⑺竜蟠虎踞

 扉から出て行った湊が、まるでトイレに駆け込むみたいにして引き返して来た。侑とリュウを押し除けてキャリーバッグを開けて、中身を引っ繰り返して何かを探している。


 歯ブラシやら救急セットやら、コンパクトスチームアイロンやら血塗れの着替えやら放り投げて、湊は鞄の底から目当てのものを見付けたらしかった。


 それはエメラルドグリーンのミサンガだった。

 金色の糸を織り込み、中央には銀の鈴が付いている。何処で買ったのかは知らないが、湊がそれを用意する意図が分かった。




「失くしちゃったかと思った」




 ああ、良かった。

 そう言って、湊は足首にミサンガを巻いた。

 片手で掴める程に細い足首にミサンガが巻かれ、繊細な鈴の音色が零れ落ちる。リュウが問い掛ける。




「アクセサリーを付けるなんて珍しいですね」

「気を遣うようになったんだ」




 日本ではクソダサいセーターを着ていた奴が、アクセサリーに気を遣うなんて有り得なかった。

 湊は引っ繰り返してしまった荷物を無理矢理鞄に押し込んで、人の良さそうな笑顔を浮かべている。




「そういえば、襲撃者の身元は分かったの?」

「あれは、僕の部下です。長い付き合いだったのですが、残念です」




 湊は何とも言えない顔をして、目を伏せた。


 観光しようと言って万里の長城を選んだのは、相手が強硬策を取った時に街や民間人を巻き込まない為だ。一部、予想外の負傷者は出ているが、作戦は成功したことになる。




「そいつ等は、見る目が無かった」




 湊が言った。

 それが湊なりの励ましであることは、知っている。

 リュウは睨むような目付きで、否定した。




「いいえ、僕の未熟さです」




 甘えも妥協も許さない強い口調だった。




「僕はもっと非情であるべきだった。裏切りなんて考える余地も無いくらいに」

「……リュウは、そうなりたいの?」




 リュウの顔を覗き込んで、湊が問い掛ける。




「この世界には、血も涙も無い鬼のような人もいる。他人の不幸を喜ぶ人でなしもね。……リュウはそういう人になりたいの?」

「願望ではありません。そうであるべき、という話です」

「君には似合わないと思うけどな」




 湊は困ったみたいに言った。




「君が強くて正しければ、誰だって味方にしてくれと願うだろうさ。でも、もしもそうじゃなかった時、誰が味方になってくれるの?」




 湊の声は風のように澄んでいる。




「この状況は、君のせいじゃないよ。裏で糸を引いてる奴がいる。自分を責めてばかりいると、本当に大事なものを見落としてしまうよ」

「まるで、経験談ですね」

「そうだよ。最近、教えられたんだ」




 湊は侑を見て、微笑んだ。




「俺は君の味方だ。青龍会の為でも、日本の為でもなく、友達の為に此処へ来たんだ。……今のところ、良いとこ無いけどさ」

「確かにな」




 侑が笑うと、湊が照れ笑いみたいに鼻の頭を掻いた。

 どういう心情なのか分からないが、湊が楽しそうなのは良いことだと思う。


 湊が立ち上がった時、鈴が鳴った。


 りんりん、りんりん。

 その音を聞いていると、神経が研ぎ澄まされて、思考が冷えて行く。湊が部屋を出て行く。侑はその後ろ姿を見詰めながら、後を追った。


 湊が運び込まれていたのは、張家の客間だった。開放感のある廊下を抜けると、ドーム状のリビングが現れる。天井は吹き抜けで、明るい夜空が広がっていた。

 室内灯の青白い光がリビングを隈無く照らしている。食卓には、侑が口にしたこともないような民族的な家庭料理が並んでいた。


 張は煙草を吸いながらリビングの椅子に座っていた。リュウを見ると慌てて立ち上がり、灰皿に煙草を押し付ける。傍らには国内の新聞が畳まれていた。


 子供達はいない。近所の知り合いの元へ預けているらしい。

 テレビはバラエティ番組を映し、コメディアンの空虚な笑い声がBGMのように流れている。


 キッチンでは、張の妻である佳丽が料理をしていた。香辛料の独特な臭いがリビングまで漂っている。


 リビングには家族の写真が飾られていた。並べられた子供達の写真からは年月の経過と成長が感じ取れる。張という男が、家庭を持ち、家族を大切にしていることが痛い程に分かる。


 リビングのサイドチェストには、進学校の参考書や家族のアルバムが几帳面に納められている。長子は社会人となり、末っ子は受験勉強。裏社会とは掛け離れた、有触れた生活が此処にはある。




