⑽龍の躍動

「エンジェル・リードは神の目を持つと言われている」




 ノートパソコンを開き、湊が言った。

 ディスプレイには相変わらず、意味不明な数字の羅列がびっしりと浮かび上がっている。


 神の目――。

 それは裏社会の界隈でまことしやかに語られる噂の一つだった。エンジェル・リードは正体も目的も不明で、無軌道で無計画で、膨大な資産とコネクションを持つ投資家。


 神の目の本質とは、湊が他人の嘘を百発百中で見抜けることに起因する。だが、決して他人の心が覗ける訳でもなければ、真実が見抜ける訳でも無い。


 噂とは、時に思いもよらない形で作用する。

 人は見たいように見て、信じたいように想像する。界隈で囁かれるエンジェル・リードという投資家は、殆ど虚像に近い。


 湊は悪童のように笑った。




「エンジェル・リードは嘘が分かる。それを利用する」

「何をするんだ?」

「つまりね、エンジェル・リードが嘘だと言えば、例え真実でも嘘になるんだ」




 情報戦は得意分野だと、湊が微笑む。

 ぞくりと、背筋に冷たいものが走った。


 青龍会の裏切り者の告発。

 エンジェル・リードが裏切り者だと言えば、例え真実でなかったとしても、裏切り者になる。他人の嘘が見抜けても、湊自身が真実を語るとは限らない。


 エンジェル・リードには実績がある。

 民衆を騙し、操り、煽動することも容易い。




「パスファインダーが始末され、エンジェル・リードが味方に付き、リュウが対話の道を選ぶと知れば、裏切り者は自ら赦しを乞うだろう」




 ネズミ取りだと、湊が言った。

 組織を裏切った不届き者は、選択を迫られる。赦しを求めて首を垂れるか、自死覚悟で反撃するか。後者を選ぶメリットは無い。




「真実を伝える必要は無い。事実を教えるだけで良い。人は都合の良いように想像して、補完する」




 万里の長城で、侑は襲撃犯を迎え撃った。頭に血が上っていたので、腹癒せのように凄惨な遣り方を選んだ。それも利用するらしい。




「利用出来るものは、死者でも利用する。俺は無駄遣いが嫌いなんだ」




 青龍会の裏切り者は、パスファインダーが始末され、血の粛清が起きたと想像する。エンジェル・リードは裏切り者を見抜けると信じ、次は自分の番が来るのではないかと震えている。そして、青龍会総帥が裏切り者に対して寛大な措置を取ると情報を流す。


 裏切り者が名乗り出れば、後は芋蔓式に腐敗は取り除かれる。青龍会という巨大な組織に歯向かう命知らずは、生かしておく価値も無い。


 ノートパソコンの数字が濁流のように流れて行く。湊は楽しそうに画面を眺めていた。


 青龍会の弱味を握りながら、裏切れない同盟関係を結ぶ。

 日本への武器密売を止め、パスファインダーを始末し、フィクサーに繋がる証拠を手に入れる。


 初めからこうなることが分かっていたみたいに、予定調和のように全てが湊の掌に収まった。それは称賛されるべき偉業なのか、悪辣な策略なのか。


 この子は毒なのか、薬なのか。

 スペードのエースなのか、ジョーカーだったのか。

 侑には分からない。きっとそれは、使い方次第なのだろうと思った。












 10.君の手

 ⑽龍の躍動










 しとしとと、啜り泣くような雨が降っていた。


 空港のロビーは閑散としており、幾つもの欠便が出ていた。

 侑はキャリーバッグを転がしながら、母国へ帰る為のチケットを確認した。出航時刻は迫っている。隣では湊が携帯電話を眺めながら、カラフルなパズルゲームに熱中していた。


 青龍会の内部抗争は、殆ど李嚠亮の一人勝ちだった。

 湊の目論見通りに裏切り者は次々と名乗り出て、許しを乞うた。リュウは対話の中で敵味方を選別した。許された者もいたし、粛清された者もいた。


 李嚠亮がどんな粛清を行ったのかは知らないし、知りたくもない。ただ、内部からの不満が爆発しなかったことを鑑みるに、それは血の気が引く程に残酷で陰惨な罰だったのだと思う。


