⑸血の雨
万里の長城は、世界的な歴史遺産として登録された世界最大の防御壁である。その全長は八千キロメートルを優に超え、世界一有名な文化遺産と呼んでも過言ではない。青々とした山脈に沿って畝る様は、正しく『龍の背』と呼ぶに相応しかった。
一定区間には情報伝達の為の烽火台が備えられ、厳しい寒風の中でも昼間は朦々と煙が焚かれている。城壁は煉瓦で覆われており、機械の無かった時代に作り上げられた人工物とは思えない程、壮大な建築物である。
平時には観光客で溢れ返った文化遺産も、昨今は治安悪化の煽りを受けて閑散としていた。中国の重要文化財の一つとされているが、その長大さからメンテナンスが行き届かず、観光地として整備されていない場所は崩落するに任せている。
「夜は篝火が焚かれたり、観光客の為にライトアップしたりしていた時代もありました」
灰色の煉瓦の道を歩きながら、リュウは相変わらず無感動な声で語った。世界的に有名な文化遺産は国民の誇りではないのだろうか。侑には、この青年の本質が何処にあるのか掴み切れなかった。
愛国心でもない、忠誠心でもない。
けれど、黒社会の闇に身を投じる程の深い覚悟を持っている。龍の背を歩いて行くリュウは、あの水墨画を彷彿とさせる。美しい自然を見下ろしながら、たった一頭で空を泳いで行く青龍。侑には、やはり孤独に見えた。
長城の先には駐屯地とされた関所があった。
子供のように駆けて行った湊が、豆粒くらいの大きさで手を振っている。張が慌てて追い駆けるので、侑は苦笑した。
「アンタは、湊の大学時代の友達なんだよな?」
どんなだった。
侑が訊ねると、リュウは生い茂る山々を眺めて言った。
「僕等が一緒に過ごした時間は、そんなに長くありませんでしたよ。一年くらいですかね」
「そうなのか」
「SLCの事件に巻き込まれて、湊は日本に行ってしまいましたから」
たった一年だったのか。
言い知れぬ虚無感が目の前に影を落とすようだった。
けれど、リュウは鉄面皮で滔々と語った。
「ですが、僕にとっては最も充実した青春時代でした。……新歓会で酔い潰れたり、好奇心のままに研究したり、仲間とキャンプしたり。楽しかったですよ」
リュウの涼やかな目元に微かな笑みが浮かんでいた。それは遠くの夕日を眺めるような、柔らかな微笑みだった。
「湊は、同い年の友達がいませんでしたね。人気はあったのですが」
「へえ……」
ニューヨークにいる弟の航は、友達が多そうだった。
だが、明瞭学園にイジメ調査で潜入した時も、湊はクラスメイトと一定の距離を置いていて、友達と呼べる人間はいなかった。
大勢の知り合いがいても、友達が一人もいないことがある。
強大なコネクションを持っていても、本音を打ち明けて相談出来る相手がいなければ、どんな夢や目標があっても人生はただの苦行だ。
リュウは中天から降り注ぐ日差しを浴びながら、まるで研究者のように言った。
「IQが20違うと会話が成立しないと言います。しかも、他人の嘘が見抜けるでしょう?」
侑は込み上げる苦味を堪えるように、奥歯を噛み締めた。
本当に、生き難かったんだろう。
金も才能も、持っていれば良いって訳じゃないんだろう。
大切なのは使い方。配られたカードの価値を自分自身が知ること。
俺は、何だろう。
俺にはどんな役割があるんだろう。家族を失くし、過去を捨て、それでも残った、たった一枚のスペードのエース。俺はそのカードをどうしてやるべきなのか。
「アンタは味方でいてやれよ」
立場や境遇なんて関係無く、ただの友達として。
侑が言うと、リュウは眩しそうに目を細めて笑った。
10.君の手
⑸血の雨
「張さんの奥さんは料理が上手なんだって」
息を弾ませながら、湊が言った。額から流れ落ちた汗の滴が涙のように光る。山を横断する道は勾配が大きく、殆ど階段のようだった。
「愛妻家みたいだね。息子が三人、娘が四人の大家族だ」
すごいねぇ、と湊が何故か嬉しそうに言った。
三月中旬の日差しの下、湊が暑そうに袖を捲る。細くて白くてモヤシみたいだった。こんな腕でバイクを運転したり、ギターを弾いたりしているのかと思うと少し感動した。
