⑺リベンジマッチ

 事務所は仄かにラベンダーの香りが漂っている。

 応接室には航が育てた鉢植えが並べられ、今も力強く育っていた。湊は湿度を確認しつつ、暖房を入れた。花が枯れるのは、悲しいから。


 給湯室でハーブティーを入れて、テーブルに置く。来客用のソファには霖雨くんが座っている。その真正面には侑が座り、身を乗り出すようにして膝の上で手を組んでいた。




「ご用件を伺いましょう」




 吟味するみたいに、エメラルドの瞳が細められる。とても取引やビジネスの空気ではない。国家間の協定を結ぶみたいな緊迫感が漂っている。

 霖雨くんはハーブティーを飲みながら、美味いな、と話を逸らした。話が進まないので、湊が仲介した。


 明瞭学園の二年一組で、柊木愛梨という女子生徒がイジメを受けて自殺した。エンジェル・リードは遺族の依頼を受けて、イジメの実態調査に乗り出した。


 結果として、イジメは存在した。

 その証拠を集めて遺族に渡したら、刑事裁判が行われることになったのだ。被告人――加害者は、イジメは無かったと言っている。だが、エンジェル・リードの提出した証拠は紛れもなく本物で、イジメが存在したことを証明していた。


 加害者側の弁護人である霖雨くんは、その証拠を疑問視していた。エンジェル・リードが信用出来なければ、証拠も認められない。裁判は引っ繰り返る。


 被害者も加害者も未成年という異例の裁判は世間からの注目を集め、明日が公判初日である。今回の裁判は陪審員制度が導入されており、民間から無作為に選ばれた陪審員が評議によって事実認定を行うのだ。


 其処で厄介になって来るのが、湊が加害者達にやった社会的制裁だった。イジメをSNSにアップロードしたことで、加害者は世間からバッシングを受けた。その中の一人が自殺を図り、世間は今回の裁判を注目しながらも、慎重になっていた。


 社会的制裁とエンジェル・リードの関連を認めると、証拠の信用も下がる。自分達は裁判に出る訳ではないが、証拠がエンジェル・リードのものだと言われてしまうと面倒なことになるのだ。


