⑼蟻地獄
「侑は勇敢だね」
バイクのヘルメットを抱えて、湊は言った。
侑は駐車場からバイクを引っ張り出して、向きを直しているところだった。道場からは老若男女の活気溢れる声が聞こえた。小さな子供達が勇んで駆けて行き、その後ろで困った顔をした母親が追い掛ける。
朱鳥無念流には歴史があり、桜丘自身、地域から信頼されている男なのだと分かる。手の付けられない悪ガキを相手にして、頭でっかちな大人を諭して、桜丘は道場を守る為に骨を砕いて来た。
侑が来てくれるまで、湊には悪の巣窟にしか見えなかった。
俺の物差しは未熟で、客観的に見るのは難しい。理解出来ないからと言って遠去けるだけでは、そのものの本質は見えて来ない。
本当に勇敢な人は、温和だ。
どんな状況にも怯えずに、何者にも精神の均衡を乱されない。湊は折れないことが強さだと思っていたし、譲ることは負けだと思っていた。
「お前も、勇敢だと思うけどな」
エンジンを掛けながら、侑が言った。
「俺もガキの頃は親父が怖かったし、何も言い返せなかった」
虐待するような最低な父親と、桜丘は違う。
侑のエメラルドの瞳は何処か遠くを見詰めている。それは遥か未来なのか、もう戻れない過去なのか。湊には分からない。
「どんな相手にも敬意を払えるのは、お前の美点だ。譲ることが出来るのも、勇気だと思うぜ」
侑はそんなことを言って、爽やかに笑った。
9.夜空に光る
⑼蟻地獄
仕事用の携帯電話に大量の着信履歴が入っている。
余りにも膨大な量だったので、いっそ携帯電話を捨ててしまおうかと思った。
事務所に帰り着いてから、コップに水を張った。湊が携帯電話を沈めようとしていると、侑がびっくりしたみたいに声を上げて、訳を問うた。
アラブの大富豪、ラフィティ家の当主が雑誌の取材でエンジェル・リードについて言及した。投資家としては未熟だが、人間としては評価出来る。彼等の成長を願い、ラフィティ家は援助をして行く。
その言葉のせいで殺人的な量の仕事が舞い込み、足掻けば足掻く程、ラフィティ家に絡み取られる。ラフィティ家の影響力は、湊の稚拙なプロパガンダでは太刀打ち出来ない。
湊が事情を説明する間、侑は静かに耳を傾けていた。否定も肯定もせず、話を聞き終えると不思議そうに問い掛けた。
「なんで断んねぇの?」
侑の眉間に皺が寄っている。
湊はどうしてそんなことを問われているのか、分からなくなった。
「ラフィティ家の権力は絶大だ。繋がりを切ってしまったら、修復するのは難しい」
「そりゃそうかも知れないが、このままじゃ都合良く使われてお終いだぞ。あいつ等と心中する気は無いんだろ?」
「当たり前だ」
湊が断言すると、侑は力強く笑った。
「じゃあ、全部断れ。お前の義理堅いところも我慢強いところも長所だが、狡猾な奴等は其処を突いて来る。断ることで不利益被るなら、それは俺が何とかしてやる」
侑はコップの上に晒された携帯電話を取った。
「お前は大抵のことは一人で出来ちまう。だが、やりたくないことまでやる必要は無ェよ。自分を安売りするな」
「……」
「何でも相談しろ。そんで、頼れ」
四面楚歌の窮地に、千の軍勢を得たみたいだった。
一騎当千って、侑みたいな存在のことを言うんだろうな。
湊はそう思った。配られたカードに文句を言うのは三流だ。それを使いこなしてこそ一流だ。侑は、籤運の悪い俺に配られたスペードのエースだった。
その時、チャイムが鳴った。
来客の予定は無い。事前の連絡をせずにやって来る無作法な人間は一人しかいない。湊が玄関に向かおうとすると、侑が制した。
「俺が出る。お前はうちのボスなんだ。後ろでどっしり構えとけ」
そう言って、侑は玄関に向かった。
湊はソファに座って、侑のいなかった一ヶ月を振り返った。自分は外見で嘗められる。だから、姿を隠し、身分を偽って来た。侑がいないと、対等に渡り合うことが出来ない。守られて来たし、支えられて来た。だから、彼が誇れるボスでありたいと思う。
