⑵竜吟虎嘯
繁華街の大通りを外れて、裏道に入ると別世界だった。
生きているのか死んでいるのかも分からないような浮浪者が横たわり、何処からか腐臭が漂う。貧富の差が酷いことは知っていたが、まさか目に見える形で広がっているとは思わなかった。
嫌な記憶が脳裏を過ぎる。
幼い頃、自分もそうだった。
首都郊外の田舎で、閉鎖的な街で、暴力と圧政が罷り通るような最低な故郷だった。母親は弟を産んで亡くなり、父親は変わってしまった。
浴びるように酒を呑み、アルコールが切れると暴力を振るった。侑は幼い弟を守りながら、学校も通わず、生活費と酒代の為に毎日働いた。そんな父が新興宗教に嵌ったのは、10歳くらいのことだったと思う。正直、覚えていない。
見かけばかり立派な建物に連れて行かれて、意味不明の教義を語られ、ブラックと呼ばれる違法薬物の人体実験を受けた。それは脳を破壊する悪魔の薬だった。
薬物の危険性に気付いた父は、脱退を決めた。その新興宗教―― SLCは、悪質なカルトだった。奴等は殺し屋を送り込み、父は殺された。侑の目の前の出来事だった。
良い気味だと、思った。
俺達を虐めた罰が当たったんだと。
侑と弟は施設送りになった。
当時の児童施設は格差が凄まじく、病院のように清潔な場所もあれば、牢獄のような場所もあった。侑が送られたのは比較的、マシな施設だった。
此処なら、安心して任せられると思った。
侑は自分達に投与された薬物の危険性を知っていた。だから、施設送りになったその日の夜に、弟を置いて飛び出した。弟を助けたかった。
生き残る為には、何でもやった。
どんな汚れ仕事も請け負った。それで誰に憎まれ恨まれ、自分の両手が血に染まり、二度と弟に会えなくても構わなかった。
弟しか、いなかった。
生きていて欲しかった。幸せでいて欲しかった。
自分のことなんかさっさと忘れて、平和な世界で笑っていてくれたら、それだけで良かった。
その弟が、自分を追い掛けて裏社会に来てしまった時の絶望は、まるで地獄の釜に叩き落とされたかのようだった。
弟を守りたくて遠去けて、突き放して背中を向けて、自分を呼ぶ声に応えてやらなかった。
あの時、振り返っていたら。立ち止まって応えていたら。
新はまだ、生きていたのか。――なんて、安い感傷だ。
「侑、早く行こう」
湊が、手を引いた。
辺りには社会の負け犬が、這いつくばるようにして転がっている。金銭を乞う者もいるし、痩せ細った子供もいた。伽藍堂の瞳が鏡のように自分達を映す。
悲しいけれど、俺達には彼等を救うことは出来ない。
その場凌ぎの野良猫に餌をやっても、明日は保健所が駆除するだろう。未来のないものに投資する程、自分達には余裕が無い。
湊は真っ直ぐ前だけを見据えて、まるで辺りから目を逸らすみたいにして歩いて行く。同情で彼等が救えるならば、幾らでも。俺達が差し出した手を掴んで、それで立ち上がって歩き出してくれるなら構わない。だけど、この国の社会構造そのものが許さない。
侑は黙って後を追った。
幼い頃の記憶に蓋をするように、ただ足を動かした。
10.君の手
⑵
裏通りを抜けた先にあったのは、硝子張りのイタリア料理店だった。チェーン店のような親しみ易さがありながら、店内にはジャズピアノの音色が微かに聞こえ、とろりとした眠気が満ちている。
注文が入ると、ギャルソンの店員が早足に歩き出して活気を帯びる。湊がカウンターベルを鳴らすと、魚のような顔をした青年がレジに立った。
待ち合わせをしているのだと、湊は英語で言った。
青年は困惑したような顔付きだった。言語が違うと不便だ。その時、店の奥から声がした。
「こっちです、湊」
それは、英語だった。
個性を押し殺したような男の声は、店内の雑音を割り開くように耳に届いた。店内の角、丁度通りから死角になるテーブル席に若い男が座っている。
黒いジャケットに黒いシャツを着たその男は、一見すると大学生のようにも見えた。艶のある黒髪を頭蓋骨の形に軽く撫で付け、口元には微かな笑みが浮かんでいる。
「リュウ!」
湊が子犬のように駆けて行く。
リュウと呼ばれた青年が腰を上げ、湊がハグしようと腕を伸ばす。――その時だった。