「何でお前が嬉しそうにしてんだ?」
「家族の話は、聞いていると楽しい」
分かるような気がする。
侑は笑った。
リュウと張は、後方を歩いている。張は息を切らせながら、頻りに休憩を求めているが、湊は足を止めない。他人に合わせてペースを落とすなんて出来なさそうだ。
湊は何かに追い立てられるかのように歩調を進める。
景色を眺めるような素振りで後方を確認すると、湊は声を潜めた。
「……リュウには三人の弟がいる。青龍会のトップにいるのは、兄弟の為だ」
湊は神妙な顔をしていた。
自分が避けた泥を、次は誰が受けるのか。
李嚠亮はちゃんと分かっている。自分が死んだら、次は弟の番が来る。もしかすると、李嚠亮もまた青龍会と言う巨大な龍の鱗の一枚なのかも知れない。
「なんとかしてやりたい」
湊が力の籠もった声で言った。
なんとかしてやりたい。
侑にも、リュウの気持ちは分かる。
その時、湊が問い掛けた。
「侑の怪我は完治したと思って良いんだよね?」
「おう」
「じゃあ、ゲームスタートだ!」
競争だよ、と湊が勝手に走り出す。
分かり易く浮かれてやがる。友達に会えたのが、本当に嬉しかったのだろう。
余りにも無邪気な姿に毒気が抜かれて、気が緩んだ、――その瞬間だった。
空気の抜けるような音が微かに聞こえて、侑は殆ど脊髄反射で煉瓦を蹴っていた。
走り出した小さな背中がスローモーションに見えた。
その脇腹を狙うように一発の銃弾が空気を切り裂いて行く。色も音も無い完全なる虚無が世界を包み込み、侑は小さな背中を抱えて吹っ飛んでいた。
間抜けな銃声が、遅れて聞こえた。
地面に身を伏せたまま、侑は壁の切れ込みを覗いた。鬱蒼とした森の中から僅かな殺気と火薬の臭いがする。
「お客さんだぜ」
侑は笑った。
こうなることは分かっていた。人や街を巻き込まず、地の利を得る為にこの場所を選んだのだ。敵の正体は分からないが、もう少し短気な相手なら延々と歩かずに済んだ。
散弾銃の細かな銃声が響き渡る。
煉瓦が削れて火花が散る。後方では、リュウと張が壁に身を潜めていた。無事で良かった。
「お前は此処に、」
隠れていろ、と言おうとした時だった。
掌に生温かい感触がした。赤黒い血液が掌にべったりとこびり付いている。煉瓦の上に投げ出された湊が、まるで人形のように弛緩していた。後頭部から真っ赤な血が零れ落ちて、煉瓦を不気味に染め上げる。
息も出来ない程の動揺が、稲妻のように全身を貫いた。
湊は動かない。ぐったりと倒れたまま、固く目を閉じている。喉の奥から何かが溢れ出す寸前、リュウの怒号が轟いた。
知らない言語だった。
眦を釣り上げたリュウが、血相を変えて銃弾の嵐を横切って来る。壁の切れ込みを擦り抜けた銃弾がリュウの肩を掠める。リュウはそれでも足を止めず、動かない湊の側に跪いた。
「動かしてはいけません」
今度は侑にも理解出来る言語で、一言一句を噛み締めるように言った。
侑が衝突した時に、湊の後頭部が壁に打ち付けられたらしい。その拍子に頭部が切れて、昏倒した。
銃声は止まない。止む筈が無い。
自分が襲撃者なら、弱そうな獲物から狙う。同じことだ。
侑は掌に残った血液を握り締め、懐へ手を入れた。
全身を駆け巡った激怒が、頭の天辺から突き抜けるようだった。思考は明瞭なのに、自分ではない誰かが体を動かしているみたいだ。
スーツの下で、銃のグリップを握る。記憶の底から懐かしい感覚が蘇る。侑は森の中の襲撃者を探しながら、低く問い掛けた。
「……生きてるよな?」
「当たり前です」
ハンカチを取り出したリュウが止血処理を始める。
灰色の煉瓦が血の色に染まる。自分がこの場所にいても何も出来ない。応急処置も避難も自分の役割じゃない。俺がやるべきことは、湊の側にいることじゃない。
雨垂れのような銃声の中、意識が冷えて行くのが分かる。
リュウが湊の姿勢を変えた時、その首元から銀色のドッグタグが落ちた。
You light up my life.
