⑷黄金のカード
「僕が一番尊敬するところは、この無邪気さです」
リュウが囁くように言った。
湊と張は水墨画を眺めながら、何処の国の言葉か分からない言語で盛り上がっている。湊の口からぽっと溢れる日本語のスラングに何故かほっとする。
「湊は磁石に似ています。沢山の砂の中から、本当に光るものだけを拾って行く。……だから、彼を金の卵を生む鶏と呼ぶ人もいます」
それは、分かる。
無軌道で無計画に見えるのに、彼は何処からか財宝の地図を拾って来て勝手に泳ぎ出す。どんな世界でも大成するだろう才能の坩堝。それを欲しいと思う人間はごまんといるだろう。
金の卵を生む鶏が、たった一羽で出歩いている。
閉じ込めて飼い殺したいと思うのも、縊り殺したいと言うのも、分かる。だが、この鶏は出歩いてこそ価値がある。
「貴方には、何に見えますか?」
試すような物言いで、リュウが問い掛ける。
侑が思っていた以上に、湊という人間には価値があった。
何だろう、この才能は。
何の為にそれを持って生まれたのか。檻から放たれた鶏が、どうして逃げもせずこの場に留まるのか。飛べないのか、飛ばないのか。
侑の口からは、弱音のように自然と答えが溢れ落ちた。
「俺には、灯火に見えるよ」
風が吹けば消えてしまいそうに儚い灯火が、今も消えずに燃え続けている。周囲を焼き尽くす為でもなく、先を導く為でもなく、ただ道を明るく照らす為だけに。
吹き消すなんて無粋そのものだ。
弟が遺した希望の灯火が、今も目の前で光っている。
10.君の手
⑷黄金のカード
「彗星の尾を見たよ」
水墨画を眺めながら、湊が言った。
濃褐色の瞳は、生命力に満ちた大地の咆哮に似ている。
彗星――パスファインダー。
自分達が最優先に抑えなければならない武器商人。神出鬼没で目的さえ分からない。湊は振り返ると、リュウを見据えて静かに言った。
「夜空にあれば美しいのに、地上に落ちれば大災害だ」
眺めているだけならば、美しい自然現象で良かった。けれど、彼等はその彗星の落下地点や正確な時刻を知っていて、どのくらいの規模の被害が出るのか、自分達が避けた先に何があるのかも分かっていた。
リュウが言った。
「彗星を夜空に留めておく術はありません。迎え撃つしかない」
「本当に、そうなのかな」
迷子みたいな心細い声で、湊が溢した。
「どんなものにも使い方はある。今の俺に使いこなせないだけで、本当は別の方法があるのかも知れない」
「その使い方を探している内に、貴方のご両親の母国は焼け野原になりますよ」
湊の下ろしていた掌が、小さな拳を作る。
無駄遣いが嫌いだと、以前言っていた。もしかしたら、湊の言うように使い道があるのかも知れない。けれど、目の前の現実は足を止めないし、彗星は待ってくれない。
真の邪悪とは、正義では裁くことが出来ない。
繰り返される戦争、蔓延る違法薬物、広がる貧富格差、根深く残る人種差別。それは秩序の中で芽吹き、他者を食い物にしながら今も生きている。
正義では裁けなくても、始末することは出来る。それが俺達が引いた貧乏籤なのかも知れない。
リュウは軽く椅子を引き、腰掛けた。
「青龍会が日本を蹂躙しないのは、貴方に価値があると思っているからです。……そんな腑抜けたことを言っているのなら、取引は辞めます」
子供の遊びじゃない。
リュウは突き付けるように言った。
俺達はどうあってもパスファインダーを捕まえなければならない。もっとマシな未来は無いのかと迷っている内にパスファインダーは暗躍し、青龍会は勢力を拡大し、俺達には手が付けられなくなる。
青龍会は日本の治安を悪化させることで、中国に利益誘導しようとしている。その為の一手がパスファインダーを介した武器密輸だった。
「お前の目的がよく分からないんだが」
侑が口を挟むと、リュウの鋭い視線が飛んで来た。
