⑻白星

 武器を持った相手に勝つには、それ以上の技量が必要だ。

 剣道三倍段。湊は翔太の言葉を思い出した。


 道場は、秒針の音が聞こえそうな静寂に包まれている。壁際には門徒生が取り囲み、衝立のようだった。此処は敵陣の真っ只中で、彼等が刃を持っていたら、真っ先に死ぬのは自分なんだろう。


 湊は、侑の背中を見詰めた。

 糊の効いた紺色のシャツには、薄いストライプが入っている。普段は気の良い好青年なのに、向けられた背中は思わず縋りたくなる程に大きく見えた。


 侑の手には、軍用ナイフがあった。

 それは鞘に納められているにも関わらず、まるで剥き出しの刃のように構えられている。


 対峙する桜丘驟雨は、竹刀を正眼に構えていた。巨大な岩山みたいに隙が無く、竹林のように静かだった。何処から打ち込んで来るのか、どうやって攻めて来るのか、全く分からない自然体の構えだった。


 朱鳥無念流の看板を背負った一流の剣道家である。格闘技や武道の経験が無い湊にも、桜丘驟雨が只者でないことは容易に想像出来た。


 互いに防具は無い。全力でぶつかり合ったら、どちらも無事では済まないだろう。止めるべきだ。これは俺の喧嘩だ。――だけど、此処で俺が水を差したら、侑の信頼を踏み躙ることになる。


 桜丘の足が床を滑る。足音も予備動作も無い。侑はナイフを構えたまま、電磁波のように警戒を飛ばしている。


 胴を狙って、竹刀が鞭のように振り抜かれる。

 侑はそれを寸前で躱すと、上空に飛び退いた。桜丘が追撃する。侑は軽い足取りで蹴り付けると、少しだけ距離を取った。


 反則だと、門下生が囁いた。

 きっと、そうなんだろう。剣道の試合では、足技なんて使わないのだろう。だけど、俺達は剣道家ではないし、表社会の人間ですらない。俺達は今日を生きて、明日を笑って迎える為に武器を使う。ただ、それだけだ。




「怖いのか?」




 煽るように、桜丘が言った。

 挑発に乗るような細い神経はしていない。侑は口角を釣り上げた。




「怖ぇよ。アンタを死なせちまうんじゃないかってな」

「弱い犬程、よく吠える」




 鋭い刺突が侑の胴を払う。

 侑は身を翻し、竹刀を握る桜丘の手を狙った。桜丘が身を引くと、侑が一気に踏み込んだ。竹刀を撃つ鈍い音は聞こえるのに、侑の動きを視認することが出来ない。


 俺は、手も足も出なかったのに。

 桜丘は力業で侑を振り払うと、淡白な口調で言った。




「動きに迷いがあるぞ」

「おう。迷ってる」




 侑は肯定した。




「俺は手加減の仕方が分からねぇ」

「見縊られたものだな」




 殺気に似た威圧感が迸る。鳥肌が立つようなプレッシャーだった。通り雨の名を示すように、桜丘が激しく打ち込む。侑は片手に構えたナイフで受け止めながら後退して行く。


 嵐のような連撃を往なしつつ、侑は壁際ぎりぎりに踏み止まった。竹刀とナイフが切り結び、火花が散るようだった。




「湊と約束してる。死なない、殺さない、奪わないと」

「……そんな泥沼のような世界で、刹那的な生き方で、一体何が出来ると言うんだ!!」




 湊は拳を握った。

 俺は、誰からも理解されなくて良い。そんなことは望んでもいない。俺は、自分で覚悟を決めて道を選んだし、後悔もしていない。


 どうせ、この世は理不尽で不条理で不平等だ。誰を憎んでも恨んでも、何も変えることは出来ない。どれだけ手を尽くしても守れないものがある。


 何も出来やしない。

 そんなこと、自分が一番分かってる。

 だったらせめて、少しでもマシな未来を、優しい世界を。


 侑はナイフの根本で竹刀を押さえ付けながら、堂々と言った。




「お前に勝てる」




 次の瞬間、侑のナイフが旋回した。

 竹刀が下がった一瞬の隙に、侑が懐に踏み込む。リーチの差も、距離を詰めてしまえば優位になる。侑は低く踏み込み、ナイフのグリップを振り上げた。


 桜丘の顎先をグリップが掠める。侑は空中でナイフを逆手に持ち変え、稲妻のように振り下ろした。その切っ先は桜丘ではなく、竹刀に向けられている。


 乾いた音が響き渡った。

 壊れた竹刀の破片が飛び散った。その切っ先は床に叩き付けられ、根本近くで折れている。けれど、侑は追撃の手を緩めない。


 金色の閃光が走った。得物を失った桜丘の首筋にナイフの先を突き付けて、侑は今にもその首筋を切り裂こうとしている。




「侑!!」




 湊が叫んだのは、殆ど無意識だった。

 侑は人殺しのプロだ。ルール無用の殺し合いになったら、例え一流の武道家でも敵わない。だけど、一般人にまで手を出して、社会を敵に回して、その先に明るい未来なんて無い。




