⑼血の契り
相談したいことがある、と湊が言った。
普段の柔らかな態度からは掛け離れた、固く緊張した声色だった。侑が先を促すと、湊は薄暗い客間に移動した。
明かりの消えた室内は、まるで墓穴のようだった。ノートパソコンの明かりに照らされ、壁一面に記された数字の羅列が不気味に浮かび上がる。パスファインダーと繋がっていた青龍会の裏切り者が劃然と告発されている。
湊はベッドに腰を下ろすと、膝の上で両手を組んだ。
頭部からの出血、パスファインダーの解剖とブレインネットワーク・インターフェースの摘出。その相貌は天使のように美しいのに、漂うのは血と消毒液の臭いだった。
「侑には、青龍会はどう見える?」
「どうって、なんだ」
「投資する価値があるかどうか」
侑は腕を組んだ。
中国の黒社会の総本山、青龍会。
国家そのものが犯罪のシンジケートと化し、凡ゆる非道行為が罷り通るこの世の地獄。国家さえ傀儡とする悪の親玉。大勢の命を奪い、人生を搾取し、他人の涙を弄ぶ闇の深淵。
青龍会があることで、どれだけの人が苦しみ、涙を流し、命を落としただろう。彼等は、社会が疎む絶対的な悪だ。
だが、侑は必要悪というものを知っている。
青龍会が解体しても別の組織が台頭し、新たな悲劇が生まれる。社会が順調に回って行く為の歯車。誰かが受けなければならない泥。
「……青龍会が潰れると、日本経済は影響を受ける」
治安も悪くなり、貧富の格差が生まれ、誰かが涙を流す。
この国の惨状は、もしかしたら日本の未来そのものなのかも知れない。路上を徘徊する浮浪児と、垢だらけの物乞い。通りの向こうでは富裕層の人間が高級食材を貪り、受験戦争に身を投じる。
湊は俯いて、言葉を選ぶように沈黙した。
ブルーライトに照らされた面は血の気が無く、幽霊のようだった。
「俺は、青龍会を潰すことが出来る」
湊の背中には、裏切り者を告発する数字が広がっている。
パスファインダーから抜き取った情報をどう使うのかは、湊に委ねられている。リュウに渡せば血の粛清が起こり、見逃せば青龍会が腐り落ちる。
「俺にとってリュウは友達だ。助ける理由がある。だけど、事態が此処まで深刻になってしまうと、友達だからと言う理由だけでは助けられない」
助けるにも、理由がいる。
湊は沈み込むような声で言った。
裏切り者の告発と言う泥を被るには、相応の覚悟が要る。
「選択肢は二つある。一つは、青龍会を今日潰すこと。もう一つは、青龍会の未来に賭けて同盟を結ぶ」
「……同盟?」
侑が問い掛けると、湊は頷いた。
「青龍会は裏切り者に対して、面子を保つ為に血の粛清を行うだろう。……でも、恐怖による支配は反感を買う」
血の粛清も、青龍会の解体も止めたい。
湊は拳を握っていた。
「これ以上の地獄を、友達に選ばせたくない」
同盟を結べば、裏切り者の告発をエンジェル・リードが請け負う。血の粛清に対して、対等に意見するだけの立場が得られる。――けれど、それはつまり、青龍会と運命を共にすることになる。
エンジェル・リードは若い芸術家に資金援助する投資家。
青龍会との同盟関係は、湊が築いて来た経歴や実績を汚すことになる。
それは嫌だな、と思った。
友達を助ける為に湊が貧乏籤を引くのは、嫌だ。
「同盟の内容による」
侑は答えてから、自分の狡さに吐き気がした。
友達を助けたいと願う湊、家族を守りたいリュウ。彼等の目的は一致しているが、それが今後どうなるのか分からない。
「お前の友達が、ただの悪人ではないことは分かる。だが、青龍会は悪そのものだ。そいつ等と繋がっていることで、俺達の仕事はどうなる?」
死なない、殺さない、奪わない。自分の未来を諦めない。
このルールを譲ってしまうと、どんどん闇の底に転落してしまう。――其処にお前の未来はあるのか?