 青龍会の粛清は続いている。飛行機の欠便も裏切り者を逃亡させない為の一手で、お蔭で侑と湊の帰国も予定より少し遅れてしまった。


 此処は敵陣真っ只中だ。これ以上の危険を冒す必要も、意味も無い。出来ることはやったし、引き際を見誤って命を落とすなんて愚かな真似はしない。


 キャリーバッグを預けると、肩の荷が降りたかのように身軽になった。片手が塞がっていてずっと窮屈だったのだ。




「これで良かったのでしょうか」




 親とはぐれた迷子みたいな心細い声で、張が言った。

 搭乗ゲートが開く。湊がぱっと顔を上げて、此方を見た。濃褐色の瞳はもう搭乗口を見詰めていて、張のことなんて見えていないみたいだった。




「知らねぇ」




 侑は笑って答えた。

 青龍会の未来がどうなるのかは分からない。国家諸共腐り落ちると言うのならば、自分達にはどうしようもない。何でもかんでも救える訳じゃないし、大切なものは指の隙間から零れ落ちる。




「あとは、アンタの仕事だ」




 青龍会の顧問弁護士。

 龍の鱗の一枚。張は目元を緩め、穏やかに笑った。


 疎らな利用客が搭乗ゲートを潜って行く。仕事に行くのか、旅行なのか。旅立つ彼等が背負うものは何なのだろう。どんな人間にも過去があり、重荷がある。だが、目的地がある人間の足取りは迷いなく、潔い。


 湊が携帯電話をポケットに押し込み、早く行こうと急かす。青龍会と同盟を結んだ投資家には見えない。




「ジャイアントキリングが見られる日が待ち遠しいですね」




 挑発的な笑みを浮かべて、張が言った。

 湊は右手を差し出した。




「最前列は空けておくよ」

「楽しみにしています」




 張は握手を交わし、そっと微笑んだ。




「ありがとう」




 それは、片言の日本語だった。

 二人は手を離した。湊は踵を返すと、颯爽と歩き出した。目的地を持った人間の淀みない足取りだった。侑は軽く会釈した。




「じゃあな、張さん。縁があったら、また会おうぜ」




 侑の父親は、暴力を振るう支配的な男だった。

 悪質なカルト宗教に捕まり、自分達を巻き込み、最後は自宅に押し入った殺し屋に呆気なく殺された。だが、最期の瞬間、自分達を守ろうと庇ったことを知っている。


 張り上げられた拳も、獣のような眼差しも、打ち付けるような怒号も覚えている。だけど、自分を抱き上げて頭を撫でた父親の掌も知っている。


 どうしようもない、クソ親父だった。酒を飲んで暴れて、息子を虐げて、労働力として搾取しながらも、追い出そうとはしなかった。


 最期の瞬間、父は何を思っただろう。

 そんなことを、今更、考える。




「……李さんは、貴方を鬼のようだと言いましたが」




 去り際に、張が言った。




「僕には、我が子を守ろうとする親に見えましたよ」




 親なんて、柄じゃない。

 侑は笑った。


 飛行機の中は空席が目立った。侑は最後列の通路側に座った。窓側では湊が子供のように両足を揺らして、離陸の瞬間を待っている。




「サムライって、褒め言葉じゃないの?」




 機嫌を窺うように、湊が恐る恐ると問い掛ける。

 そんなことはすっかり忘れていた。侑は首を捻った。




「褒め言葉かどうかは知らねぇが、お前等が好意的な意味で言ったことは分かったよ」

「日本語って難しいね」




 湊は納得が行かなそうに唸っている。

 何を以てサムライと称したのか分からない。騎士道も武士道も美学とされることが多いが、歴史から鑑みると一概に善とも言い難い。




「侑は言い訳をしないから、格好良いよね」




 濃褐色の瞳に自分の顔が映っていた。

 褒められ慣れていないので、どんな反応をすれば良いのか分からない。湊は真理を手にした科学者みたいに、自信満々に言った。




「やるべきことをやって、結果から目を逸らさない。俺はいつも悪足掻きしてしまうから、侑の潔さは本当に格好良いと思うんだ」




 そんなものは捉え方次第だと、侑は皮肉っぽく思った。

 湊のように頭が回れば、悪足掻きも意味があるだろう。俺に与えられたカードはそういうものじゃなかった。ただ、それだけのこと。


 湊は少しだけ困ったように眉を寄せた。




「万里の長城で襲撃された時、真っ先に狙われるのは俺だと思った。俺がスナイパーなら、弱そうな獲物を狙って隙を作る」




 敵を誘き出す為に、延々と万里の長城を歩いた。あのまま夜になってしまっていたら、俺達は圧倒的に不利になり、作戦は失敗だった。だから、どうにかして敵を引き摺り出したかった。




