10.君の手

⑴修羅の巷

 The trouble is not in dying for a friend, but in finding a friend worth dying for.

(難しいのは友の為に死ぬことではない。命を懸けるだけの価値がある友を見付けることが難しいのだ)


 Mark Twain









「中国に行くよ」




 平日の昼下がり、寝室からキャリーバッグを引っ張り出した湊がそんなことを言った。リビングで雑誌を読んでいた侑は、脈絡の無い話に目を丸めた。




「何しに行くんだ?」




 海外に行くこと自体は別に構わないが、行先に懸念がある。

 今の中国は、黒社会の総本山である青龍会が取り仕切る犯罪のシンジケートで、紛争地並みに治安が悪い。




「友達に会いに行くんだ」




 湊はリビングにキャリーバッグを広げた。鰯の開きに似ている。衣類と歯ブラシ、予備のスニーカー。荷物が少ないので、短期滞在なのだと分かる。


 侑は雑誌を閉じた。

 中国にいる湊の友達となると、青龍会の若き首領、李嚠亮リ リュウリョウだろう。彼等は日本に武器密輸を行い、治安と経済を悪化させて取り込もうとしている。


 湊はその友達と、とんでもない約束をしている。

 武器密輸を止める代わりに、パスファインダーを捕まえると言うのだ。湊の母国はアメリカだし、侑はこの国に愛着も無い。それでも、湊は両親の母国だと言う理由だけで貧乏籤を引いた。


 パスファインダーを捕まえられていない状況で、会いに行く理由が分からない。侑は棚から着替えと旅行用の歯ブラシを取り出し、キャリーバッグに詰めた。




「なんで会いに行くんだ?」

「友達に会うのに理由が要るの?」




 そりゃ、要るだろう。

 相手は一般人じゃない。侑は中国で仕事をしたことがあるが、街中でも平然と犯罪行為が罷り通るような荒廃した世界だった。


 湊を連れて行くのは、嫌だなと思った。

 こいつは年中部屋に篭って、事務作業でもしていれば良い。侑がそう思うのは、先日、桜丘驟雨という剣道家に湊がボコボコにされたからだ。


 裏社会の犯罪者が相手なら遅れを取らないのに、相手が一般人だと手が出せないのだ。堅気の人間が善意を笠に着て、有無を言わさず暴力で訴え掛けるなんて、想定していなかった。しかも、侑がニューヨークに行っている間、湊は桜丘にリンチされていたのに、電話口では弱音の一つも吐かなかった。