 伏せられるカードはそのままにして、湊は掻い摘んで話した。言質を取られるのは嫌だった。




「霖雨くんは、子供達の未来を守りたいと考えてる。刑事罰は更生の可能性を奪うことになると」

「はあ?」




 湊の言葉に、侑が呆れたような声を出した。




「被害者の遺体とか動画とか、見なかったのか?」

「見たよ」

「何も感じなかったのか?」




 侑は心底不思議そうに言った。




「人は変わる生き物だ。学習もするし、反省もする。そうじゃなきゃ生きてる価値は無ェ。その為には、悪いことはきちんと教えてやらなきゃいけねぇよ」

「あの子達は社会的制裁を受けている。自殺しようとした子もいるんだぞ」

「社会的制裁は意味無ェよ。親や教師、司法がやらなきゃ響かない。便所の落書きを見るだけが、人生の全てじゃねぇだろ?」




 侑は冷ややかに問い掛けた。

 湊も同意見だった。反省も更生も素晴らしいことだ。だが、それは罰の先にあるものだ。湊のやったことはただの個人的な腹癒せで、司法の罰とは別の話だ。


 霖雨くんは困ったみたいに眉を寄せていた。言いたいことは、沢山ありそうだった。本当は、あんまり気が強くない人なのかも知れない。




「そういう意見は、裁判所でしてくれ」

「ふざけんなよ」




 ヤクザみたいに侑が凄む。霖雨くんは平然としていた。




「湊に、エンジェル・リードの代表として、裁判への出廷を求める」

「そんな義理は無ェ」

「だが、責任はある。お前等が遺族に渡した証拠は、そういうものだ」




 霖雨くんの声は水面のように澄んでいる。

 其処には怯えも衒いもない。侑は背凭れに体を預けると、足を組んだ。




「アンタと俺のルールは違うようだ。ついでに、話も通じないらしい」




 湊は感心してしまった。

 相手の意見に流されず、力技で捻じ伏せる。湊には無い技術である。侑はつまらなそうに吐き捨てた。




「俺達は、裁判官でも正義の味方でもない。だが、被害者が声を上げられない社会で、法の存在意義は何処にある?」

「少数派の意見ばかりを拾っていては、社会は成り立たないんだよ」

「じゃあ、少数派は我慢して死ねって言うのか」

「そうじゃない」

「じゃあ、何なんだ。アンタは俺達に蝙蝠になれってのか?」




 侑は少し苛立っているようだった。

 革靴の先が貧乏揺すりみたいに揺れる。エメラルドの瞳は霖雨くんを睨み、ふと、湊を一瞥した。




「子供達の未来を守りたいって言ってたな。……其処にこいつは、入らないのかい?」




 霖雨くんは、沈黙した。

 自分が引き合いに出されるとは思っていなかった。湊が目を瞬いていると、侑が迫力のある舌打ちをした。




「裁判には出さないし、証言もさせない。俺達は身に掛かる火の粉を振り払うことはするが、自分から火を点けて回るつもりは無い」

「その振り払った火の粉で、火達磨になろうとする奴等がいてもか?」

「そうだ」




 侑は即答した。

 彼は裏社会で生きて来た。実績がある。経験が違う。立場の違う相手と渡り合うだけの度胸がある。学校には真面に通わなかったと聞いているが、会話の節々で頭の回転の速さを窺わせる。


 侑は忌々しげに顔を歪めた。




「湊の親はテロで死んでる。世間の皆様が振り払った火の粉で、こいつ自身が火の海に投げ出されてんだぞ。この上更に犠牲になれって言うなら、俺はアンタを力強くで沈黙させる」

「お前も、なかなか埃の出て来そうな男だな」

「その埃で噎せるのは、アンタ達の方だと思うけどな」




 侑は嗤った。




「湊。なんか言うことあるか?」

「……無いよ。侑が、全部言ってくれたから」




 湊は笑った。死体蹴りなんて、自分の流儀じゃない。

 侑は足を下ろすと、中指を突き付けた。




「顔洗って出直して来な!」




 湊は、拍手を送りたい気持ちだった。

 商談は侑に任せることが殆どだったが、いつもこんな遣り方をしていたのだろうか?


