の両親がテロで亡くなってから、俺達には詳しい情報が無かったんだ。生きていることは知っていたけど、何処でどんな風に生活しているのかも分からなかった」




 駐車場から車が滑り出す。

 湊は携帯電話をポケットに押し込んで、車窓を眺めた。




「お前の弟が日本に来る時に、驟雨も色々と手を回してくれたんだぜ。その時の恩に免じて、今回のことは、まあ、どうにか収めてくれ」

「……もう良いよ」




 湊は溜息を吐いた。


 両親が爆弾テロで死んだ時、湊は弟を守る為に必死だった。テロの起こったアメリカから日本に連れて来る為に色んな人を頼ったし、助けてもらった。葵くんが誰に何を頼んだのか把握していなかったが、霖雨くんや桜丘もその一人だったのだろう。


 彼等の中では、自分が爆心地にいた頃で時が止まっているのだ。助けたと思ったら裏社会にいて、自分の良識とは反する生き方をしていたから、心配したのだろう。湊にも、その気持ちは少しだけ分かる。


 大切な人には、幸せでいて欲しい。

 笑っていて欲しい、生きていて欲しい。

 湊の願いを守ってくれたのは、葵くんや霖雨くんのような良識のある大人達だった。自分が守られ、助けられて来たことも知っている。恩義に報いたい気持ちもある。――ただ、この世には飲まなきゃならない苦汁がある。


 流れ行く車窓を眺めていると、見慣れた景色が映った。

 桜丘驟雨は強烈で真面な大人には見えなかったが、薬物を使ったり、銃を突き付けたりはしなかったし、殺意も感じなかった。立花よりちょっと偏屈で、凶暴なだけだ。




「霖雨くんは、どうして弁護士になったの」




 外を見ながら、訊ねた。

 深い意図は無かった。霖雨くんは教習中みたいな安全運転で車を走らせながら、答えた。




「人を助ける仕事がしたかったんだ」




 湊には、よく分からない。

 生前、父は医療援助の為に紛争地で活動していた。生命の価値を揃えるんだと言って、政府軍に空爆されたり、銃撃戦に巻き込まれたりしていた。

 助けた少年兵が、爆弾を抱えて敵陣で自爆したこともあった。土手っ腹に風穴を開けた兵士に銃口を突き付けられたこともあった。




「助けるって、何? 野良猫に餌をやること? 死刑廃止を訴えること?」

「そんな難しい話じゃないよ。困っている人がいたら手を差し伸べるとか、お年寄りに席を譲るとか、そういう話さ」

「困っている人が声を上げられるとは限らないよ」

「……親父とは、真逆だな」




 霖雨くんが言った。




「何でもかんでも救える訳じゃないが、助けを求めたら手を差し伸べてくれる人がいる。大切なのは、それを証明して行くことだと思うよ」

「それが凶悪犯でも?」

「そうだよ」




 霖雨くんは、当たり前みたいに言った。

 湊は、それを聞いているのが少し辛かった。


 俺だってそうしたかったよ。誰を傷付けることもなく、誰を突き落とすこともなく、誰にでも手を差し伸べて、怒鳴られても笑っていられるような、そんな人に。




「……葵に聞いたんだが、エンジェル・リードってのはお前のことか?」




 湊は答えなかった。

 否定する気力も無かった。




「あんまり良い噂も聞かないが……。第三世界に学校作ったり、警察の捜査に協力して情報提供したりしてんのも聞いてる。俺は立派だと思うよ」

「でも、霖雨くんは俺の敵になるんだよね?」




 明瞭学園のイジメ裁判では、霖雨くんは加害者の弁護人だ。今回の裁判は陪審員制度が取り入れられる。世間は被害者に同情的だ。裁判を引っ繰り返すには、エンジェル・リードの正体を暴き、証拠の信用性を失くすしかない。