それを怖いと思う程に繊細な感性は持ち合わせていない。
「お前はパスファインダーを使って武器密売してんだろ?」
「それは李さんの目的ではありません!」
張が焦ったように言った。
勤勉な飼い犬みたいだ。侑が先を促すと、リュウは深く溜息を吐いた。
「僕が総帥を継いだのは、一年前に父が亡くなった為です。その頃、父の右腕には
聞いたことのある名前だった。
杜梓宸は、報道界の重鎮で、フィクサーの一角だった。一年前、青龍会内部の抗争で居場所を亡くし、日本に亡命したのを湊とハヤブサが始末したのだ。
「日本への武器密輸は、杜梓宸の差し金です。何度か膿は出したのですが、青龍会には未だに信奉者がいます」
「家族が多いのも考えものだな」
「全くです」
やれやれ、とでも言いたげにリュウは肩を竦めた。
「何度膿を出しても、何処からか腐敗が始まる。良い加減、面倒になりまして」
「俺達に裏切り者探しをさせようってか?」
「簡単に言うと、そうです」
リュウは肯定した。
青龍会内部の派閥争いで、依頼内容は裏切り者探し。
迷い犬探しを依頼するみたいな気軽さで、リュウは恐ろしいことを言ってのける。
「先程の襲撃も、敵対派の差し金です」
こいつ、暗殺され掛けてるのかよ。
侑は呆れてしまった。青龍会の総帥が暗殺されたら、言い表せないくらい大変なことになる。中国の治安は今以上に悪化して、目も当てられない。日本も確実に煽りを受ける。
とんでもないことになってしまった。
今からでも国外逃亡した方が良いんじゃないかと湊を見遣るが、濃褐色の瞳は穏やかに揺れているだけだった。
「リュウが困っているなら、力になるよ」
「今までとは規模が違うぞ」
「でも、やってることは同じだ」
湊は悪戯小僧みたいに笑った。
「リュウは俺の友達だ。助ける理由がある」
湊はそう言って、覗き込むようにリュウを見た。
「俺が困っている時に、リュウは力を貸してくれた。今度は俺の番だ」
侑は額を押さえた。
此処は大学じゃないし、彼等はもうただの子供じゃない。彼等にはアジアの命運が掛かっている。
「俺が此処に来たのはね、リュウが困っていて、力になれると思ったからなんだ。他に理由は、無いんだよ」
言い聞かせるみたいに、湊が優しく語り掛ける。
その言葉には、切実な祈りが込められていた。湊は本当に、友達を助ける為だけに此処に来て、危ない橋を渡ろうとしている。
止めるべきなのか、踏み込むべきなのか。
侑の逡巡を他所に、湊は歌うように言った。
「でも、俺達にもルールがある。死なない、殺さない、奪わない、自分の未来を諦めない」
一つずつ指を立てて、湊が微笑む。
「意識して踏み留まらないと、人間は簡単に転落してしまう」
「理想論ですね」
「何が悪い」
湊は胸を張って、楽しそうに言った。
「少しでもマシな未来を選ぼうぜ、リュウ」
状況と湊の認識の温度差で、風邪を引いてしまいそうだ。
地下深くの隠し部屋で、窓の一つも無い袋小路で、湊だけが春の草原で風に吹かれているみたいだった。
リュウは小難しい顔で暫し沈黙し、間の抜けた声を出した。
「……何を言っているのか本当に分からないのですが、文化の違いですかね?」
「いや、こいつがおかしい」
侑が言うと、リュウは口元を緩めた。
湊が馬鹿で酔狂な人間ではないと知っている。こいつは状況を分かった上でこんな頓珍漢なことを言っているのだ。
リュウは水墨画と湊を見比べて、一つだけ溜息を吐いた。
「貴方達のルールはよく分かりました。ですが、此処は僕の国ですので、始末の付け方は僕が決めます」
それこそ、此方には口を出す権利は無い。
俺達は裏切り者を見付けて報告する。後のことは彼等が決めれば良い。
車の中では、湊とリュウの間には超えることの叶わない断崖絶壁が広がっていると思った。だが、今は一本のロープが掛けられている。吊り橋と呼ぶにはお粗末な、命綱だ。