湊は俯き、噛み締めるように言った。
「青龍会は巨大な組織だ。敵も多い。そいつ等が俺達を狙って来る可能性もある。敵も増えるけど、味方も得られる」
「後には退けないぞ」
「……だから、相談してる」
弱り切った顔で、湊が言った。
さっきまで嬉々として脳の解剖をしていた男と同一人物とは思えない。
侑は唸った。
どちらがマシな未来なのか。
青龍会を活かすか、殺すか。その選択を強いられている状況そのものが貧乏籤だと思うのは、自分だけなのか。
同盟が結ばれた時、青龍会に敵意を持つ者は真っ先に自分達を狙うだろう。万里の長城で湊が狙われたように、敵は弱い奴から始末しようとする。
だが、エンジェル・リードは今、ラフィティ家に呑み込まれそうになっている。奴等と対等に遣り合うには、それなりの立場が要る。
これを湊に選ばせるのは、酷だな。
侑はそう思った。これは自分が一緒に被ってやれる数少ない泥だ。だから、なるべく明るい声で、普段通りの口調で、笑いながら堂々と答えた。
「投資しよう」
侑が言うと、湊が顔を歪めた。
湊には他人の嘘が分かる。どんなに取り繕っても、彼には筒抜けになる。無駄な問答はいらない。俺が感じたものをそのまま伝える。
「青龍会が潰れようが生き長らえようが、俺はどうでも良い。……だが、李嚠亮のような分別のあるリーダーを失うのは惜しいと思う」
俺達が投資するのは青龍会ではなく、李嚠亮と言う個人だ。
真面目で融通も利かず、愛想も面白味もない朴念仁だが、湊が信頼する友達である。
湊が頭を打って昏倒した時、李嚠亮は立場も忘れて銃弾の雨の中を駆け抜けた。あの姿が彼の本質だと思った。
「青龍会が腐り落ちるなら、エンジェル・リードはそれまでだったってだけの話さ」
それなら、エンジェル・リードなんて捨てて、また新しく始めれば良い。湊さえ生きているのならば、他のことはどうだって良かった。
「血塗れの手でも、未来は描けるんだろ? 俺は、お前等の描く未来が見てみたい」
侑が言うと、湊が微笑んだ。
10.君の手
⑼血の契り
リビングに戻った時、リュウと張は荒れ果てた食卓の前に着席していた。まるで、処刑台の上で裁きの刃を待ち受けるかのような緊張感が室内を支配している。
湊が足を踏み出すと、足元で鈴が鳴る。冷え切った室内の空気を切り裂くように、湊は二人の前に着席した。
席は空いていたが、侑は座らずに湊の後ろに控えた。エンジェル・リードのボスは湊だ。自分は彼を守る牙であり、立ち塞がるものを打ち倒して行く刃でもある。湊に出来ないことは、俺がやる。
湊はテーブルの上に血塗れのビニール袋を置いた。
武器商人から摘出したブレインネットワーク・インターフェースだ。レントゲンや金属探知機にも引っ掛からない未知の装置。
「武器商人は死んだ。ブレインネットワーク・インターフェースは引き渡す。これで、俺達は約束を果たした」
武器商人の身柄と引き換えに、日本への武器密輸を止める。
エンジェル・リードは青龍会と交わした約束を果たした。本来ならば、これで取引は終わりだ。だが、青龍会は武器商人の後ろで糸を引いているフィクサーを始末しなければならない。
「俺達は、青龍会の裏切り者を告発することが出来る」
「何をお望みですか?」
リュウの目が細められ、矢ように射抜く。
口調は柔らかいのに、迸るプレッシャーは今にも獲物を丸呑みにしようとする龍のようだった。相対すると、湊は牙も鱗も持たない獲物に見える。
ただ、それは致死量の毒を持っている。
湊はやや身を乗り出して、覗き込むように言った。
「青龍会と同盟を結びたい。俺個人ではなく、エンジェル・リードとして」
リュウと張は、沈黙していた。
獲物が息絶える瞬間を待つハイエナのように、その一挙一動を具に観察している。
重苦しい静寂の中、口を開いたのはリュウだった。
「同盟には目的が必要です。貴方達の目的は何ですか?」
エンジェル・リードの目的。
そんなものは、初めから変わっていない。
湊が新と出会い、幾つもの危険な橋を渡り、不条理と理不尽を堪え、泥沼の中で足掻く理由は、たった一つだ。
「明るい未来だ」
大切な人に生きていて欲しい。
笑っていて欲しい。幸せでいて欲しい。――ただ、それだけだった。
湊が言い切ると、リュウは顔を伏せた。
肩が微かに震えていた。
「貴方は、昔から変わりませんね」
呆れたように、小馬鹿にするように笑っている。
けれど、リュウの眼は夜空に星を見付けたみたいに輝いている。
リュウは大きく息を吐き出すと、姿勢を正した。
「良いでしょう。青龍会総帥として、エンジェル・リードと同盟を結びます」