肌の上に霜が降りるような嫌な感覚がして、侑はリノリウムの床を蹴っていた。リュウが身を翻し、湊が伏せる。そのコンマ数秒後、硝子の砕け散る音が店内を蹂躙した。
悲鳴が鼓膜を震わせる。侑はキャリーバッグを湊の元に投げ、懐に手を伸ばした。背後には湊とリュウ。壁には銃痕。破裂音が轟いて、硝煙の向こうに黒塗りの車が見えた。
乾いた発砲音がする。トカレフだ。
侑は盾代わりにテーブルを蹴り上げた。流れ弾が客や店員を撃ち殺し、血飛沫が霧のように舞った。
「……会いたかったよ、リュウ」
銃弾の嵐の中で、湊がそんなことを言った。
テーブルが凄まじい勢いで削られて行く。長くは持たない。襲撃者を始末することは出来るが、相手が何者なのか分からないのは後々困る。
「あれは敵です」
リュウの声は、低く落ち着いている。
まるで、この襲撃を予期していたかのように。
湊が困惑した声で問い掛ける。
「誰の敵なんだ」
「僕です」
「それなら、俺達は逃げても良いってことだよな?」
テーブルの影に身を潜めながら、侑は訊ねた。
リュウは淡白な口調で肯定した。
「ええ、その通りです。僕が始末を付ける」
「リュウを置いて行けるもんか!」
湊が食って掛かる。
馬鹿なのか、お前は。
侑は呆れた。リュウと言う男がどんな人間なのか知らないが、この場所で一番生存率が低いのは湊だ。恐らく、リュウはこの場面を切り抜ける術がある。侑は掴んでいた銃を離し、懐の中でナイフのグリップを握った。
「……湊が置いて行かねぇって言うなら、俺も見殺しにする訳にはいかねぇ」
苦渋を噛み締めて言うと、リュウが息を吐くようにして笑った。
「では、早速ですが、力を貸して下さい。僕が始末するので、貴方は隙を作って下さい」
「……その隙に俺達が逃げるのも、有りなんだよな?」
「ええ、勿論」
侑は鼻を鳴らした。大した度胸だ。
防衛戦に徹して、手榴弾を投げ込まれたことがある。
侑は湊を見遣った。やっぱり、連れて来るべきじゃなかった。
「俺は湊しか守らねぇからな」
「どうぞ」
掴み所が無く、愛嬌も無い。
侑は舌を打ち、ナイフを取り出した。振り返ると、テーブルの下で湊がサムズアップしている。
深呼吸をして、身体の末端まで神経を張り巡らせる。敵の人数、銃弾の軌道。遮蔽物とタイミング。
俺が死ぬ時は、湊も死ぬ時だ。視界と聴覚が明瞭になり、目の前の事象がスローモーションに感じられた。侑は瓦礫になったテーブルを蹴り飛ばし、銃弾の前に躍り出た。
無数の銃口が火を噴く。
両足を踏み締め、ナイフを振り上げた。
金属音が村雨のように響き渡る。ナイフの切っ先で弾いた銃弾が壁を穿ち、火薬の臭いが鼻を突く。
どん、と。
マズルフラッシュの閃光と腹の底に響くような重い音がした。背後から放たれた銃弾が黒塗りの車に穴を開けた。それは装甲、ガソリンタンクを貫いた。途端、爆音が辺り一帯に木霊する。
侑は湊とキャリーバッグを引っ掴み、走り出した。
横目に確認すると、リュウも付いて来ている。右手に下げられているのはメタリックな銀色の大型拳銃だった。
思わず、口笛を鳴らした。
リュウの手にある銃は、ハンドガン最強の威力を持つと言われるデザートイーグルである。街中で使うような代物ではないし、侑も実物を見るのは初めてだった。
荒れ果てパニックに陥った店内で、脇に抱えた湊が行き先をナビゲーションする。互いにマスクが無くなってしまっていた。
「下調べもせずに敵地に乗り込む程、無謀じゃない」
湊が微笑んだ。
生き残ることに関して、湊の右に出る者はいない。侑は湊を抱えたまま、警報の鳴り響く街を走った。下ろしたら、その隙に見失ってしまいそうで怖かった。
キャリーバッグが、邪魔だ。
ナビゲーションに従って通りに出ると、黒塗りの車が滑り込んだ。パワーウィンドウがするすると降りる。侑はキャリーバッグを投げ捨てて、ナイフを突き付けていた。
「その人は敵ではありません!」
リュウが怒鳴った。だが、侑は退かなかった。
誰が味方で、何処に敵がいるのか、侑には判断出来ない。此処は母国ではないし、彼等の事情も知らない。味方と嘯いた奴が次の瞬間に銃口を向けて来るなんて、日常茶飯事だった。