 霖雨くんは暫し沈黙し、言った。




「刑事裁判の鉄則って知ってるか?」

「……疑わしきは、被告人の利益に」

「物知りだな」




 感心したみたいに霖雨くんが言った。

 ハンドルを握る左手の薬指に、銀色の指輪が見えた。家庭のある人なんだと思うと、泥沼に引き摺り込む訳にはいかなかった。




「有罪判決が出るまで、被告人は無辜の一人だ。裁判は真実を暴く場所じゃない。合理的な確信が無ければ、有罪には出来ない」




 霖雨くんの声は、子守唄みたいに柔らかくて、心地良かった。こんな人が弁護してくれると思ったら、心強いし、安心するだろう。


 車は繁華街の駅前に停まった。




「今日は疲れてるだろうから、ゆっくり休んでくれ。葵には俺から連絡する」

「……俺からも言っておく。誤解が生まれないようにね」




 湊が車を降りると、駅の改札口にヤクザみたいな黒いスーツの男が立っていた。片目に医療用の眼帯を付けているので、目立つ。

 別れを告げると、霖雨くんの乗った車は車道に紛れて行った。


 黒スーツの男――立花蓮治は、湊を見下ろして機嫌悪そうに目を細めた。まだ怒っているのだろうか。

 湊は肩を落とした。どうしていつも俺ばかり譲らなくてはならないのかと卑屈になっていたのが、馬鹿みたいに思えた。仲直り出来ない喧嘩なんてしたくない。




「俺が悪かった。目玉焼きに塩も試してみるよ」

「ケチャップも、主食がパンなら悪くないかもな」




 立花が言った。

 俺達の喧嘩って、もしかしてすごく下らなかったんじゃないかな。そんなことを思いながら、湊は立花と帰路を辿った。












 9.夜空に光る

 ⑶ドナドナ











 事務所に帰ったら、翔太が出迎えてくれた。

 元気いっぱいに迎えてくれたのに、湊の顔を見るなり真っ青になった。




「何なんだ、その怪我!」

「色々あったんだ」




 説明するのは難しい。

 そんなに大怪我ではないし、手当てもしてある。

 湊が言った時、携帯電話が鳴った。侑からのメッセージが届いていた。




「侑、日本に戻って来るって」

「何しに来るんだ? 報復か?」

「怪我が治ったからだろ」




 翔太は何を言っているんだ。

 パーティーの準備をしなければ。怪我の回復と仕事の復帰を祝って、精一杯丁寧な料理を作ろう。

 実家では、祝い事の時は手巻き寿司が定番だった。牡蠣は避けて、新鮮な刺身を揃えておこう。


 立花が鼻で笑った。




「お前の姿見て、ぶっ倒れなきゃいいな」

「どういう意味?」

「傷の一つでも付けたら、サブマシンガン持って暴れるって言ってたろ」




 翔太が顔色悪く言った。

 明瞭学園のイジメ調査の時にそんなことを言っていたが、まさか本気で信じていたのか。翔太はどうしてそんなに気が優しくて、純粋なの?




「あれは侑の冗談だよ」

「いや、あの目は本気だった!」




 大変なことになるぞ、と翔太が言った。

 そんなことを言ったら、湊だってこの場で銃乱射しなければならない。侑を穴だらけにしたのは、立花だ。


 湊はソファに寝そべったまま、翔太を見上げた。




「翔太は空手をやってたよね?」

「ああ」

「剣道は?」

「親父がやってたよ」




 翔太の父親は、公安警察だった。

 今はこの世にいない。湊も会ったことは無い。だが、翔太の人柄を考えると、良い人だったんだろうとは思う。




「朱鳥無心流って知ってる?」

「ああ、有名な奴ね。新米警官が習うよな」

「へぇ……」




 あの桜丘驟雨は、本当に腕のある武道家だったのだ。

 逃げるのか、と桜丘が言った。立ち向かうことが全てじゃない。逃げるが勝ちとも言う。だけど、このまま引き下がったら、あいつの中で俺は軟弱者で、臆病者で、卑怯者のままだ。それは少し、悔しい。


