⑽地上の星
右手はコードを押さえ、左手は柔らかく弦を弾く。
ギターに触れてみて分かったことは、自分の体を自在に動かすには訓練が必要だということだった。
コードを押さえる自分の手が思うより開かなかったり、力が足りなかったりして、イメージした音を出すことが難しい。
ギターを弾き始めたのは、お隣さんのヤクザが譲ってくれたのがきっかけだった。事務所の前で缶コーヒーを飲んでいたら意気投合して、何故かそういう話になった。それから、古本屋で教本を購入して、寝る前に練習した。
楽器を扱うのは、初めてだった。
地味な反復練習は苦にならなかった。慣れるまでに時間が掛かるのは、どんなことも同じだ。夢中で練習していたら夜が明けて、指先が血塗れになっていたこともあった。何かに夢中になると他のことが見えなくなるのは、自覚する悪い癖だった。
暗記は出来るのに、指が上手く動かない。
壁は高い程、燃えて来る。一通りの基礎を学んでから、自分が何の曲も弾けないことに驚いた。目の前に課題があると、目的が無くても走り出してしまう。それも、自分の悪いところだった。
「Twinkle twinkle little star...」
湊が初めに覚えたのは、マザーグースの一曲だった。
誰もが何処かで聞いたことのある懐かしい曲。日本では、きらきら星と呼ばれている。曲自体は同じコードの繰り返しなので、弾きながら歌うのが楽だった。
「How I wonder what you are...」
ギターの音色は、夜の闇に優しく溶けて行く。
湊は事務所の窓辺に腰掛けて、母国の歌を口ずさむ。自分は時々音程を外すらしい。弟や立花には音痴と言われたことがある。湊は楽譜を思い出しながら、丁寧にコードを押さえた。
「Up above the world so high...Like a diamond in the sky...」
夢がある。
大切な人が生きていて、笑っている。
その生活を脅かすものが何も無く、家族と共に食卓を囲み、温かなベッドで明日を夢見て眠る。何でもない日常が続いて行くことを信じて、その期待通りの朝が来る。
家族に不条理の雨が降り注いだ時、神も正義も助けてはくれなかった。だから、湊は正義も悪も神も信じない。そんなものに時間を取られるのは無意味だと思った。
大切な人が笑っていて、その隣に自分がいられたら良いな。
楽しい時には笑って、悲しい時には泣いて、悔しい時には共に怒り、困難の中では一緒に歌を口ずさめるように。
「Twinkle twinkle little star...How I wonder what you are...」
最後はアルペジオで余韻を残す。
――新が生きていたら、一緒に口ずさんでくれただろうか。
「上手いじゃん」
部屋の中から、乾いた拍手が聞こえた。
振り向くと、マグカップを持った侑が微笑んでいた。
湊はギターを下ろした。侑がマグカップを手渡してくれる。飴色の紅茶は蜂蜜の甘さと檸檬の爽やかな香りがした。外気に晒されて指先が冷えていた。紅茶が喉の奥に落ちて、心が解けるような安心感が滲み出す。
「お前は他人の嘘が分かるんだよな。それって、どのくらいなの?」
侑が隣に座って、思い出したみたいに言った。
エメラルドの瞳は灯火のようだった。月に照らされて、通った鼻梁が鮮明に見える。湊は両手でマグカップを包み込みながら、少し考えた。
「他人の嘘は、全部分かる。お世辞とか社交辞令も」
「それは、生き難いだろうな」
「分からない。ずっとそうだったから」
物心付いた頃には、そうだった。
嘘を吐くのは、悪いことだと教わった。だから、嘘を吐く他人はみんな悪い人間だと思っていた。それが善悪の基準だと信じていたし、必要があれば嘘を吐く自分は悪人だと思っていた。
父に言われたことがある。
全ての嘘が悪い訳じゃない、と。
その頃から、湊には善悪がよく分からなくなってしまった。
「あんまり良いものじゃないんだよね?」
湊は問い掛けた。