「分かってるぜ、湊」




 ナイフを突き付けたまま、侑が笑った。

 竹刀は折れてる。これで終わりだ。それでも侑が手を引かないのは、相手が生きているからだ。折れた竹刀の先端は鋭く尖っている。俺達の世界では、それも武器になる。




「なあ、オッサン」




 エメラルドの瞳に獰猛な光を宿して、侑が問い掛ける。




「俺達は、こういう世界で生きてる。アンタの正義も重かろうが、俺達にもプライドがある。理解出来ないものを否定するだけじゃ、何も見えはしないんだぜ?」




 桜丘は眉一つ動かさなかった。

 その時、道場の入口から霖雨くんの声がした。




「止めろ、お前等!!」




 けれど、侑は動かないし、臨戦態勢も解かない。相手が生きていて、戦意がある以上、退くことは出来ない。何故か。――それが俺達の生きている世界だからだ。




「お前は俺の玉に手を出した。相応の落とし前は付けてもらう」

「落とし前って、何なんだよ……」




 霖雨くんが狼狽して言った。

 そういう反応を、随分と久しぶりに見た気がした。

 侑は眉間に皺を寄せて、桜丘を睨み付けた。




「湊に謝れ」

「断る」




 即座に桜丘が言った。

 侑の眼光が鋭くなる。けれど、桜丘は命を握られている状況であっても、圧倒的に不利であっても、絶対に譲らない。そのプライドの為に命を懸ける覚悟がある。




「俺は間違ったことはしていない」

「正誤の話じゃねぇ。テメェが俺の玉に手を出したことについて、湊に謝れって言ってんだよ」

「俺に謝れ、じゃないのか?」




 桜丘が笑った。

 この後に及んで命乞いするような人間じゃないだろう。

 桜丘の中には、一本の折れない芯がある。それは善悪や正誤では測れない揺るぎない信念だ。


 それが尊いものだと、分かる。

 遣り方は一切理解出来ないが、桜丘の気持ちも少しは共感出来る。




「侑。もう良いよ」




 湊が言うと、侑の肩から力が抜けた。

 その隙を逃さず、桜丘が竹刀を払った。侑は猫のように飛び退いて、湊の前に戻って来た。侑は、自分を庇うように立ち塞がっている。


 此処で守られているだけの子供では、この世界で生きていけない。湊はその横に立ち、顎を引いた。




「貴方に、伝えたいことがあったんだ」




 弁解も謝罪もいらない。

 湊は桜丘を真っ直ぐに見据えた。もう、怖くはなかった。




「心配してくれて、ありがとう」




 ずっと、そう言えば良かった。

 この人は、俺のことを心配してくれていた。遣り方には塵一つ共感出来ないし、あんなに毎日ボコボコにする必要があったのかどうかも分からないけれど、俺がそう言わないから、何も伝わらなかった。




「俺は大丈夫だよ。貴方が助けてくれたから、俺も弟も生きてる」

「……お前は、本当にそれで良いのか?」




 竹刀を下げて、桜丘が問い掛ける。

 彼の言いたかったことが、やっと分かった。湊は一歩進み出て、桜丘の顔を見上げた。




「良いんだよ。……仲間が、いるから」




 侑を見遣ると、エメラルドの瞳が柔らかに揺れていた。













 9.夜空に光る

 ⑻白星












「顔だけは天使なのにな」




 霖雨くんが嘆くように言った。

 道場では稽古が再開し、竹刀の打ち合う乾いた音の中で、桜丘の檄が飛ぶ。活気ある稽古風景を眺めながら、湊は肯定した。




「よく言われる」




 縁側では侑が退屈そうに寝転んでいた。武器を構えている時は獰猛な肉食獣のようだったのに、今は日向ぼっこする家猫のようだ。侑は寝転んだまま肘を突いて、目を細めて笑った。