 同じ土俵では、勝てない。

 どうにか鼻を明かしてやりたい気持ちはあるのだけど、その方法が分からない。




「朱鳥無心流の師範に勝ちたいんだ」

「剣道始めたのか?」

「いや、その人と揉めてるんだ」

「はあ〜?」




 翔太が呆れたみたいに言った。

 自分で説明していても訳が分からないから、聞いている翔太はもっと意味不明だろう。湊はソファから体を起こした。




「勝ちたいんだ」

「お前、なんか格闘技やってたっけ?」

「何もやってない」




 翔太が額を押さえて、溜息を吐いた。

 気持ちは分かる。でも、別に同じ土俵で戦うつもりは無い。

 翔太は湊の前に蹲み込んで、諭すように言った。




「剣道三倍段って知ってるか?」

「知らない」

「剣道みたいに武器を持った相手に素手で勝つには、三倍の技量が必要だって言われてる」

「じゃあ、翔太でも勝てないの?」

「それは、やってみないと分からないけどな」




 翔太はそう言って、慰めるみたいに頭を撫でた。




「お前の怪我の理由は分かったよ。何の喧嘩だったんだ?」

「喧嘩じゃないよ。誘拐されて、ボコボコにされたんだ」




 湊が言うと、翔太の目が据わった。

 誤解が生まれているような気がしないでもないが、別に桜丘の評価が地の底に落ちても痛くも痒くも無い。


 翔太は目を細めた。




「出掛ける時は、付いて行くことにする」

「社交パーティーも来てくれるの?」

「それは、全部断っちまえ。どうせ、お前はそういうの嫌いだろ?」




 翔太が笑った。

 確かにそうだけど、嫌だからと言ってやらなくて良い訳じゃない。そんなことを考えていたら、立花と目が合った。


 雨の日に傘を差すのは、悪いことじゃない。

 立ち止まって考える癖を付けろ。


 社交パーティーは、本当に必要か?

 俺がやりたいことって、そんなことだったっけ?

 ラフィティ家に良いように使われて、本当に良いのか?


 そう思ったら、全部どうでも良くなってしまった。仕事用の携帯電話の電源を入れると凄まじい量の着信履歴が残っている。湊はそれを全部無視して、詰め込まれた不要な予定をスケジュールから全て外した。


 スケジュールが随分とすっきりして、自分が本当にやらなきゃいけないことが見えて来る。重石が外れたような開放感だった。相談出来る相手がいるのは、有難いことだ。


 ムラトからの不要な予定は全てキャンセルしたので、本来の仕事に戻ることが出来た。湊は翔太と共にエンジェル・リードの事務所に向かった。


 他愛の無い話をしながら階段を登った先、扉の前に見覚えのある男が仁王立ちしていた。余りにも貫禄があったので、仁王像の彫刻かと思った。




「待ってたぞ」




 桜丘驟雨。

 湊が硬直していると、翔太が間に立った。




「こいつのこと、ボコボコにしたって?」

「弱かったからな」

「アンタ、本当に武道家なの? 戦う意志の無い相手を一方的に叩きのめすのは、ただの暴力だ」




 翔太が言うと、桜丘が嬉しそうに笑った。

 初めて見る顔だと思った。




「お前、何か格闘技をやっていたのか?」

「フルコンタクト空手をやっていたよ」

「じゃあ、手加減をするのは無礼だな」




 一体、いつの時代を生きている人なんだ。

 湊は間に割って入り、腕を広げた。




「こんなところで喧嘩しないでくれ!」

「あ、馬鹿!」




 翔太の声が聞こえたと思ったら、視界が引っ繰り返っていた。頭から階段に落ちそうになり、寸でのところで翔太に受け止められる。


 翔太が体勢を崩している間に桜丘が歩み寄って来る。そして、身動き出来ない翔太の横っ腹を思い切り蹴飛ばした。翔太が階段から転げ落ちて、悲鳴が反響する。湊が身を乗り出した時、桜丘が胸倉を掴んだ。




「今日も鍛えてやるよ」




 何を言っているのか分からない。

 桜丘は軽々と湊を肩に担ぎ、階段を降り始めた。

 階段の下で、翔太が倒れていた。受け身が上手かったのか外傷は無さそうだった。




「翔太!」




 湊が呼ぶと、翔太が呻き声を漏らした。

 けれど、桜丘の足取りは淀みない。


 ドナドナドナドナ 仔牛を乗せて。

 ドナドナドナドナ 荷馬車が揺れる。


 あの寂しくも悲しい童謡が、何処かで聞こえた気がした。

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