自分に配られたカードは、社会の中では受け入れ難い、気味の悪いものなんだろう。だから、汚い大人の打算に利用されるし、実験動物みたいに扱われる。このカードを医療に導入出来ないかと試行錯誤した時もあったけれど、悪用のリスクが高いので辞めてしまった。
何処か遠くでクラクションの音がする。繁華街は今日も明るく、賑やかだ。湊は地上の星を眺めた。
侑が答えた。
「分からん」
侑は困ったみたいに笑った。
「俺の弟も、そうだったから」
侑の弟、天神新も湊と同じ体質だった。
湊にとって新は、産まれて初めて会う同じ体質の他人だった。新はそれ程、悲観していなかった。そういうものと割り切っていたと思う。
侑は考え事をするみたいに目を伏せて、此方を見て笑った。
「お前らしく生きていることを、誰も間違いだなんて言えないぜ。お前の人生にケチ付けて良いのは、お前だけだ。だから、せいぜい悩んで、とことん向き合ってやれ」
侑のエメラルドの瞳が優しく細められる。
くしゃりと笑うその顔が、新にそっくりだった。
「答えを出すのは今じゃなくて良いさ」
「……侑は、本当に元殺し屋なんだっけ?」
価値観や常識観念が揺さぶられている気がする。
湊が笑うと、侑も笑った。
9.夜空に光る
⑽地上の星
明瞭学園のイジメ裁判の判決が出たのは、三月中旬のことだった。起訴から裁判までの期間も短いが、判決が出るのも異例の早さだった。世論がどれだけ関心を持っているのかを物語っているようだった。
イジメ加害者――クラスメイトと担任教師には実刑判決、傍観者には執行猶予付きの判決が下りた。つまり、明瞭学園の二年一組には犯罪行為としてのイジメがあったことを、司法が認めたのだ。
兎に角、凄まじい反響があった。
それは未知の病原体が社会の中で伝染して行くように、国境を越えて広がって行った。正義の鉄槌と誇る者もいれば、やり過ぎだと苦言を呈する声もある。賛否両論あるが、ギリギリ追い風だ。エンジェル・リードは静観の姿勢を貫いた。
湊は、霖雨くんに同情した。
弁護人に任命され、証拠を集めるにも時間が無く、敗ければマスコミに好き勝手に叩かれる。圧倒的劣勢で、敗北は予定調和だった。それなのに、まるで霖雨くんが悪者みたいに糾弾される。霖雨くんだって、手段を選ばなければもっと闘えた。だけど、それをしなかったのは、霖雨くんが良識のある大人だったからだ。
民衆は仲間を作ると傲慢になり、ドブに落ちる者へ石を投げても良いと思っている。真偽を確かめることもせず、誰かの口車に乗って、攻撃しても良い生贄を探す。
でも、霖雨くんは折れない。
無礼なマスコミの無粋な質問にも誠実に対応し、向かい風の中を肩で風を切りながら歩いて行く。本当に立派だと思ったし、尊敬もした。
被告人は控訴している。
霖雨くんは折れないのだろう。彼が折れなければ、いつか判決は引っ繰り返るかも知れない。其処には膨大な労力と時間、金銭が必要である。この世には飲まなければならない苦渋があり、曲がらなければ生きられない現実がある。
被告人に実刑判決が下りてから数日後、霖雨くんが事務所に来た。霖雨くんは段ボール箱を抱えていた。侑が警戒するのを、湊が制した。
戦意も敵意も無かった。霖雨くんは、初めて会った時からそうだった。無抵抗で丸腰で、けれど胸の中には一本の槍がある。
「お前等に見せてやろうと思ってさ」
霖雨くんはそう言って、箱を開けた。
中には沢山の手紙が入っていた。
「検察官と知り合いでな、借りて来た。お前等がやった結果だ」
湊は黙った。
自分がやったことには後悔していないし、どんな罵詈雑言も受け止めるつもりだった。其処に剃刀が入っていても、人格攻撃のような悪意があっても構わない。結果から目を逸らしても、何も変わりはしない。
湊が封を開くより先に、侑が手を出した。
無地の封筒には、差出人の名前が無い。誰かに開けられた形跡があった。湊は侑が開くのを隣から読んだ。
――僕はイジメを受けていました。
拙い文字と言葉で、それは何かを懸命に伝えようとしている。
――今回の裁判を通して、僕は勇気を貰いました。
湊は、目を疑った。
