⑻未来を描く
客間を覗くと、キャリーバッグが引っ繰り返っていた。
几帳面な航が見たら発狂しそうな光景だった。湊はベッドの上に背中を丸めて、闇の中でノートパソコンを開いていた。
ブルーライトが辺りを仄かに照らし出す。キーボードを叩く湊は振り返りもせず、呼吸すらしていないように見えた。
呼んでも返事をしないので、侑は肩を叩いた。本当なら後頭部を叩いてやりたかったのだが、怪我をしていたので流石に止めた。
湊はシャボン玉が弾けたみたいに顔を上げて、瞬きをした。
眼球が乾いたと言って眉間を揉む姿は、先程まで包丁を手にしていたとは思えない。
「何してんだ?」
「ネズミ捕り」
ネズミの真似をして、湊が鳴いた。
パソコンのディスプレイには膨大な文字が映っている。侑には理解出来ないコンピュータ言語だった。
蛍の携帯電話がUSBで繋がっている。パソコンのディスプレイの端に緑色のプログレスバーが映り、何かのデータを読み込んでいると分かる。
湊は油性マジックを取り出して、歯でキャップを開けた。
こいつも、ダメ。
こいつも、こいつも。
独り言みたいに言いながら、湊が電話番号を壁に書き付ける。天才の思考回路はよく分からない。
「こいつ等は、パスファインダーに繋がってる。裏切り者だ」
腹立たしそうに言いながら、壁は数字で埋められて行く。
パスファインダーを捕まえたら終わりではなかったのだ。腐った林檎は隣を腐らせて行く。青龍会は既に腐った林檎で溢れている。
プログレスバーが埋まり、データの読み込みが終了した。
湊が番号を書き終えた時には、壁一面が真っ暗に染まっていた。
玄関から男の声がした。武警だろう。
対応しているのは張らしい。玄関を突破されると、厄介だ。
強行突破されるかも知れないと、侑は懐に手を伸ばした。だが、湊は笑った。
「青龍会のボスと顧問弁護士だぞ。武警なんかに突破出来るかよ」
侑は懐から手を出した。
まさか、国家権力の腐敗に感謝する日が来るとは思わなかった。
湊はパソコンを睨みながら、小難しい顔で唸っている。何を考えているのか知らないが、ろくでもない悪巧みであることは分かる。
「武器商人の死体が取られるのは、嫌だな。先に解剖しようかな」
「お前が天使なのは、顔だけだな……」
侑が零すと、湊が声を上げて笑った。
「俺がSLCに、なんて呼ばれていたか知ってる? 悪魔の手先だぞ」
言葉遊びを楽しむみたいに、湊が言った。
SLCは、侑の弟を殺した悪辣なカルト宗教だった。湊はその教主を刑務所送りにしたせいで、信者から悪魔の手先と呼ばれている。
「馬鹿馬鹿しくて笑っちゃうよね」
「俺も、血に飢えた獣とか言われたことあるぜ」
「他人の評価なんてクソだ。この世はクソにクソを塗り重ねた、クソそのものなんだ」
「クソクソ言い過ぎだろ」
「だって、そうなんだ」
湊は白々しく笑った。
侮蔑しているのに、諦念はしていない。湊が何を考えて生きているのか侑には未だによく分からない。
湊は油性マジックを片手で回しながら、明るい声を出した。
「そういえば、トロッコ問題ってあるだろ?」
「ああ」
線路上を走るトロッコが制御不能になり、そのまま進むと五人の作業員が確実に死ぬ。五人を救うために分岐点を切り替えると一人の作業員が確実に死ぬ。
線路の分岐点に立つ人物はどう行動すべきか。
人間の道徳心から生まれるジレンマに、どのように対処するのかと言う問題である。
「あれって、分岐点を中立にすると、トロッコは止まるらしいね」
「へえ……」
それは、狡い答えだな。
どちらを助けるかを問うているのに、勝手に三番目の選択肢を持って来るなんて反則じゃないのか。
湊は指先で油性マジックを回しながら、楽しそうに言った。
「馬鹿みたいだろ? だけどさ、俺は面白いと思うんだよね」
「面白い?」
「うん。追い詰められたその瞬間に、分岐点を中立にしてトロッコを止めようなんて考えられる? 俺には無理だ」
湊は降参を示すみたいに両手を上げた。
悲壮感は無い。不条理を楽しむ余裕すら感じられた。
湊は手を下ろすと、不敵に笑った。
「だけど、今の俺はトロッコの止め方を知ってる。土壇場で、もっと良いアイデアが浮かぶかも? 自分の可能性を自分で決めていたら、何も楽しくないよな」
なんか、変わったな。漠然と、思った。
もっと理詰めで考える慎重な性格だと思っていたのだけど、もしかしたら、違ったのかも知れない。
