⑹見えない手札
ニューヨークの殺人鬼に言われたことがある。
どんなに取り繕っても、お前の本質は血に飢えた獣だ。人に慣れることは無いし、お前に守れるものなんて一つも無い。
そんなことは、お前が決めることじゃねぇ。
侑はそう言って相手にしなかった。だけど、あの言葉が今も忘れられず、思考に影を落とす。
侑が戻った時、辺りはもう夕暮れだった。
橙色の夕陽が龍の背を美しく染め上げている。平時ならば心を打たれる印象的な風景なのに、胸に穴が開いたような虚無感がそれを許さない。
湊の頭部にはハンカチが巻かれている。
意識は無い。眠っている時は天使のようで、死体のようでもあった。リュウと張の視線は冷たかった。言葉にせずとも、彼等の叱責が聞こえる。
俺は人殺しだ。この手は血塗れで、どんなに足掻いても明るい未来なんて無い。
湊を突き飛ばしたのは、助けたかったからだ。湊を置いて行ったのも、守りたかったから。俺はいつもそうだ。どんな風に触れたら壊れないのか、傷付けないのか。力加減が、人との関わり方が分からない。
リュウは短く息を吐き出すと、切り替えるように言った。
「破傷風になるのも困りますから、移動しましょう」
侑は頷いた。
リュウが湊を背負おうとしたので、代わった。侑の体は返り血で染まっている。リュウは何かを言いたそうにしているが、無視して歩き出した。
心音が聞こえる。命の気配がする。
背中に伸し掛かる重みが思考を繋ぎ留めてくれる。けれど、一歩進む度に泥沼に足を取られているかのようだった。
病院はヤブ医者ばかりだとリュウが言った。
この国は貧富の差はあるが、何も無い僻地ではない。形だけは司法も行政も病院もある。だが、どの業界にも青龍会の権力争いが波及しており、腐敗が進んでいる。
何処の誰が敵で、どんな目的を持っているか分からない。
侑には他人の嘘は分からないし、怪我人を治療してやる技術も無い。
張の計らいで、自宅に連れて行ってもらうことになった。
愛妻家の大家族だと、湊が言っていた。そんな温かな場所に自分のような人間が行っても良いのか、侑には抵抗があった。
「天神さん。私には貴方の気持ちが分かりますよ」
助手席の扉を開けて、張が言った。
「怪我をしたのが私の家族で、敵が今も銃口を向けていると思ったら、とても正気ではいられなかったでしょう」
「……俺が、正気じゃないとでも?」
「あの時の貴方の目は、まるで鬼のようでした」
リュウが冷たく言った。
「貴方の選択は正しかった。多分、僕も同じことをしたでしょう。……ですが、どうして貴方はそんなに悲しそうな顔をしているのですか?」
サイドミラーを覗き込むと、血塗れの酷い顔だった。こんな姿で街を歩いたらすぐ武警に囲まれそうだった。
これが俺の生きて来た世界で、培って来た技術なんだ。この手は血塗れで、誰かを救う為ではなく、奪う為だけに銃を握った。だから、弟を助けることも出来ず、大切な人間すら傷付ける。
「約束を、守ってやれなかったからな」
死ぬな、殺すな、奪うな。自分の未来を諦めるな。
俺達の交わした約束は、到底実現不可能な夢物語だった。散々人を殺して来た自分が明るい未来を願うなんて、都合の良い話だ。
簡単に着替えを済ませたが、血の臭いがこびり付いていた。
助手席に乗り込み、染み付いた血と硝煙の臭いを嗅ぐと安心する。自分が生きているのだと実感出来る。
侑達が待機している間に張が森を見に行った。そして、戻って来た時には死人のような顔色をしていた。無言で運転席に座ろうとしたが、すぐに立ち上がって茂みへ走り出した。
蹲った張の背中が震えていた。激しい咳き込みと胃液の臭いがする。張は暫くその場で嘔吐していたが、車に来た時には表情だけは繕っていた。
「刘と杨がいました。……死んでいましたが」
「なるほど」
リュウは目を細め、頷いた。
森で仕留めた奴等は、青龍会の裏切り者だったらしい。
「……知り合いか?」
侑が訊ねると、リュウは苦い顔をした。
「僕の部下です」
総帥直轄の部下が、上司を裏切ったと言うのか。
青龍会の内部抗争は熾烈を極めている。リュウが湊に助けを求める理由も、分かるような気がした。
リュウは深く溜息を吐いた。
「流石に、少し堪えました。……腐った林檎を如何にかしなければなりませんね」