慌てて他の封筒を開けた。匿名のものもあったし、記名されているものもあった。けれど、その手紙は全て、判決に救われたというイジメ被害者達の生の声だった。
――負けてはいけないと思いました。
――諦めないことの大切さを知りました。
――悪事はいつか裁かれるのだと実感しました。
――被害者と遺族の方の冥福を祈ります。
まるで、消えた蝋燭に再び火が灯されたみたいに。怪物の腹を食い破って、希望の光が顔を出したみたいに。
「……お前等の本当の目的は、こっちだったんだろうって思った」
加害者が許されて、被害者が泣き寝入りをしたなんて前例は作ってはいけない。司法が裁かなければいけない。加害者の未来の為に、被害者の苦しみが無かったことになるなんて許してはならない。――そんな正論が、当たり前みたいに受け入れられる事実が、湊には眩しかった。
「エンジェル・リードの介入は、公にはならなかった。勝者のお前等が、どうして表舞台に立たない?」
霖雨くんの声は染み渡るように響いた。
湊は手紙を丁寧に畳んだ。隣で侑が、まるで魅入られたように何度も何度も手紙を読み返している。
俺だって、綺麗事を語って、正論だけを信じて、他人を肯定しながら生きて行きたいさ。――そんなことが出来るなら!
だけど、この世はどうしたって理不尽で、不条理に出来ている。誰かが受けなければならない泥があって、悲劇がある。
エンジェル・リードは、傘だ。
雨上がりの空に虹を見付ける為に。
「俺達は正義の味方じゃないからさ」
正義も悪も信じない。何でもかんでも救える訳じゃない。
俺は助けられるものだけを助ける。例え、その為に泥を被ったとしても。
「……今回はこういう結末になった。だけど、もしかしたらそうならなかったかも知れない」
霖雨くんは噛み締めるみたいに言った。
「正義も悪も、くだらないだろうさ。だけどな、そういう大義名分で守られている人々がいる。お前が地獄を選ぶのは勝手だが、真面目に生きてる人が不利益を被るのは、不条理じゃないか」
霖雨くんの言っていることが、分かる。痛いくらいに。
結果に驕ってはいけない。局地的な勝利を結果とは思わない。
湊は他人に期待をしていない。――だけど、善性は信じている。
十の真犯人を罰するより、無辜の一人を罰してはならない。
刑事裁判の基本理念。加害者は裁かれるべき罪人となった。けれど、法とは治安維持の為の制度で、復讐の為の道具じゃない。
判決はピリオドじゃない。
湊が信じる人の善性は、これからだ。
霖雨くんは、叩き付けるような強い口調で言った。
「この不平等な世界にも、差し伸べられる正義はある」
湊は笑った。
正義と言うものは美しいが、難しい。だけど、霖雨くんの中にある灯火が尊いものであることは分かる。
「俺は正義も悪もくだらないと思っていたけど、霖雨くんみたいな人がいるのなら捨てたものじゃないのかもね」
それはそれとして、手は貸さないけど。
湊が言うと、霖雨くんは苦笑した。
どんなに深い絶望の中にも、希望の光は必ず差し込む。
父が言っていた。
それがどんなに尊く美しいものなのか、湊はもう知っている。
侑が手紙を読み終えると、霖雨くんは段ボール箱を抱えた。相変わらず生地の薄い安そうなスーツを着ていて、裾が解れている。いつか何かの機会に、良いスーツを贈ろう。彼はそういうものを好まないだろうけれど。
帰って行く霖雨くんを、二人で見送った。
霖雨くんは去り際に、力強く言った。
「誇れ、湊。お前の両親は立派だったぞ」
湊は頷いた。
俺の両親の死は、無意味でも無価値でもなかった。
「霖雨くんもね」
玄関の扉が閉じる。
侑が手を伸ばして、鍵をした。
「ハーブティーを淹れるよ」
「楽しみだな」
侑が微笑んだ。
給湯室に向かう途中、湊はきらきら星を口ずさんだ。追い掛けるみたいに侑の声が重なる。湊は電気ケトルのスイッチを入れ、ハーブを仕舞った棚へ手を伸ばした。
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