 あの日、キッチンで蹲る湊の背中が震えていた。

 侑は奥歯が砕けそうなくらい悔しかったし、叫びたい程に切なかった。湊はいつも笑っているし、一人で立ち直るけれど、何も感じない砂漠のように乾いた人間ではなかった。


 二人分の荷物を詰めたら、キャリーバッグの中はそこそこいっぱいになった。侑は溜息を呑み込み、一応、忠告した。




「向こうは、かなり危険だぞ。お前の常識は通用しない」

「慎重に行動する。侑の側から離れないよ」

「……それなら良い」




 意思は曲げないが、妥協は出来るらしい。

 詐欺師みたいに口の回る男だが、それなりに義理固く、果たせない約束はしない。側にいるなら、守ってやれる。


 湊は太陽みたいに明るく笑った。侑は自分の体から水分が抜けて行くような感覚になった。デトックスになるなら良いけれど。




「リュウが、力を貸して欲しいって言うんだ」




 パスポートを確認しながら、湊が言った。

 二人分のパスポートは、勿論、偽造品である。近頃は検閲も厳しくなって来たので、湊の用意したパスポートが使える国は限られる。


 偽造パスポートで入国出来るのは、コネクションのある日本とニューヨーク。それから、黒社会の牛耳る中国である。


 青龍会には、借りがある。

 トラブルに巻き込まれることは予想されるが、返せるなら早い内に返すべきだ。


 侑はキャリーバッグを閉じて、棚からスーツを出した。黒社会の総本山に出向くのに、外見で舐められる訳にはいかない。




「いつ行くんだ?」

「今夜」

「今夜?!」




 侑は壁に掛けたホワイトボードを見遣った。

 商談やら会合やら色々入っている。湊は何でもない顔で、全部キャンセルしたと言った。ムラトに利用されてから、行動に迷いが無く、フットワークが軽くなった。




「リュウは俺の友達で、恩人だ。応える理由がある」




 取引とか立場とか、全く関係無かったらしい。

 侑は笑った。先日も恩義の為に酷い目に遭ったばかりなのに、何も変わらない。


 しかし、彼はこれで良い。

 羅針盤や地図を見ながら海路を探すより、暗く冷たい海底の沈没船で宝探しするより、大海原を風に任せて自由に航海する方が、ずっと楽しそうに見えた。













 10.君の手

 ⑴修羅のちまた













 世界最大の人口を抱える開発途上国と呼ばれていたのが、中呉共和国――通称、中国である。日本とは古代より貿易や外交を通して関わって来たが、近年では中国の急激な治安悪化問題により、観光客は激減している。


 増加を続けていた出生率は少しずつ減少しており、将来的に人口維持することは出来なくなるだろう。その背景には司法行政の腐敗、深刻な環境問題、地域による貧富の格差などがある。死体に生み付けられた蠅の卵のように次々と問題が孵化し、やがては国家そのものを腐敗させ、食い荒らすだろう。


 この国は権力者の傀儡と化している。また、その後ろで糸を引いているのは黒社会の一大勢力、青龍会だ。

 青龍会は、武器や麻薬の密売、賭博や人身売買、詐欺に恐喝、誘拐、マネーロンダリングに嘱託殺人など、枚挙に暇が無い程の犯罪活動で資金を集める。日本のヤクザとは比べものにならない程の闇の深淵が其処には広がっていた。


 昔、中国で何度か仕事をしたが、市民を武器で脅したり、街中で発砲したりと兎に角やりたい放題だった。司法は汚職と賄賂で腐敗して、機能していない。金だけが物を言う下品で野蛮な無法地帯。それが、侑の見た中国の現状である。


 空港に降り立った時、何処か生温い空気が頬を撫でた。空港は貿易の玄関だ。見た目は清潔にされているが、清掃員はまるで地方の村から出稼ぎに来たような子供で、己の身を清めることも儘ならない。


 明らかに富裕層と言った風態の旅行客が、仰々しく接待されながら道を行く。土産物売り場には、国内の名産品や名物、あとは有名なキャラクターやブランドのコピー商品が堂々と陳列していた。


 侑は荷物を受け取り、湊の手を引いて歩いた。

 一度でも逸れたらお終いだ。その時、この子は黒社会の闇に飲み込まれ、貪られ、二度と生きては戻れない。


 侑の警戒や緊張など露知らず、湊は足を止めて売店を指差した。




「土産は、帰りにしろ」




 侑が言うと、湊は頷いた。

 外見が目立つ上、裏社会では知られている。手を離してしまった時にこの子がどんな目に遭うのかと思うと、侑は心臓が凍るようだった。


 湊は名残惜しそうに売店を見ていた。

 物欲の無い湊にしては珍しい反応だ。侑が目を遣ると、店先の籠の中に目付きの悪い猫のぬいぐるみがあった。




「航に似てる」




 湊の言葉に、侑は笑った。

 掌程度の三毛猫のぬいぐるみだった。睨むような目付きで可愛さは欠片も無いが、何処か憎めない様は確かに航に似ている。


 湊は、出先で弟に似ているものを見付けると買ってやりたくなるらしい。気持ちは分からなくもないが、売店には顔が映る位置に防犯カメラが設置されていた。侑は湊の手を引いて、キャリーバッグを引き摺って歩いた。


 空港を出る前に、二人でマスクをした。変装の為ではなく、深刻な空気汚染の為である。空気中には大量の有害物質が漂っている。大人用のマスクを付けた湊は顔の殆どが隠れていたので、少し嫌そうな表情をしていた。


 空は快晴で風一つ吹いていないのに、まるで砂塵の中にいるみたいだった。マスクを付けている者もいるが、殆どの者は防御せず、何かに急き立てられるような早足で進んで行く。


 先方から送られて来た地図を見ながら、湊がタクシー乗り場を指差した。侑は少し迷った。以前、湊が一人でタクシーに乗った時、銃撃されたことがあった。密室に閉じ込められた時に、自分一人なら如何とでもなるけれど、湊を守り切れるか不安だった。




「……バスは無いのか?」




 侑が言うと、湊は携帯電話で経路を調べた。

 乗り換えは必要だがバスが通っているらしいので、二人で乗り場に向かった。第三世界を思わせる人の塊がバス乗り場にあって、誰も列に並んでいない。人の塊を眺めながら、侑は途方に暮れた。