「この世はクソだけど、闘う価値がある」
湊はパソコンを閉じると、大きく背伸びをした。
「さて、武警が引っ込んでいる内に脳の解剖でもしようか」
10.君の手
⑻未来を
血腥いリビングに戻ると、リュウと張は既にきびきびと動き出していた。窓の向こうではサイレンが鳴り響き、銃声すら聞こえるのに、死体の転がった家の中には誰も踏み入れない。
本当に、武警を追い払ってしまったらしい。
湊はキッチンで調理器具を取り出して、床に並べていた。死体の脳を解剖するつもりらしかった。
アウトサイダーなんて言葉が生温く感じる程の酷い状態だ。こんな場所は正義の味方だって裸足で逃げ出すだろう。
侑は死体に刺さった愛用のナイフを抜いて、血を払った。刃毀れしていないことに安心して鞘に戻す。それぞれが忙しなく動き回っているのに、侑はやることが無かった。手持ち無沙汰で壁に寄り掛かっていたら、キッチンから湊が呼んだ。
「暇なら、地下室でも覗いて来てよ!」
湊のボーイソプラノに混じって、何かを削るような低い音がした。頭蓋骨を開こうとしているのかも知れない。正直、見たくない光景だった。
キッチンから目を逸らしながら、言われた通りに地下室へ向かった。階段下に物置があり、床に蓋がされている。開けてみると黴と埃の饐えた臭いがした。
家屋は停電してしまっていたので、据え付けられた懐中電灯を使った。黄色い光が筋となって、湿気っぽい暗闇を照らす。足を踏み入れると埃が雪のように舞った。
周囲は混凝土に囲まれており、酷い閉塞感だった。足音が闇に反響する。それ程、広い空間ではなかった。使われなくなった何かの機材や日用品が、壁際に纏めて並べられている。
埃を吸い込まないように肘で口元を覆いながら、懐中電灯を向けた時だった。半透明の大きな袋が、まるで不用品のように置かれているのが見えた。
それは、人間だった。
半透明の袋の中で、季節の変わり目に仕舞い込まれた布団みたいに真空状態にされ、両手両肘を突っ張るような体勢で固まっている。肌は青黒く変色し、長い黒髪は鳥の巣のように絡まっている。生きていれば、美しい女性だっただろう。
それが誰なのか、知っている。
リビングに飾られた写真の中で、彼女は家族に囲まれて幸せそうに笑っていた。
張の妻、佳丽。
パスファインダーが成り代わる為に、殺害されたのだ。
侑は側に膝を突き、手を合わせた。袋の中に押し込まれた佳丽は、生前の美しさは見る影も無く、恐怖と苦悶に歪んだ顔をしている。側頭部に銃創と火傷のような痕があった。至近距離で撃たれたのかも知れない。
遺体を弔うのは、悲しみに区切りを付ける為の大事な儀式。
復讐も埋葬も生きている人間のエゴで、どちらを選んでも傷と痛みを伴う。
湊が言っていた。
人が死ぬと言うことは、そう言うことなんだと。
埋めてやろうと、思った。
佳丽も、自分が殺した名も知らぬ襲撃者も。
遣り切れない思いのまま地下室から戻ると、キッチンからは粘着質な不気味な音がしていた。固まり掛けた大量のゼラチンを力任せに掻き混ぜているかのような悍しい音だった。
リュウと張がキッチンから距離を取っているので、内心で同情した。侑は懐中電灯をテーブルに置き、張を見遣った。
青龍会の顧問弁護士、悪名高き張睿泽。けれど、彼も人の親で、家族がいる。
「……なあ、地下室に」
侑が口を開いたその時、湊の声が響き渡った。
「Awesome sauce!」
キッチンのカウンターから、湊がモグラ叩きみたいに顔を出した。頭には包帯、頬に返り血が付いている。通報されたら、真っ先に逮捕されるのはこいつだろう。
湊は血塗れのビニール袋を翳した。臓物でも入っているのかと思ったら、何かの機械の部品らしかった。血塗れなので分かり難いが、材質はプラスチックに似ている。
徹夜明けみたいなテンションで湊が小躍りしている。キッチンから出て来た姿は猟奇殺人事件の犯人そのものだった。何をしたのか知りたくないし、見たくない。
湊は得意げにビニール袋を見せて、爽やかに笑った。
「これが、ブレインネットワーク・インターフェースだ」
パスファインダーとフィクサーの連絡手段。
脳に直接埋め込まれた受信機。それは想像していたよりもずっと小さかった。雑草の根のようにコードが細く伸びており、ゼラチン状の何かがくっ付いている。脳味噌から摘出したことを考えると、嫌な予感がした。
お前はどうして、そんなにいかれてるんだ?