ナイフを突き付けた先で、細身のインテリ風の男が顎を引く。侑はその首筋に刃を突き付けたまま、問い掛けた。
「お前は俺達の敵か?」
「味方です!」
動揺を押さえ付けた声で、男が言った。
フレームの無い眼鏡の奥で、黒い瞳に怯えの色が見える。脇に抱えた湊が、場違いな程に冷静な声で言った。
「その人は嘘を吐いてない」
緊張と焦燥が鎮まって行く。
侑はナイフを向けたまま、湊を下ろした。
リュウは、デザートイーグルをジャケットの下のホルダーに戻した。墨のような黒い瞳を向けて、リュウが紹介する。
「その人は
聞き覚えのある名前だと、思った。
侑が記憶を呼び起こす前に、湊が会釈した。
「先日はお世話になりました」
「……何のことだ」
「航が警察に違法勾留された時、手を回してもらったんだ」
絡まった糸玉が解けるように、侑は思い出した。
侑がニューヨークにいた時、殺人事件の嫌疑を掛けられて連行されそうになった。その時に湊が電話を掛けて来て、彼の名前を出したのだ。青龍会の顧問弁護士、悪名高き
別の事件で航が違法勾留された時、コネクションを動員したと聞いていたが、まさかそれもこの男なのか。
狐に似た、狡賢そうな男である。もっと年老いた悪辣な男だと思っていたが、多分、自分と同じくらいの年代だ。
侑がナイフを下げると、張はほっと息を吐いた。
後部座席の扉が開いて、先に乗り込んだリュウが促す。逃げて来た方向から微かに銃声が聞こえた。侑は舌打ちを堪えて、車の中に湊とキャリーバッグを押し込んだ。そのまま助手席に回り、乗車すると同時に車が走り出した。
車窓の景色は勢いよく後ろに飛んで行く。
開発の進んだ都市部と、その日の生活も儘ならない貧困層。武警が往来を闊歩し、モヤシみたいに脆弱な子供が学校に吸い込まれて行く。貧富と老若、善悪が複雑に絡み合い、奇跡的に歯車が回っている。何か小さなきっかけで、それは崩壊してしまいそうに見えた。
「顔が見られて、安心しました」
抑揚のない口調で、リュウが言った。
侑がフロントミラーを見遣ると、湊は律儀にシートベルトを装着しようとしていた。
「俺の台詞さ」
「そうですか?」
二人は、大学時代の友人だと聞いている。
米国最高峰の大学で、優秀な頭脳を使って、超心理学という意味不明の学問を研究していたらしい。
侑にはちょっと理解出来ないが、彼等の才能は表舞台で花開き、輝かしく表彰されるべきものだった。それがこんな地獄の底で再会することになるなんて、皮肉以外の何者でもない。
侑が黙っていたら、フロントミラー越しにリュウと目が合った。黒曜石のような瞳の奥に、火花に似た光が見える。何処にでもいそうな若者に見えるのに、常人にはない覚悟が感じ取れた。
「貴方の話は聞いています」
「良い話だといいんだが」
「湊と航は、貴方のことをサムライと呼んでいましたよ」
「はあ?」
振り返って睨むと、湊がぎょっとした顔で睨み返して来た。顔のパーツを中央に寄せようとしているみたいで、全く迫力が無い。
「サムライって褒め言葉だよね?」
「ええ、そうです」
湊が訊くと、リュウが肯定した。
サムライが褒め言葉かどうかは分からないが、彼等なりに自分を評価して言ったことは分かった。
「向き合ってご挨拶をするべきなのですが、こんな状況なのでお許し下さい。僕は
振り返らなくても、其処にいるのがとんでもない重鎮であると分かる。穏やかな物言いに反して、巨大な氷塊と対峙しているかのような貫禄が、プレッシャーとして迸る。
今まで会って来た人間の中で、一番の大物だ。
湊の最大のコネクションであり、厄介な隣人である。
「貴方とは一度お会いしましたね。あの時とは立場が違うようなので、改めてご挨拶をさせていただきます。僕は、湊の味方です」
断言するような強い口調で、リュウが言った。
フロントミラーの向こうの湊を見遣る。濃褐色の瞳が真っ直ぐに見詰め返して来て、その言葉には嘘偽りが無いと訴え掛けているみたいだった。
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