リュウの目には残酷な光が篭っている。
支配者、君臨者、搾取することに慣れた圧倒的強者。
けれど、侑には、孤独に見えた。
10.君の手
⑹見えない手札
万里の長城から、車で二時間。
到着した先は富裕層の住う閑静な住宅街だった。真新しい住居がドミノのように整然と緻密に建てられ、地震が起きたら丸ごと潰れてしまいそうな危うい均衡の中にある。
青龍会の顧問弁護士である張が案内したのは、西区と呼ばれる街の片隅の一軒家だった。近代的な混凝土のデザイナーハウスで、機能美を排除した前衛的な外装をしている。
侑の好みではなかったが、この国では流行っているらしい。
張に案内されるまま玄関を潜ると、薄幸そうな色白の美人が出迎えてくれた。
湊の話では、息子三人と娘四人を産み育てている逞しい女性である。重い物など持てなそうな細腕に、子供を叱る姿が想像出来ない程、物腰穏やかな女だった。
怪我人がいることは伝わっていたらしく、佳丽は子供達を家の奥に入れて、ベッドを空けてくれていた。侑は意識の無い湊を背負い、有難くベッドに寝かせてもらった。
白いベッドの中で、湊は血の気が無く、生きているのか死んでいるのかも分からなかった。リュウが頭部に巻いたハンカチを替え、傷口を見ていた。能面のような無表情で、リュウが言った。
「傷口自体は、大したことないですよ。縫合も要りません。このまま様子を見て、それでも目覚めないならうちの病院へ連れて行きましょう」
外傷と内部の傷は、必ずしも連動している訳ではない。
人の脳は思うよりも脆いのだと、湊がいつか言っていた。その怪我がどの程度深刻なものなのか侑には分からないので、リュウの言葉に縋るしかなかった。
張が気を利かせて部屋を出た。室内は湿気を帯びた沈黙に包まれ、湊の寝息が微かに聞こえる。壁掛け時計の音がした。
「日本の五反田で、青龍会の会合がありました」
訥々とリュウが言った。
話は聞いている。来栖凪沙の一件があった裏側で、湊は青龍会と取引をした。青龍会が武器密輸を止める代わりに、エンジェル・リードがパスファインダーを引き渡す。青龍会は約束を守ってくれているが、エンジェル・リードはまだ獲物を捕らえていない。
「湊は、格好良かったですよ。言っていることはよく分かりませんでしたが」
リュウは目を眇めて笑った。
「日本は必ず息を吹き返し、世界の要の一つになる。ジャイアントキリングが見たくないのか。アンタ達は最前列でそれを見ることが出来るぞ、と」
「意味が分からん」
「多分、誰も分からなかったと思います。ですが、湊の言葉には信じてみたくなる何かがある」
リュウは懐かしむように口元を緩めていた。
「彼には実績がある。SLCの解体、第三次世界大戦の抑止、薬害治療薬の開発。本来ならば、ノーベル平和賞でも与えられるべき偉業です」
だけど、それは誰の目にも留まらない。
湊は表舞台の人間じゃない。
青龍会が日本に侵攻しないのは、湊個人に価値を見出しているからだ。彼がこれから何を選び、何を成し遂げるのか見てみたい。青龍会は見定めようとしている。
「この国は権力者の傀儡です。上部だけのグローバリズムと私腹を肥やすだけの政治家に乗っ取られ、国民は指を咥えて眺めているだけです。僕には愛国心なんてものはありませんが、青龍会が消えたら今以上の地獄がやって来る」
社会的秩序を守る為の悪。青龍会という巨悪が存在することで、守られている人々がいる。正義が正しい世界なんて、フィクションの中にしか存在しない。
「ご存知とは思いますが、青龍会も一枚岩ではありません。敵対派の餓狼は、どうやらカミール・ラフィティというフィクサーに通じているようです。その手下が蛍と呼ばれる武器商人です」
侑は眉を寄せ、言葉を呑み込んだ。
俺達が追っている武器商人は、思っていた以上に世界の中枢へ食い込んでいる。
「……つまり、武器商人を野放しにしておくと、お前自身の立場が危ぶまれるってことだろ?」
侑が問い掛けると、リュウが意味深に笑った。
湊は健やかに眠っている。こんな大事な話を聞き逃して良いのだろうか。何処まで情報を与えて良い。リュウは本当に味方なのか。侑には李嚠亮という男を測れない。
リュウは側の椅子を引き寄せて、腰を下ろした。膝の上に両手を組むと、まるで品定めするかのような鋭い視線を向けた。
