⑶息吹
無機質な混凝土の森が何処までも広がっている。
着飾る富裕層の人間と、路地裏の物乞い。彼等は隣人でありながらも、非干渉を暗黙の掟のように隔絶された世界で生きている。
サイレンと共に緊急車両が通り過ぎ、瓦礫と化した街から人が消えて行く。侑は心が削られて行くような虚しさを抱きながら、車窓を眺めていた。
「街が破壊されるのは、辛いね」
後部座席で、湊が呟いた。
独り言だったのかも知れないし、泣き言だったのかも知れない。荒廃した街を見て、侑は自身の幼少期を重ね見た。湊はきっと、爆弾で吹き飛んだ両親の最期を思い出したのだろう。
思い出の場所が消える度に、自分の中から大切なものが零れ落ちて行く感覚がする。
物には想いが残ると、湊は言っていた。
それは、場所も同様だろうか。両親の母国が蹂躙され、家族の思い出の場所が破壊され、胸の中に築いて来た安全地帯が失われて行く。
湊の心の拠り所は、何処にあるのだろう。
誰を頼り、何に縋り、何処を拠り所として生きて行くのか。
その時、リュウが言った。
「この国は発展途上です。貧富の差は拡大し、司法は腐敗し、権力者は豚のように弱者を貪る」
「……俺に、何か出来る?」
掠れるような声で、湊が問い掛ける。
あまり耳にしたことのない、迷子のような細い声だった。けれど、リュウは淡白な口調で答えた。
「何も出来ません。それは僕がやるべきことだ」
「寄りかかっても良いよ」
「結構です」
物理的な意味では無かっただろうな、と侑は思った。
頼って欲しかったんだろう。だが、この李嚠亮という青年は湊以上に成熟した格上の相手だ。青龍会という巨大な組織の看板を背負い、清濁合わせ呑んで生きて来たのだ。
「僕も貴方もやるべきことがある。それを肩代わりすることは誰にも出来ません。そういう生き方を選んだのでしょう?」
リュウは達観したみたいに、まるで何でもないことみたいに言った。侑は遣り切れなくて、窓の向こうに想いを馳せた。
彼等が選んだ道だ。
――だけど、望んだ訳じゃなかっただろう。
誰かが引かなかった分岐器のレバーを引き続ける仕事。
湊の番犬、翔太が言っていた。誰かが引かなかった貧乏籤と選ばなかった汚れ仕事。湊もリュウも、そういう不合理の中で生きている。
「他人と違う生き方は苦しいでしょう。言い訳が出来ませんから」
まるで、自分に言い聞かせるみたいだった。
リュウの黒い瞳は、破壊されて行く街を遠く眺めている。湊が喉の奥で笑った。
「そんなの、みんな同じだ」
俺だけじゃないよ、と湊が微笑む。
誰もがゴールの見えない持久走を続けていて、其処にはロスタイムも休憩も無い。障害物を一つ乗り越えれば次の壁が見えて来て、もう辞めたいと思っても審判は笛を鳴らさない。
リュウは湊に向き合った。
生真面目で、思慮深そうな青年に見えた。
「僕が送ったカードは、上手く使えていますか?」
ラフィティ家の長男坊、ムラト・ラフィティのことだ。彼は青龍会からの紹介でエンジェル・リードを訪ねて来た。
その真意が何なのか、侑には分からない。
厚意で紹介するには、手に余る程の曲者だ。
「ラフィティ家の当主、カミール・ラフィティは軍事に通じるフィクサーの一角です。戦争推進派の人間で、貴方のご両親を死なせた爆弾テロに関与している」
やはり、純粋な厚意ではなかったのだ。
湊はつまらなそうに言った。
「俺の選択に、親の因果は関係無い」
「因果は巡るものです。いつか、それは貴方の前に立ち塞がる」
踏み止まっても大切なものは守れない。踏み込まなければならない時がやって来る。リュウは内緒話を打ち明けるみたいに言った。
「貴方はカードを持っている。大切なのは、使い方です」
「俺には無理だ」
湊が早々に言った。
「過激派の暗殺者に狙われる人生なんて嫌だ。これ以上、敵を増やしたくない」
軽口を叩くみたいに湊は肩を竦めた。だが、リュウは訝しむように眉根を寄せて、静かに問い掛けた。
「どうして自分の手を汚すのですか」
背筋を刃が走り抜けたかのような寒気がした。
並んでいる彼等は大学生くらいの友達に見えたのに、寄生蜂に巣食われた幼虫のように気味が悪い。
この男は、ムラトを駒の一つだと考えている。湊がガキに見える程の高い位置から世界を見下ろして、他者を操り切り捨てることに慣れている。――本物の悪人だ。