「よお、湊!」
アラブの大富豪の長男、ムラト・ラフィティ。
ムラトはローマングラスのような青い瞳を無邪気に輝かせ、お祭りみたいに浮かれた声を出した。
「侑が戻って来て良かったな! ……なんだ、その怪我?」
湊の頬に貼られた湿布を指して、ムラトが心配そうに言った。嘘は無い。だが、嘘は真実の中に紛れさせるものだと知っている。
湊はソファに深く腰掛け、微笑んだ。
「転んじゃったんだよ」
「大丈夫か?」
「ああ。……でも、気を付けないといけないね。前ばかり見ていると、足元の落とし穴を見落とすことがあるから」
俺に配られたカードは何だ。
無い物強請りをしたって、状況は変わらない。配られた手札、山札の数、場の空気と勝負の流れ。俺は世界を相手にポーカーをする。
ポーカーは、怖気付いた奴から負けて行く。
ムラトは勝手にソファに座った。
そうだな、と威勢良く返事をする後ろには、アーティラが蛇のように待ち構えていた。けれど、応接室の扉の前では、侑が静かに壁に凭れている。
ムラトは僅かに身を乗り出して、意気揚々と言った。
「そういえば、またパーティーがあるんだ!」
断れ。
無言の重圧を感じた。侑が今にも噛み付きそうな目で、じっと見詰めて来る。分かっている。俺だってムラトに使われて良いだなんて思わない。――だけど、此処で何もかもを投げ捨ててしまったら、それこそ全部無駄になる。
俺は、全部を糧にすると決めた。
悲劇も理不尽も不条理も、怒りも悲しみも苦しみも、全部をエネルギーにして生きて行く。こんなところで貪られて終わるつもりは無い。
「行っても良いよ」
湊が言うと、侑が険しい顔をした。
ムラトが表情を明るくする。そのままパーティーの詳細を話そうとするのを、湊は微笑みで制した。
「エンジェル・リードとしてなら、行っても良い。そうじゃなければ、お断りだ。……前にも言ったよな?」
ムラトの背後には、ラフィティ家という巨大な権力がある。湊個人では到底太刀打ち出来ない。
俺一人じゃダメだ。
俺だけの力じゃ勝てない。だから、仲間が要る。
「俺達はお前の踏み台じゃない」
ムラトにも事情はあるだろう。だが、此方にも立場がある。
相談には乗るが、利用されるつもりは無い。ムラトは他人の嘘を見抜く能力を欲しがっていて、それを得る為にエンジェル・リードがどうなっても構わないのだ。
湊が言い放つと、ムラトは目を丸めた。そのまま深く溜息を吐いて、背凭れに体を預けた。
「あとちょっとだったのにな」
本当に、油断も隙も無い男だ。
湊は舌打ちを堪えた。侑が不在の隙を狙って、エンジェル・リードを取り込み、湊を利用しようとしていたのだ。
ムラトという青年が、どういう人間なのか湊には掴み切れない。無邪気な子供のような一面と、他人を搾取することに慣れた権力者の一面が複雑に共生している。彼は陰謀犇く大富豪の長男に生まれ、命を脅かされながら育った。だから、息を吸うように他人を利用し、善意を理由に丸め込もうとする。
湊は居住まいを正した。
「俺は、君達の未来に投資すると言った。だから、相談にも乗るし、力も貸す。……だけど、君は俺を利用しようとする」
「耳が痛いぜ」
ムラトはそう言いながら、まるで受け流すみたいに笑っている。生まれ持った価値観は変えることが出来ない。俺達の間にあるのは乾いた損得関係だけなのか。
「こいつの目的は何なんだ?」
侑が尋ねた。ムラト本人ではなく、湊に訊いている。
湊はムラトの目を見詰めながら答えた。
「ムラトがクーデターの為に集めた資金が、中東の過激派テロ組織に流れてる。パスファインダーが暗躍しているんだ」
「じゃあ、今のこいつはテロリストってことだな」
侑が吐き捨てた。
ムラトもアーティラも否定しなかった。