「美味しそうですねぇ」




 食卓を見下ろして、湊が笑った。

 りん、と鈴が鳴る。


 張は誇らしげに笑った。




「妻は料理が得意でして、近所では料理教室を開いているんですよ」




 侑がキッチンを見遣ると、カウンターの向こうで佳丽が微笑んだ。




「食事にしましょう。今日は疲れたでしょうから」

「本場の料理は初めてなので、楽しみです」




 張がいそいそと椅子を引いた。

 湊はカウンターの向こうを覗き、次々と完成する料理に声を上げて喜んだ。食欲を唆る芳ばしい匂いがする。真っ白な湯気を避けて、湊が率先して皿を運ぶ。


 りんりん、りんりん。

 侑はその鈴の音に耳を澄ませていた。




「お子さんは、別の場所にいらっしゃるんですよね?」

「ええ、はい。親戚が近くに住んでいるので、其方に」

「信頼出来る方が近くにいらっしゃるのは、有難いですね」




 世間話をしながら、湊はコップと水差しを運んだ。

 上座にリュウが座ると、湊は硝子のコップに茶を注いだ。


 りんりん、りんりん。

 鈴の音が聞こえる。


 粗方の料理を出し終えると、佳丽は調理器具を洗い始めた。蛇口から勢いよく水が噴き出す。湊は壁に飾られた写真を順に眺め、侑に耳打ちした。




「表情には出すな」




 口唇を歪め、嘲笑うように湊が言った。

 濃褐色の瞳はリビングとキッチンを見遣り、すぐに背中を向けた。


 りん、と鈴が鳴った。












 10.君の手

 ⑺竜蟠虎踞りゅうばんこきょ











 エンジェル・リードは、羅針盤を持たない冒険家である。

 風の吹くまま気の向くまま、自由奔放に無謀な活動しているように認識されているが、実際は違う。羅針盤が無くとも、航海の仕方は身に付けなければならないし、緊急時の対処も決まっている。


 一日一回の定時連絡、独自の暗号、多岐に渡る連絡手段。

 湊が身に付ける鈴は、緊急時の合図である。

 何らかの理由で直接話すことが出来ない時、この鈴の音で情報を共有する。




「本当に美味しそうな料理だねぇ」




 湊が笑顔で言った。

 鈴の音は止んでいない。音に気付いた張が足元を覗いたので、湊は得意げに見せた。鈴自体に細工は無い。




「ああ、でも、侑は香辛料にアレルギーがあったよね」




 どうしよう。

 困ったみたいに湊が眉を下げた。演技とは思えない庇護欲を唆る姿だった。餌のように振る舞うことが出来ると、最近知った。無邪気で天真爛漫な子供の姿は或る一面でしかない。


 侑は食卓を見下ろした。




「張さんは、大丈夫なのか?」




 りん、と鈴が鳴った。

 張は少し驚いたみたいに目を丸めたが、すぐに朗らかに笑った。




「僕は妻の料理を食べ慣れていますから、大丈夫ですよ」

「リュウは?」

「僕も平気です」




 リュウが抑揚の無い声で言った。

 湊は壁際に寄ると、氷のように冷たい声で言った。




「後片付けは、俺がやるね」




 濃褐色の瞳に青白い炎が見えた。

 鳥肌が立つような高揚感が湧き上がる。テレビはCMになり、格調高いクラシックが流れ始めた。


 ドヴォルザークの交響曲、第九番、新世界より。


 侑は食卓から鉄の箸を引っ掴んだ。張が視線を向け、リュウが表情を変えるその刹那、侑はカウンターの上に身を滑り込ませた。


 鍋を洗っていた佳丽が顔を上げる。侑は構わず側頭部を狙って足を振り抜いた。佳丽の身体がキッチンの壁に打ち付け、鍋が引っ繰り返り、激しい音を鳴らした。


 甲高い女の悲鳴が耳を劈く。

 張の怒号が礫のように投げ付けられ、リュウが何かを叫んでいる。侑は鉄の箸を逆手に持ち、佳丽の眉間に突き付けた。


 抵抗はさせない。逃すくらいなら、殺す。

 体重を掛けて関節を押さえ、黒い虹彩に箸を向ける。




「止めてくれ!!!!」




 張の叫び声が迸った。キッチンに突入しようとする張を、湊が制する。侑は目の前の女に意識を注いでいた。富裕層の主婦。張の妻。侑の目には、極普通の女に見えた。――だが、湊が断言した。