「僕がそのカードの使い方を教えてあげましょうか?」
何も感じていないような抑揚の無い声で、リュウが嘯く。
湊が緘黙すると、リュウが一際低い声で凄んだ。
「何の為にラフィティ家の長男を、貴方の所へ送ったと思っているのですか」
使いこなして見せろ。
リュウが突き付けるように言った。
侑は舌打ちを呑み込んだ。
多分、リュウの言っていることは正しい。
それは今後、湊に求められる能力だ。
ムラトのような善人面した悪徳商人は、この世に掃いて捨てる程存在する。そして、群がる蝿を追い払うことは出来ても、深淵の底に蜷局を巻く龍を呑み込むことは出来ない。
李嚠亮は、黒社会の闇そのものだ。
立場が違う、覚悟が違う、背負っているものが違う。
此処は龍の巣だ。
自分達の居場所が昼間に思える程の深い闇が、何処までも広がっている。
侑は横目に運転席の足元を見遣った。
此処で何も言い返せないのならば、どんな手段を使っても湊を連れて帰ろうと思った。青龍会の抱える事情は分からないが、俺達が手を出すべき案件じゃない。このまま暗闇に絡め取られて、自分達が望まぬものに変質させられてしまうのは嫌だった。
湊は、少し考え込むように腕を組んだ。
「……リュウは、将棋を知っている?」
唐突に湊が言った。
闇の中に一番星を見付けたみたいに、湊が微笑む。
「日本の対戦型のボードゲームでね、相手の駒を取って自分のものに出来るんだ。……俺は世界を相手にポーカーをしていたけれど、将棋を一局差すのも面白いと思った」
其処で、リュウが表情を和らげた。それは笑顔と呼ぶにはぎこちなく、不出来な表情だった。リュウは背凭れに体を預けると、吐息を溢すように言った。
「フィクサーも取り込むと?」
「さあ、どうかな……」
湊はそう言って、視線を窓の向こうに遣ってしまった。
侑はブレーキペダルを見遣ってから、同じように窓の向こうを眺めた。此処は敵地で、味方はいない。踏み込めば二度と戻れない深淵が広がっている。
踏み込むべきなのはブレーキか、深淵か。
分からないまま、侑は窓の外を眺めていた。
10.君の手
⑶息吹
伝承に於ける龍とは、水を制御する空想上の生き物である。
その起源はインドのナーガに遡り、宗教を介して伝わり、権威の象徴として描かれるようになった。
黒社会の一大勢力である青龍会は、伝説上の神獣である四神の一つを司る。国家を守り、敵を呑み込む龍こそが青龍会の本質である。
侑達の乗った車は暫く街を走ってから、郊外の田舎へ向かった。追尾を避けていることは明白だった。道は混凝土の街から地平線が覗けるような過疎地に続き、荒れ果てた村や痩せた畑が見えた。其処には、同じ時代を生きているとは思えない格差が確然と示されている。
「僕の家系は陰陽道に通じておりまして」
寂れた寒村に車を停めて、リュウが言った。
文明の利器すら存在しないような村だった。住民の類はおらず、畑も荒れ放題で、車がやって来ても誰も顔を覗かせない。だが、家の中からは確かに人の気配がする。
まるで、遺物だ。
侑が車から降りると、リュウは村の一角を指し示した。
「古代中国の陰陽家が王朝の占術師となり、権力を獲得して行ったとされています。血腥い権力争いが数え切れない程に存在し、血筋を残す為に幾つも分家を築いて来ました。その一つが、僕です」
リュウは分家の子孫らしい。
一般的には本家に比べて立場が低い筈だが、この李嚠亮は青龍会の正当なる後継者として君臨している。――つまり、こんな田舎の片隅に生きる青年に白羽の矢が立つ程に過激な権力闘争が起こり、彼しか生き残らなかったのだ。
陰湿で過激な嫌がらせもあっただろう。白い目を向けられ、後ろ指を差され、幾度と無く命を脅かされながら、それでもリュウは生き残った。湊や侑の過去が霞む程の生臭さである。
それは、湊が敵わない訳だ。
湊がガキに見える程に格上の相手である。
どんな気持ちだっただろうと、思った。
田舎に暮らす青年が、或る日突然、黒社会の中に放り込まれて、彼は覚悟をしただろう。生きる為か、誇りの為か。いずれにせよ、生半可な覚悟では生きていない。
「陰陽道は日本独自の呪術だと思ってたけど」
湊が言った。