貴方は私の人生に光を齎してくれた。――弟が湊に遺した最期のメッセージ。
「……デザートイーグルを貸せ。俺がやる」
此処は敵陣真っ只中。
祈りも祝詞も届かない闇の深淵。あの時、踏まなかったブレーキが全てを奪って行くならば、俺は何度でもアクセルを掛ける。
リュウは何かを言おうとしたように見えた。だが、ハウリングのような耳鳴りがして聞き取れない。差し出されたデザートイーグルを握り、装填を確認する。
使ったことは無いが、撃ち方は見た。
重厚な銀色が鈍く光る。銃声は止まない。此処で手を止める理由は無い。
「湊を頼む」
銃の感触は、細胞が目覚めるかのように鮮明だった。森の木立に隠れた卑怯者が、銃口を向けて笑っている。侑は壁に隠れて疾走した。
今は兎に角、敵を遠去けなければならない。
湊が動かせないのならば、俺が動く。
侑は崖のような坂道を一直線に下った。乾いた風が頬を撫で、風を切る音が明瞭に聞こえる。湊が狙撃された地点から離れ、侑はデザートイーグルを構えた。
森に潜むクソ野郎を跡形も無く吹き飛ばしてやるつもりだった。敵の居場所も分からず手当たり次第に発砲する三下が、俺の玉に手を出したと言う事実が許せない。
引き金を絞った時、まるで打ち上げ花火のような低音が轟いた。50口径の銃弾は、余所見をしている三下の腹を撃ち抜いた。対人兵器としては過剰な戦力である。銃弾が体内で破裂して、森の中に人間だったものが散らばった。
血の雨が降り、肉塊が散乱する。
森が焼け野原になっても構わなかった。姿を隠したスナイパーが此方に向けて銃弾を放つ。侑はナイフを取り出して、向かい来る銃弾を弾き飛ばした。
壁の上から飛び降りると同時に、靴に仕込んでいたワイヤーを取り出す。森は濃厚な血の臭いに包まれ、木々が音を立てて揺れる。
木々の間にワイヤーを張り、侑はデザートイーグルを下げた。代わりに懐のホルダーから愛銃を構えて走り出した。
単発の銃声とサブマシンガンの轟きが頭の上から降って来るようだった。敵との距離を測りながらワイヤーを張り、逃げ道を塞いで行く。
銃弾が足元を抉った。露出した土に穴が開き、硝煙が立ち昇る。何処を狙っているのか分からないが、お蔭で敵の位置は把握した。
後はもう、追い込めば終わりだ。
銃を持つことで強者になったと勘違いする大馬鹿野郎の前に躍り出ると、引き攣るような悲鳴が聞こえた。侑は擦れ違い様に首筋と側頭部をナイフで滅多刺しにして、次の獲物を追った。
襲撃されていることに気付いたらしい。
体勢を整えようとしているのか、撤退を始めたのかは知らないが、誰一人逃すつもりは無い。苦し紛れの発砲を躱し、デザートイーグルをぶっ飛ばす。銃弾は木々を破壊し、敵の視界を遮った。その隙に回り込み、背中から袈裟懸けにナイフで斬り上げる。
背後に殺気を感じ、振り向かずに発砲した。
中国人らしき男の悲鳴が聞こえた。
雑魚ばかりだ。逃げ出す背中に飛び付いて、デザートイーグルの弾倉で脳天をかち割ってやった。鮮血が噴き出して、頬に生温かい感触がする。
汚ぇな。
侑は舌を打ち、眉間に鉛玉をぶち込んだ。
臆病風に吹かれた雑魚が逃げ惑う。その背中に向けて銃弾を放ったが、敵は負傷してでも逃げようとしている。
そんな覚悟で、そんな腕で、その程度の実力で!
侑が銃弾を放った瞬間、逃げ出す男達が一斉に転倒した。血飛沫が霧のように舞う。張り巡らせたワイヤーに引っ掛かったのだ。手入れが足りていなかったせいで、四肢を切断するまでには至らなかったらしい。
身動きの取れなくなった雑魚共を、一人ずつ着実に殺して行く。全員始末するのはまずいかと思ったが、自分の怒りを鎮める為には必要な儀式だった。
「……可哀想になァ?」
辺りは静寂と血の臭いに包まれていた。
彼方此方に張り巡らせたワイヤーが血に染まっている。
木々に飛び散った血液が、滴となって降り注ぐ。侑は片手で髪を掻き上げ、肩を落とした。――少しだけ、冷静になった。
衣服は血塗れだった。こんな格好じゃ観光なんて出来やしない。侑は盛大に舌を打ち、銃をぶら下げたまま歩き出した。
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