「それは、貴方の奥さんではない」




 無慈悲な刃のように、湊が冷たく言った。

 リュウが動転する張を抑える。湊は二人を押し除けて、キッチンの入り口から冷ややかに見下ろしていた。




「会いたかったよ、Arms dealer」




 壁に寄り掛かり、湊が絶対零度の笑みを浮かべる。

 佳丽の身体は震えている。顔は蒼白となり、黒々とした瞳に怯えが映った。だが、侑は退かなかった。


 侑には、他人の嘘は分からない。

 佳丽は極普通の主婦に見える。――だが、湊がこいつだと言うのなら、信じる。


 湊は乾いた口調で言った。




「侑。狙うなら、心臓だ。脳は残しておかないと困る」

「……分かった」




 佳丽の顎を押さえながら、侑はナイフを取り出した。

 この世界には、奥歯に武器を仕込むようないかれた人間がいる。体内に爆弾を仕掛ける変態もいる。




「佳丽さんをどうした?」




 蛇蝎を睨むような目付きで、湊が忌々しげに言った。

 佳丽は答えない。侑が一切の身動きを封じているからだ。だが、湊が会話したいと考えているようには、見えなかった。




「彗星を捕まえたら、どうしようかと考えていたんだ。ミサイルで迎撃するのは無粋だろう?」




 りんりんと、鈴が鳴る。

 湊は乾燥機に置かれた中華包丁を掴むと、佳丽の頭頂部に向けた。




「君の頭の中に埋め込まれた機械に、興味があるんだ。脳に機械を埋め込んで、何の障害も無いの? それはどのくらいの大きさで、どんな材質で、何処に入れているのかな?」




 目を細めて、湊が愉しそうに問い掛ける。




「解剖は久しぶりなんだ。……痛かったら、ごめんね?」




 その切っ先が頭皮を引き裂く瞬間、家の中は真っ暗な闇に包まれた。動揺した張の声がする。硝子の割れる音が響き渡り、壁に銃弾が突き刺さった。


 だが、侑は手を離さなかった。

 鈴の音がする。リュウの声が、銃声が木霊する。マズルフラッシュが閃光のように網膜を焼く。食卓に並んだ料理が蹂躙され、壁に掛けられた写真が穴だらけになる。


 押さえ付けた体が、身構えるのが分かる。この状況にあっても悲鳴一つ上げず、暴れもしない。ただの主婦じゃない。それどころか、一般人ですら無い。


 吹き抜けから月光が降って来る。

 湊はカウンターに身を潜めながら、薄く笑っていた。




「絶対に離すなよ、侑」

「分かってるよ」




 俺は今、王手を掛けている。情報を引き出さなければジリ貧だ。――だが、このままでは制圧されるのも時間の問題だろう。


 誰か動けるのか?

 襲撃されているこの状況で、最優先するべきは本当にこいつなのか?

 湊と張は丸腰だ。リュウが暗殺されたら、後ろ盾が無くなる。俺が選ぶべきは何だ。


 押さえ付けた佳丽が、薄闇の中で愉悦に笑っているのが見えた。


 俺が選ぶべきなのは。




「退いて下さい」




 侑が掌に力を込めた時、場違いな程に冷静な声がした。

 闇の中で銀色の閃光が糸のように走った。それは地面に縫い付けられた佳丽の首筋を滑った。そして、次の瞬間、真っ赤な血液が噴水のように噴き出した。


 リュウは手にしていた中華包丁を投げ捨てると、懐から黒光りする拳銃を取り出した。破られた窓から工作員のような男が突っ込んで来る。侑は持っていたナイフを投げた。


 襲撃者の肩口にナイフが突き刺さる。呻き声を漏らす間も無く、リュウが発砲した。乾いた銃声が反響し、辺りは血と硝煙の臭いに包まれた。


 侑は愛銃のグリップを掴んだ。

 こんなところで死ぬ為に、海を渡った訳じゃない。


 壁際に身を潜めて迎撃し続けると、襲撃は波が引くように消えて行った。撤退したのだろうか。侑は銃弾を補充しながら、闇の向こうを睨んだ。


 サイレンが聞こえる。武警が来る。

 自分達が此処にいるのは、不味い。


 湊は血塗れの死体を漁っていた。最低な倫理観である。

 頸動脈を切り裂かれた佳丽は、仰向けになって倒れている。目蓋は見開かれ、眼球が生々しく天井を眺めていた。湊は硬直し始めた顔面を観察している。死相は変わるものだが、それは、先程まで見ていた女とは明らかな別人だった。


 蛍だ。

 以前、遊覧船で邂逅した武器商人。


 張が悲鳴を上げる。

 湊は冷めた目をしていた。




「人工皮膚だね」




 興味深いよ。

 湊はそう言って、血に染まったエプロンの下から携帯電話を取り出した。




「ねえ、リュウ」




 佳丽の携帯電話を見下ろしながら、湊が言った。




「武警を追い返せる?」

「……これだけ派手になってしまうと、少し難しいかも知れません」

「信じてるぜ、リュウ」




 湊は勝手に言って、リビングを出て行った。

 家の中は酷い有様だった。食卓は荒れ果て、壁は銃弾に抉られている。此処が母国なら大変な事件である。――だが、此処は母国ではなく、龍の巣だ。そして、李嚠亮こそがその主人である。


 リュウはその場に座り込んで、頭を抱えてしまった。

 張は別人だった遺体を前に、怒りと悲しみを押し殺したような顔で立ち尽くしている。


 どうやって始末を付けるつもりなんだろうな。

 侑は思考を放棄して、客間へ歩き出した。

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