リュウは張を呼び付けると、キッチンから杯を持って来させた。陶器で出来た杯は金箔が張られ、牙を剥く龍が繊細に描かれている。
張は青龍会の顧問弁護士で、妻を殺されている。
リュウは恨むなら自分を恨めと言ったが、果たして、彼は何を選んだと言うのか。
張は金色に輝く杯を二つテーブルに並べると、冷蔵庫から瓶を持って来た。アルコールの類かと思ったが、貼られたラベルには葡萄ジュースと記されている。
ジュースを注ぐ張の面は、仮面のような無表情だった。
「……僕の妻は、殺された」
一つの杯にジュースを注ぎ終えると、張は仄暗い目付きで言った。
「殺したのはあの武器商人なのかも知れないし、青龍会という巨大な龍なのかも知れない。……ですが」
瓶を机に置くと、張は拳を握った。
血管が浮き出る程に握り締められた拳が震えていた。張の目に炎が見える。それは憎悪と悔恨に燃える復讐者の目だ。
「この国に、子供がいます。子供達には良いものを残してやりたい」
侑は唇を噛んだ。
張は、一家の大黒柱だ。帰るべき家があり、守るべき家族がいる。青龍会が潰されてしまったら、子供達の未来は閉ざされてしまう。
恨みも憎しみもあるだろう。だが、子供を守ろうとする親の愛情は、復讐心すら凌駕することがあるらしい。その時になって、張と言う男が、清濁併せ呑む度量を持っていることを知った。
リュウは、湊を磁石のようだと言った。
沢山の砂の中から本当に光るものだけを拾い取ると。
李嚠亮も、そうだったのだろう。部下に裏切られ、命も立場も脅かされる四面楚歌の状況であっても、最後の時までその掌に残るものがある。
リュウは懐から小刀を取り出した。
黒漆の鞘に金色の龍が箔押しされた、一目で高価と分かる品だった。木製の柄は、長い歴史を感じさせる深い色合いをしていた。リュウが鞘から引き出すと、研ぎ澄まされた銀色の刀身が闇の中で光った。
侑は知らず構えていた。
ニューヨークで見た、呪われたナイフが脳裏を掠める。達人は一太刀で致命傷を与える。一瞬の油断が取り返しの付かない事態になることを痛い程に知っている。
どんな嵐の中にあっても、慌てふためいたり、逃げ惑ったりしていては大切なものは守れない。抗い難い暴風雨の中であっても、たった一人でも背筋を伸ばしていられなければ価値が無い。
侑の警戒を横目に見て、リュウが笑った。
「貴方をサムライと呼ぶ理由が、よく分かりました」
そんなことを言って、リュウは掌を薄く切った。
真っ赤な血液が滴となって金の杯に落下する。リュウは止血もせずに短刀を回すと、湊に差し出した。
湊が見様見真似で掌を切ると、同じように杯に血を落とした。青龍会総帥、エンジェル・リードのボス。二人の血が入ったジュースが分けられる。リュウと湊は血塗れの手で金の杯を掲げた。
「不求同年同月同日生、但愿同年同月同日死」
生まれた日は違えども、死す時は同じ日同じ時を願わん。
三国志、桃園の誓い。劉備、関羽、張飛の義兄弟の誓いをなぞって二人が杯を交わす。
人類が宇宙へ進出し、月面着陸を果たした時、きっとこんな気持ちだったのだろう。遥か天空に輝く月に手が届いた瞬間、地球の青さを知った時、きっと人は其処に可能性の光を見た。
湊とリュウは一気に杯を呷ると、同じように顔を顰めた。
「まずい」
英語と中国語でそれぞれ溢して、二人は口元を覆った。
そりゃそうだろうな、と侑は笑った。
葡萄ジュースに血を入れて、美味い筈が無い。しかし、何とも締まりの無い義兄弟の杯である。
二人は杯を足元に落とした。
陶器の割れる音が闇の中に木霊する。湊はポケットからハンカチを取り出すと、二つに破いてリュウに手渡した。
「忙しくなるぞ」
掌にハンカチを巻きながら、湊が言った。
リュウは頷いた。
「裏切り者のリストアップは済んでいるんですよね?」
「ああ。客間の壁に電話番号を書いておいたから、確認してくれ」
「なんで壁に……」
リュウが肩を落とした。
裏切り者の確認をする為に、リュウがリビングを出て行く。張が後を追おうとするのを、侑は引き留めた。
「おい、弁護士さんよ」
張が振り向いた。高そうなブランドスーツは煤だらけで、嫌味なインテリ眼鏡には罅が入っている。いい気味だと、侑は笑った。
「腐った林檎は隣を腐すと言うが、食いもんは腐り掛けが一番美味いらしいぜ」
「悪食ですね」
「雑食なだけさ」
侑が鼻で笑うと、張も口元を緩めた。
向けられた背中は大きく見えた。侑は其処に、かつて自分達を虐げた父を見た気がした。
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