敵対もしないし、争いもしない。
困っている友達を助けるのだと、湊が豪語する。面倒なことになりそうだと思いながらも、その無軌道で無秩序で無邪気な才能の塊を楽しめるだけの余裕があった。
リュウは腕を組み、天井を見上げた。
地下空間に鉄の箱を無理矢理押し込んだような隠し部屋である。何の為に存在しているのか想像したくもない。
「貴方を客人として招くのは、危険ですね。……どうしましょうか」
リュウは眉を下げて、困ったみたいに投げ掛けた。
権力闘争の真っ只中に引き摺り込まれるくらいなら、侑は湊を縛り上げて日本に連れ帰るつもりだった。湊は思い付いたみたいに指を鳴らした。嫌な予感しかしない。
「観光しようよ!」
やはり、ろくな提案じゃなかった。
リュウはぽかんと口を開けて、湊の言葉を復唱した。
「部屋の中に籠もっていると、嫌なことばかり考えてしまうだろう? せっかく中国に来たんだからさ、観光の案内をしてくれよ。あれが見たかったんだ、万里の長城!」
張は呆れて物も言えないみたいに遠い目をしている。
だが、侑にも、リュウにもその意図が分かった。
「万里の長城……。なるほど」
リュウはそう呟くと、椅子から立ち上がった。
「良いでしょう。我が国が誇る観光名所、世界遺産をご案内致します」
「やった!」
湊がガッツポーズをした。
演技には見えないが、無策とも思えない。
リュウはテキパキと動き出し、張に車を回すように頼んだ。
部屋の中には三人だけが残された。
リュウが燭台の元へ向かい、息を吹き掛ける。闇の中、リュウの声が微かに聞こえた。
「張は、僕の敵ですか?」
寒風のような冷たい声だった。
湊が答える。
「嘘は吐いていなかったよ。……でも、俺は他人の心が読み取れる訳ではないから」
湊の持つ他人の嘘を見抜く能力は、己の意思とは関係無く全自動で嘘を知覚し、百発百中の精度を持つ。ただし、相手の心が読める訳でもなければ、真実が見抜ける訳でもない。
日本でハヤブサに追い込まれたのも、その能力を過信したせいだった。ハヤブサは翔太を使って情報を抜き取った。
例え隠し事や策略があったとしても、仲介する人間が嘘を吐いていなければ、湊には見抜けないのだ。
湊に分かるのは、本人の嘘だけだ。
相変わらず、使い難く厄介なカードだ。
「人は裏切る生き物だ。いつでも本音で生きてはいない」
乾いた声で、湊が言った。
「俺だって何度も騙されたし、裏切られた」
他人の嘘を見抜ける湊でも、裏切り者を見付け出すのは至難の業である。一般人なら兎も角、本質的に狂った邪悪な人間は嘘を吐かなくても人を陥れる。
リュウは鼻で笑った。
「貴方を裏切る人間は、見る目が無かったのでしょうね」
湊は不思議そうに首を捻って、曖昧に微笑んだ。
侑には、リュウの言いたいことが分かる。湊を裏切って敵に回すよりも、首輪を付けて飼い殺した方が利益がある。そして、その価値が界隈では認知されて来ている。
「そういえば、お爺様にはお会いしたのですか?」
几帳面に椅子を揃えて並べながら、リュウが言った。
湊の祖父はフィクサーの一角だ。臨床心理学の世界的権威で、今も第一線で活躍する現役のカウンセラーだと聞いたことがある。
湊は困ったように眉を下げて、頬を掻いた。
「俺、殆ど勘当されてるからな……」
初耳だった。
味方にいればこれ程頼もしい存在はいないのに、まさか勘当されて疎遠になっているとは思わなかった。
「合わせる顔が無い」
湊でもそんな風に思うんだな、と思うと可笑しかった。
しかし、本当に勘当されているのならば無事では済まなかっただろう。いつか彼等の仲直りが見られることを祈りながら、侑は部屋を出た。
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