「侑がいれば、大丈夫だと思った」




 競争だと湊が走り出し、敵に狙われるところまで作戦の内だった。唯一の想定外は、勢い余って昏倒してしまったことだった。




「受け身ってどうやってやるの?」




 湊は腕を組んで首を捻った。頭には包帯が巻かれ、傍目には重傷に見える。

 俺達の最大の誤算は、互いのことをよく分かっていなかったことだった。俺が思うよりも湊は軽くて、湊が思うより俺の力が強かった。


 侑は手を伸ばして、湊の頭を撫でてやった。




「日本に戻ったら、教えてやるよ」




 自分と同じ遣り方が出来るかは分からないが、教えられるものは全て叩き込んでやろう。子供はいつか大人になり、巣立つ日が来る。自分の手が届かない時に、彼が一人でも生きて行けるように必要なことは全て教えてやる。


 弟に出来なかったことを、一つでも多く。




「リュウは日本人が好きじゃなかったんだ」




 離陸直前の飛行機の中で、湊が囁くように言った。




「御先祖様が太平洋戦争の生き証人で、リュウは日本軍への恨み言を聞きながら育った」




 戦争の爪痕は、今も根深く残っている。

 当事者が死んでも、恨み辛みは語り継がれる。その傷は時間ですら癒すことは出来ない。


 侑は日本人だったが、リュウはあからさまな敵意を向けては来なかった。立場や状況がそれを許さなかっただけなのだろうか。




「俺の両親は日本人だった。新歓会で初めて会った時も、ちょっと嫌そうだった」




 湊の両親は日本人だが、本人の国籍はアメリカだ。

 リュウが狭量だと責めることは出来ない。彼はそういう教育を受けて来たのだ。差別も偏見も環境に起因し、一朝一夕では変えられない。


 湊とリュウが大学生として過ごした期間は、たったの一年だった。それでも、彼等は互いを認めていたし、窮地には保身も考えずに助けに行った。




「その頃の俺は馬鹿だったからさ、怒鳴っちゃったんだよね。初めて会った相手の何が分かるんだ、って。そしたら、リュウが大笑いしたんだ。酔っ払ってたからかな」




 怒鳴る湊も、大笑いするリュウも、今では中々お目に掛かれない姿だ。恨み辛みも差別も根深いが、人間って結構単純なんだな、と思った。




「俺が、中国に残して来た弟に見えたんだってさ」




 酷いよねぇ。

 湊は楽しそうに言った。


 それは、もう憎めなかっただろう。どんなに恨めしい敵国の血筋であっても、身内と重ねてしまえば見方も変わる。


 俺はね。

 窓枠に肘を掛けて、湊が言った。




「友達が欲しかったんだ。裏切られても、信じて良かったと思えるような友達が」




 他人の嘘を見抜ける湊が、本当に欲しかったもの。

 それは、手に入ったのだろうか。


 飛行機が離陸すると、機体が揺れた。ニューヨークから日本に戻る時はあんなに長く感じた時間も、湊がいるとあっという間だった。


 龍の巣が遙か下に見える。やがて景色は青空だけになり、機内販売のカートが動き始める。湊は窓の向こうを眺めながら、機嫌良さそうに言った。




「敵を消す方法を思い付いたよ」




 振り向いた湊が、楽しそうに笑っている。

 この子が悪魔の一面を持ち合わせていることを知っている。

 自分は手を汚さずに他人を始末する方法も、敵を社会的に抹殺する術も心得ている。


 侑は嫌な予感を堪えつつ、先を促した。

 湊は小気味良く指を鳴らした。




「敵が友達になった時、それは敵を消し去ったと言えないかな?」




 湊が得意げに言った。

 そういう選択肢が、まだ湊の中にあったことに驚いた。


 侑は笑った。




「それは、良いな」




 綺麗事、理想論。世の中はそんなに甘くない。

 だけど、それが叶う世界であれば良いと思う。理不尽や不条理に世の中を諦めて生きるよりも、ずっとマシだ。


 この世はクソだが、闘う価値がある。

 侑も、そう思う。


 窓の外を見ていた湊が、嬉しそうに声を上げる。

 身を乗り出して窓を覗くと、雲の中に飛行機の影が見えた。その周囲には虹色の光の輪が機体を守るように浮かんでいる。


 ブロッケン現象だと、湊が歌うように言った。

 侑には、機体を包み込むシャボン玉の膜に見えた。




「古代中国では、虹は龍の一種だったんだって」




 綺麗だね、と湊が微笑む。

 侑は同意した。


 虹の麓には財宝が埋まっていると言う。

 龍の巣で手に入れたのは、金銭や芸術的価値では推し量れない無形の財宝だった。俺達が投資した未来は、きっと昨日よりも明るい世界だ。


 雨上がりの空は澄み渡り、何処までも広がっている。

 長い夜が明け、冬が終わり、空に虹が架かる。侑は其処に、あの水墨画に描かれた龍の躍動を見た気がした。

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