「こいつが天使なのは、寝ている時だけだ」

「赤ちゃんかよ」




 霖雨くんが溜息を吐く。

 彼も損な役回りだ。イジメ加害者である被告人を弁護する霖雨くんは人望のある立派な弁護士なのだけど、世論は話題作りの為に彼を悪人の仲間に仕立て上げようとする。


 この世には、誰かが引かなければならない貧乏籤がある。どれだけ公明正大にやっても、世論は重箱の隅を突くように粗探しをして、都合の良い事実を作り上げる。


 無責任なマスコミを非難するつもりは無い。湊自身、プロパガンダとして彼等を利用することがある。俺達は同じ穴の貉だった。




「社会復帰は考えないのか?」




 お前が望むなら、手を貸すよ。

 霖雨くんが言った。嘘偽りの無い言葉だった。俺が望めば、霖雨くんは幾らでも奔走し、尽力し、泥を被ってくれるのだろう。


 湊は首を振った。




「其処じゃ、俺の夢は叶わないよ」




 湊が言うと、霖雨くんは顔を歪めた。

 霖雨くんは膝の上で両手を組み、俯いていた。




「お前の親父は、ヒーローになりたいと願い、英雄となって死んだ。……お前は?」




 知っている。俺の親父はメサイアコンプレックスの狂人だった。立派な人だったと思う。親父が身を挺してくれなかったら、航だって生きていなかった。


 でも、俺はヒーローになんかなりたくない。

 俺の願ったものはずっと変わらない。




「大切な人がいる。生きていて欲しい。笑っていて欲しい。守る為には、力が要る」

「それが悪だと言われてもか?」

「そうだ」




 湊が肯定すると、霖雨くんは笑った。




「俺が一緒に守ってやるよ」

「犯罪者でも?」

「犯罪者でも」




 霖雨くんが言った。

 有難い申し出だ。だけど、それに縋る程、弱くはない。




「俺は正義も悪もくだらないと思う。でも、霖雨くんはそうじゃない。俺と繋がっていることで、救えた筈のものを取り零すかも知れない」




 いつか、霖雨くんの胸に灯った正義は誰かを救うだろう。そんな未来を夢想するくらいには、霖雨くんの人間性を認めている。


 湊は立ち上がった。

 もう二度と此処に来ることは無いだろう。もしかしたら、桜丘とは二度と会うことも無いかも知れない。侑はゆっくりと起き上がり、大欠伸をしながら歩き出した。


 湊がその背中を追って足を踏み出すと、霖雨くんが言った。




「命綱は巻いておけよ。いつか引き返したいと思った時に、それを辿って戻れるように。……年長者の言うことは、聞くもんだぜ?」




 湊は微笑んだ。




「肝に銘じるよ」




 道場の入口に、桜丘が立っていた。まるで、待ち伏せをしていたみたいだった。侑は桜丘の真正面に立ち、唸るような声を出した。


 桜丘は微塵も動揺しない。もしかすると、侑が手加減をしたように、彼も本気を出してはいなかったのかも知れない。湊はそんなことを思った。




「お前にとって、あの子供は何だ?」




 侑は足を止めた。

 そんなもん答える義理は無い。そう言って突き離しても良い筈なのに、侑は肩を竦めた。




「分からねぇよ、そんなもんは。……ただ、あいつの隣にいると、世界が少しだけ綺麗に見える」




 その声は、谷の湧水のように澄んでいる。

 一言一句を息で包むように言って、侑は桜丘の横を擦り抜けた。


 そういえば、この人は自分が丸腰の時には竹刀を握らなかった。散々痛め付けられたけれど、あれはこの人の矜恃だった。何かに一生懸命に取り組んで来た人間というのは、それだけで信用出来る。


 湊は桜丘の前に立ち、頭を下げた。




「お世話になりました」




 殴られるとは思わなかった。戦意の無い相手を甚振って愉悦を感じるような低俗な人間じゃない。俺が意地を張っていたから、この人も譲れなかった。




「次は、ゆっくりお話ししましょう? 剣道も指導も関係無く、縁側で塩結びでも食べながら」

「……その時は、お前が握って来い」




 俺が握るよりも、あの綺麗な人が作った方がずっと上手いだろうけどな。そんなことを思いつつ、湊は頷いた。

 力では絶対に敵わない。口喧嘩でも言い返せなかった。だけど、俺の作った塩結びでこの人を唸らせることが出来たら、それは白星と言っても良いんじゃないだろうか。


 侑が待っている。

 道場の前で一礼し、二人で並んで歩いた。


 眩しい程の西陽に、空は晴れ渡っていた。

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