「ムラトは身の潔白を証明する為に、パスファインダーを捕まえなければならない。俺を麻薬犬代わりに使おうとしている」
「それは、誤解だぜ!」
ムラトが困ったみたいに訂正した。
「湊は他人の嘘が見抜ける。確かに、それは魅力的なカードだ。だけどな、それよりも重要なのは、パスファインダーがエンジェル・リードに関心を持っているってことだ」
なんで訂正したのか分からないくらい、最低なことを言っている。つまり、ムラトは自分達を餌にパスファインダーを誘き出そうとしているのだ。
「パスファインダーは社会の闇で暗躍している。うちの情報網を持ってしても捕まえられないのに、パスファインダーはエンジェル・リードに関わることには姿を見せる」
湊としては、余り掘り下げたくない話題だった。
立花がパスファインダーの蛍と会話している。
――天神侑に宜しく、と。
侑が低く問い掛けた。
「……つまり、お前は俺達を餌に釣りをしようとしてるってことだな?」
「お前等が協力してくれないなら、そういうことになる。俺だって異国の友人を餌にするのは心苦しいぜ」
ムラトは微笑んでいた。
宣戦布告することは、出来る。
ムラトを突き放し、人知れず始末し、知らん顔することも容易い。断れ、と侑は言う。しかし、彼等の目的は自分達と一致している。
ラフィティ家のコネクションは惜しい。
――だが、妥協してはならない一線がある。
湊は言った。
「君の遣り方は、俺のルールに外れている。それが分からないのなら、協力は出来ない」
「そのルールが満たされるなら、協力してくれるってことだよな」
「……君は、傲慢だね」
いっそ、清々しいくらいだ。
他人の弱味に漬け込んで利用して、善意を盾に搾取する。商才と呼べば聞こえは良いが、今の彼のような人間を君臨者にしてしまったら、エンジェル・リードの望む明るい未来は訪れない。
ムラトこそ、桜丘に性根を叩き直してもらうべきだ。
「信頼は得難く尊いものだ。君は俺の信頼を踏み躙った。それなのに、どうして対等な取引が出来ると思うんだ?」
ムラトの土俵には上がらない。
今度は俺の掌で踊れば良い。
「俺の使いたいなら、まずは信頼を取り戻してみせろ。話はそれからだ」
もう話すことは無い。彼等が強硬策を取らないとも限らないが、此処で退くと主導権を握られてしまう。自分が生きて価値を証明し続けることでしか、身を守れない。
ポーカーはコールでは勝てない。
湊は立ち上がった。
「さて、お客様のお帰りだ。この国では不浄を清める為に、塩を撒くそうだ。君にも必要かい?」
「いや、結構だ」
ムラトは苦く笑って、席を立った。
見送るつもりは無かった。
「またな、湊!」
去り際まで、ムラトは明るかった。
けれど、湊には彼が何かを隠していることも分かった。侑は冷たい無表情で見送った。
玄関の扉が閉まる音が木霊する。肩から力が抜けて、湊はソファに倒れ込んだ。後頭部が締め付けられるように痛む。一つ解決すると次の厄介事が舞い込んで来て、気を休める暇も無い。
それで、良いのか?
桜丘が訊いた。あの問いが頭の中で響き渡る。
俺が選んだ道は間違っていないのか。
もっとマシな選択があったんじゃないか。
そんなことは湊にだって分からない。
ムラト達を見送った侑は、戻って来て顔を顰めていた。何か言われたのかも知れないし、言いたいことがあるのかも知れない。湊はソファに座り、大きく深呼吸をした。
「一度、ムラトの故郷に行ってみたい。俺は、彼等の事情や背景を何も分かってないから」
「それは、あいつ等の為か?」
「ううん。世の中で何が起きてるのか、自分の目で見極める為さ」
「ミイラ取りがミイラにならないように気を付けろよ」
侑が言った。
でも、付いて来てくれるんだろうな。
湊は笑った。
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