「順番を待つのは、世界共通のルールだと思ってたよ」




 湊は篭った声で言った。

 やがてバスがやって来ると、人々は押し合うようにして乗車して行った。次のバスを待っても同じことが起こるのは分かり切っていたので、二人で如何にか乗り込んだ。


 車内は凄まじい人口密度で、窓が人熱で白く染まっていた。侑は窓側に湊を追い遣って、壁代わりに間に立った。バスが発進すると車内は砂利道を走っているみたいに揺れた。公共機関とは思えない程に荒い運転だった。


 停留所で乗客が動く時には、余りの密度に目眩がした。背中でナイフを向けられても、身動き出来ない。人の塊が重力のように伸し掛かる。

 侑は窓枠に両腕を付いて体を支えた。侑が唇を噛んで堪えていると、湊が心配そうに見上げて来る。応える余裕が無かったので軽く頭突きしてやった。


 これから黒社会のボスに会うのに、そんな腑抜けた顔では自分が困る。嘗められたら終わりだ。

 意図が伝わったのかは分からないが、湊は少しだけ笑ったようだった。


 目的地に到着するまで、バスを乗り換えて四時間も掛かった。こんなに最悪なドライブは、ハヤブサに空港まで送られた時以来だ。長時間同じ姿勢でいたせいで、関節が固まっている。侑は軽く柔軟をした。


 到着した先は、首都圏にある繁華街だった。日本に比べて建物は色鮮やかで、文化の違いを見せられているようだった。

 昼間は何処か寂れた空気が漂い、僅かばかり観光客が見掛けられる。観光客向けの中華料理店から香辛料と芳ばしい匂いがした。




「お腹空いてる?」




 マスク越しのくぐもった声で、湊が尋ねた。

 侑は首を振った。例え二、三日水だけで過ごしていたとしても、こんな状況では食欲も湧かないだろう。




「そんなことより、スーツに皺寄ってないか?」




 侑は背中を指した。

 まさか、四時間も満員のバスに乗ることになるとは思わなかったのだ。湊が後ろに回り込み、埃を払うように叩いた。




「侑はどんな時でも格好良いから大丈夫だよ」




 湊がそう言って意味深に微笑む。侑は目を細め、通りの端に寄った。ジャケットを脱ぐと確かに、まるで袈裟懸けに斬られたような深い皺があった。




「最悪だな……」




 溜息を吐くと、湊がキャリーバッグの中からコンパクトスチームアイロンを取り出した。貸して、と言うので任せた。

 湊はジャケットに丁寧にスチームを当てながら、皺を取ってくれた。


 ジャケットは、クリーニングから返って来たばかりのような状態になっていた。侑が短く礼を言うと、湊が英語で答えた。




「そういえば、言葉は通じるんだよな?」




 ふと思い出して、侑は問い掛けた。

 青龍会のボス、李嚠亮には侑も一度だけ会ったことがある。殺し屋時代、湊に頼まれて荷物運びをしたのだ。その時は日本語を話していたけれど、他の人間はどうなのか分からない。


 湊は肩を竦めた。




「リュウは日本語も英語も話せるよ? 英語が話せるなら、大抵のことは大丈夫さ」

「お前は?」

「ええとね、英語と日本語、ドイツ語とスペイン語なら大丈夫」

「中国語は?」

「Unfortunately」




 湊が残念そうに言った。

 言語の違いは大きなハンデになる。奴等が何を話しているのか分からないのだ。侑はジャケットを羽織り、苦く笑った。


 先のことばかり心配していても仕方が無い。

 侑が荷物を持って歩き出そうとすると、往来に奇妙な緊張が走った。振り向くと、軍服のような制服を纏った二人組の男が巡回していた。


 国家軍事力の一翼を担う武装警察組織、通称――武警。

 テロリストの制圧や暴徒鎮圧など、国家の脅威に対して武力で対抗する司法組織。近年は治安悪化に伴って、過激な行動を起こして国際問題になっている。そんな奴等がどうして観光地の巡回しているのか。


 侑は素知らぬ顔をして、歩き出した。

 此処は完全な敵地である。自分達の常識は通じない。

 目を付けられたら堪らないので、侑は湊の手を引いて人混みに紛れて行った。

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