「パスファインダーが、ブレインネットワーク・インターフェースを使っているのはご存知ですか?」
「……湊から聞いてる」
「それは効率的で秘匿性の高い伝達手段です。材質は不明ですが、レントゲンや金属探知機にも引っ掛からない。テレパシーに近いものなのかも知れませんね」
エトワスノイエス製薬会社の一件で、ハヤブサがパスファインダーの一人を殺している。脳からブレインネットワーク・インターフェースと思われる機械が見付かっているが、銃弾で撃ち抜いたせいでバラバラになってしまった。
レントゲンや金属探知機にも引っ掛からないのでは、どうやって探し出せば良いのか。
答えのない難問を前にしたかのように途方に暮れていると、リュウが平然と言った。
「ですが、湊にはそれが分かる」
自らの主張に自信を持った断言だった。
侑は目を見張った。
「ブレインネットワーク・インターフェースは脳に埋め込まれた受信機です。受信者が人間である以上、思考がぶれる。湊なら、それを知覚出来る」
そういえば、ムラトも湊を麻薬犬代わりに使おうとしていた。遣り方は兎も角、使い方は正しかったのだ。
リュウは皮肉そうに鼻で笑った。
「貴方が手にしたカードは、スペードのエースではなく、ジョーカーなのかも知れません。……使い方には、どうぞご注意下さいね?」
弟の遺した黄金のカード。
それは、スペードのエースなのか、ジョーカーなのか。
その時、湊の睫毛が痙攣のように震えた。苦しそうな呻き声が聞こえて、侑は身を乗り出した。白いベッドの中、湊がゆっくりと目蓋を開けた。
「……侑」
ここ、どこ。
寝起きの掠れた声で、湊が言った。濃褐色の瞳は天井と侑を交互に眺め、何度か瞬きをした。
「張の自宅だよ。お前は俺に吹っ飛ばされて、頭打って気絶したんだ」
「格好悪過ぎだろ……」
湊は頭に巻かれた包帯を撫でて、顔を顰めた。リュウが安心したように息を吐く。湊は白い面で下手糞に笑った。
「みんな、無事?」
誰も怪我してない?
柔らかなボーイソプラノが問い掛ける。侑は苦笑した。
「怪我してんのは、お前だけだ。……悪かったな」
侑が謝罪すると、湊はぱちぱちと目を瞬いた。
「なんで謝るの。侑のお蔭で助かったんだ。ありがとう」
「……約束、守ってやれなかった」
死ぬな、殺すな、奪うな。
湊と交わした約束を、俺は果たせない。そういう方法しか知らないし、出来ない。きっと、これからも。
湊は、優しい目をしていた。
「君が約束を覚えていて、守ろうとしてくれたことに価値があると思うけどな」
「……」
「さて、沢山寝たから仕事しないとね」
湊はそう言って、大きく背伸びをした。
傷口が痛んだのか顔を歪めた。包帯には血が滲んでいて、普段通りとは言い難い。湊がベッドから足を下ろす。侑が黙っていると、湊が怪訝な顔をした。
「なんで、そんな顔してんの。俺は大丈夫だよ。侑が助けてくれたからね」
「……でも、その怪我は俺のせいだ」
「違うでしょ。俺が受け身を取り損ねただけだ」
柔道でも習おうかな、と湊が笑った。
受け身の問題ではなく、物理的に不可能なのだ。自分と湊の身体能力は違う。幾ら加減をしても、今回のような咄嗟の事態では同じことが起こるかも知れない。
湊は包帯の巻かれた頭を触診しながら、何でもないことみたいに言った。
「侑が本気でやってたら、俺の首くらい
本気だか冗談だかよく分からないことを言って、湊は鼻を鳴らした。ロケットじゃあるまいし、流石に人間の首を捥ぐ程の速度は出せない。
湊は立ち上がってから大きく背伸びをして、大欠伸をした。怪我や約束のことなんて、全く気にしていないみたいだった。自宅のような気安さで扉に向かう湊が、振り向いて悪戯っぽく笑った。
「張さんの奥さんにもご挨拶しないといけないね」
そう言って、湊は部屋を出て行った。
毒気が抜かれたような心地で立ち尽くしていると、リュウが言った。
「ああ言う人です」
励ますように肩を叩いて、リュウも扉に向かった。
キャベツみたいだな、と侑は思った。
剥いても剥いても、新しい葉が出て来る。その奥にある芯が硬いのか柔らかいのかすら、侑には分からなかった。
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