この世の不条理を嘆く侑とは対照的に、湊はダンゴムシを見付けた三歳児のように燥いでいる。
一人で盛り上がっている湊は、放っておいた。
首から下にモザイクを掛けて欲しい光景だ。リュウは遠い目をして、顔を背けてしまった。遥々海を渡って助けに来た友達に対して、中々の薄情者だ。
「……張、貴方の奥様は」
固い声で、リュウが言った。
感情の無い冷たい横顔だった。
「僕が殺したようなものです」
リュウは、察しているようだった。
パスファインダーが張の妻に成り代わっていた時点で、生存の望みは低かった。張は青龍会の要だ。だから、身内が狙われた。
張は何かを堪えるように拳を握っている。
妻は殺され、家は荒らされ、飾られた写真だけが幸福だった過去を残している。この世はクソにクソを塗り重ねた、クソそのもの。――その通りだった。
「相手が必要ならば、僕を恨んで下さい」
そう言って、リュウは深く頭を下げた。
それがこの李嚠亮と言う男の誠実さだった。張の拳が震えている。血管が隆起し、今にも破裂しそうだった。
殴られるくらい、安いものだ。
侑は静観していた。張がリュウを見限るのならば、青龍会に未来は無い。その怒りや悲しみを受け止められないのならば、彼等はその程度だったと言うことだ。
張は拳を固め、そして、ゆっくりと開いた。
「……少し、頭を冷やして来ます」
そう言って、張はリビングを出て行った。
居心地の悪い静寂の中、盛大な溜息が聞こえた。キッチンのカウンターに肘を突いた湊が、呆れ切ったみたいに肩を落としている。
「なんで、あんな言い方するの?」
もっと上手くやれるだろ、と湊が苦笑した。
侑も同感だった。リュウが血も涙も無い冷血漢だったのなら、張の悲しみに寄り添い、怒りを煽り、利用することだって出来た。
「憎しみで生きるのは、しんどいよ」
「では、他にどうしろと?」
静かな苛立ちが波紋のように広がって行く。
リュウの軽蔑するような視線が、湊を射抜く。
「僕の手は血塗れです。そういう道を選びました」
リュウの足元に血溜まりが見える。
それは彼の足を絡め取り、一筋の光も差し込まない闇の底へ引き摺り込む。彼はそういう世界で生きているし、覚悟して選んだ。
彼の覚悟を否定する権利なんて、誰にもない。
湊は子供のように小首を傾げた。
「だけど、君の手は俺を守ってくれたよ?」
微睡むみたいに目を細めて、湊が投げ掛ける。
それは、蕩けるような柔らかな声だった。リュウがぽかんと口を開けると、湊は苦く言った。
「俺の手だって血塗れさ」
カウンターの向こうから、湊が両手を上げた。肘まで覆うゴム手袋は、血と頭髪がこびり付いている。余り直視したくない状態である。顔を顰めるリュウとは反対に、湊は晴々と笑った。
「でも、俺の手は料理も出来るし、ギターも弾ける。もしかしたら、もっとすごいことを成し遂げるかも知れない」
湊は得意げに言った。其処にだけ春が訪れたみたいだった。血塗れの両手で、死体の転がった家の中で、湊は締まりの無い顔で笑っている。
「血塗れの手でも、未来は
眩しそうに目を細めて、湊が言った。
「俺はそれを、侑の弟に教えてもらったんだ」
湊が此方を見て、泣きそうな顔で笑った。
侑は其処に、満天の星を見た気がした。湊の首元で銀色のドッグタグが光る。まるで、深い絶望の底に希望の光が差し込むように。
When it is dark enough, you can see the stars.
どんなに暗くても、星は輝いている。
想いは、繋がっていくのだと。
無駄でも無意味でもないのだと、湊が何度でも声を上げる。
「俺は君にも幸せでいて欲しいな。友達だからさ!」
侑は笑った。
湊は最初から、ずっとそう言っていた。青龍会もパスファインダーも、生まれも境遇も関係無く、ただ友達だからだと。
どんなに薄汚れても、どんなに離れて月日が経っても、変わらないものがある。それは目には見えないけれど、確かに存在する。
湊はゴム手袋を抜き取ると、ぞんざいに投げ捨てた。
「さあ、此処からはエンジェル・リードの仕事だ」
「何をするつもりなんだ?」
侑が問い掛けると、湊が片目を閉じた。
「社会の未来に投資するのさ!」
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