背景が寂しいせいか、いつもより存在感が際立って見えた。スナイパーなら真っ先に狙うような獲物である。侑は周囲を警戒しながらその隣に立った。
「日本からの逆輸入なのかも知れませんね」
リュウは然程、興味が無さそうだった。
彼等は元々大学のオカルト研究会の仲間で、湊は脳科学、リュウは言語学を専攻していたらしい。侑にはよく分からないし、毛程も関心が無かった。
「逆輸入と言えば」
村の外れにある
「湊が以前送ってくれた水墨画も、逆輸入品でしたよ」
侑には何のことか分からなかった。
薄暗い家は隙間風が吹き込み、鳥肌が立つくらい寒い。リュウは仄暗い闇の中を歩きながら、部屋の隅の階段を下った。
土で囲まれた狭い階段は、地底に続いているみたいに長い。辺りに湿気が満ちて、吐く息が結露してしまいそうだった。リュウの後ろに張、湊と続き、侑は殿を歩いた。足音が壁に反響して頭の上から降って来る。
「そうなの? 知らなかったな」
湊が子供みたいに言った。
階段の下には鋼鉄で出来た扉があった。リュウがポケットから鍵を取り出して開くと、品の良い香の匂いが漂った。土で固められた階段とは打って変わり、室内は混凝土で囲まれた密室だった。窓も無ければ空も見えない、牢獄のような隠れ家である。
部屋の広さは七畳程で、中央には黒壇のテーブルと椅子が四脚置かれていた。リュウが壁際の燭台に火を入れると、室内は柔らかなオレンジ色に照らし出された。
途端、湊が嬉しそうに言った。
「ほら見て、侑!」
湊が壁を指差した。
其処には一枚の水墨画が、床に向けて垂らされている。
墨だけで描かれているとは思えない程に鮮やかで繊細な作品だった。広陵たる山々を抱くようにして、荘厳な龍が空を駆けている。鱗の一つ一つが息衝いているみたいな躍動感で、それは闇の中で凜然と存在している。
「俺が見付けたんだよ!」
湊が財宝を見付けたみたいに燥いで言った。
「侑が熱を出していた時、美術商から買ったんだ!」
思っていたより最近のことだった。
侑がインフルエンザに罹って寝込んでいた時、湊が商談の場に出ずっぱりだった。殺し屋集団が襲来したこともあったが、成果はあったらしい。
侑はまじまじと水墨画を眺めた。水墨画の端は破れており、作者名は分からない。美術商も破損していることから値を下げて、殆どただ同然で湊に譲ったのだと言う。
湊の感性はゴミだと、航がよく言っていた。
だが、それはゴミでは見付けられないような美しい作品である。
「すごいな……」
率直な感想だった。
衆目を惹くような華美な作品ではないが、一枚の水墨画に込められた作者の魂が感じ取れるようだった。色付く秋の山と突き抜けるような蒼穹と、青い龍が見える。
側で見ると、その繊細な筆遣いは更に鮮明に感じられた。筆の毛先一本、墨の掠れさえ美しい。感嘆の息が漏れた。細胞の一つ一つが蘇るような感動が胸に響く。
湊は水墨画の龍を指差して、嬉しそうに言った。
「このドラゴンがね、リュウに似てたんだ!」
「えっ?」
そんな理由なのか?
侑は少し驚いた。作品の出来や作者の技巧ではなく、単純に友人に似ていただけだったらしい。確かに、生命感の溢れる自然の中を泳ぐ龍は、何処か孤独で、気高い李嚠亮に見えなくもない。
リュウが笑った。
「変な人でしょう?」
リュウが言うには、この作品は元々中国で製作され、日本に輸入されたものらしい。端の方が破れていて作者名は分からなかったが、調べてみると高名な作品だった。瓢箪から駒どころか、ダイヤモンドが転げ落ちたかのような高額な芸術品である。
残念ながら、湊はその方面の知識に明るくなかったので、日頃の感謝を込めてただで贈ってしまったらしい。
後悔も動揺もせず、湊は得意げに腕を組み、まるで一端の鑑定士みたいに唸った。
「びっくりした時のリュウは、よくこういう顔するんだ」
侑には、描かれた龍が孤独に見えた。
だけど、湊には違ったのだろう。濃褐色の瞳はオレンジ色の灯火に照らされ、水墨画を眺めている。その瞳の中で、孤高な龍の息吹が見える。
こいつの眼には、世界がどんな風に見えているんだろうな。
ゴミ捨て場か、宝の山か。
宝石のように輝く瞳を見詰め、侑はそんなことを思った。
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