 侑の不在時、ハイエナが群がる理由が分かった。













 9.夜空に光る

 ⑺リベンジマッチ











「じゃあ、次はクソ剣道家のところに行くか」




 殆ど追い返すみたいに霖雨くんを帰らせて、侑はコートを着た。意外とせっかちなのかも知れない。

 侑は足が長いので、早足に歩かれると、湊は駆け足になる。事務所に鍵を掛けて階段を降りる頃には後ろ姿も見えず、追い付いたのは駐車場だった。


 侑が振り返りもせずにヘルメットを投げて来る。

 湊が受け取ると、侑が言った。




「道場に入る時って、挨拶するんだよな?」

「そうなの?」

「なんだっけな」

「Hello、かな?」

「絶対違ぇ」




 侑が笑った。

 バイクに乗って、湊の記憶を頼りに目的地に向かった。桜丘驟雨の朱鳥無心流の道場は、ムラトに誘われたパーティー会場の近くだった。


 古めかしい日本家屋は、文化財にでも指定されていそうだった。写真に撮ったら趣があるだろう。ただ、湊は悪い記憶しかなかったので、瓦屋根を見ると寒気がした。


 侑は大きな門の前に立ち、顎に指を添えて唸った。挨拶を思い出そうとしているらしい。




「御免下さい、は?」

「そんな丁寧じゃねぇ。時代劇で言うやつ」




 侑って時代劇も見るんだな。

 意外な一面に感心していたら、侑が閃いたみたいに顔を上げた。振り向いて、悪童のように笑っている。良い予感はしないけれど、侑が楽しそうなので何でも良かった。




「頼もう!!!!」




 拡声器でも使ったような大声が界隈一帯に響き渡る。

 道場の中から門下生が顔を出す。ハンマーがあったら、モグラ叩きが出来たのにと思った。


 侑はミサイルみたいにぐんぐん進んで行く。道場の入口でも同じ挨拶をして、力一杯扉を開けた。

 道場の床は飴色の板張りで、鏡のように磨き込まれている。打ち込み稽古をしていた門下生が身を退いて行く様は、モーセの海割りみたいだった。


 道場の奥、桜丘驟雨がいた。

 中縹色の剣道着を纏って佇む姿は、本物の侍みたいだった。年齢は葵くんや霖雨くんと同じくらいの筈なのに、滲み出す貫禄は同じ時代の人間とは思えない。


 手酷くボコボコにされたせいか、道場に入るのに躊躇ってしまう。桜丘の前に行くのが嫌だった。話が通じないし、力では敵わない。


 侑は道場の入口に革靴を脱ぐと、真っ直ぐに歩いて行った。伸びた背中が竹のように綺麗だった。極力気配を消しながら、侑の後ろに隠れた。誰かの背中に隠れるなんて、生まれて初めてだった。




「会いたかったぜ、クソ野郎」




 侑が言った。

 桜丘は目を閉じて、瞑想しているみたいだった。切れ長な目が開かれた瞬間、戦慄が背中を駆け抜けた。己の意思とは無関係に足が震えた。


 幽霊も殺人鬼も怖くない。

 超常現象も拷問も恐れない。

 だけど、この桜丘驟雨だけは、駄目だ。

 何故なのかは、言語化出来なかった。




「なんだ、お前は」




 桜丘の目が怪訝に細められる。レーザービームでも出そうな鋭い眼光だった。湊は侑の背中から出ないように、身を縮ませた。

 侑の手が伸びて、湊の腕を掴んだ。震えは自然と止まっていた。




「俺はエンジェル・リードの天神侑。アンタがボコボコにしたガキの仲間だよ。お礼に来たぜ」




 侑は芯のある声で言った。自分自身に絶対的な自信を持っている声だ。門下生が恐々と様子を伺っている。桜丘の声がして、湊は耳を塞ぎたくなった。




「自分で立ち向かわず、他人を頼ったのか」




 軽蔑するみたいに桜丘が言う。

 湊は、どうしてこの男をこんなに恐れているのか分かった。

 この男は、今まで会ったことの無いタイプの人間だからだ。湊は格闘技を習ったことが無い。殺意は無いのに暴力を振るい、悪意は無いのに罵倒する。だから、彼が何を思い、何を信じ、何を大切にしているのか分からない。


 堂々と背筋を伸ばして、侑が言った。




「子供が大人を頼って、何が悪い」




 どうして、侑はそんなに格好良いんだろう?

 感激に心が震えるようだった。侑の掌から勇気が伝わって来るみたいだ。




「俺は剣道も流派も知らねぇが、丸腰のガキを甚振るのがアンタの流儀か?」

「俺は指導をしてやっただけだ」

「善人面した大人が一番救えねぇよ」




 言葉を投げ捨てるみたいに、侑が言った。


 ――俺は、何も言い返せなかったのに。

 あの日、噛み締めた血の味と悔しさが込み上げて来て、湊は足を踏み出した。桜丘の眼光が射抜く。




「被害者面をしたクソガキに灸を据えるのも、大人の役目だ」

「……アンタは俺の嫌いな大人の目をしてるよ。支配者の目だ」




 侑が腕を広げた。


 侑は幼少期、父親の苛烈な暴力の下で育った。小さな弟を守りながら、学校も真面に通えず、守られず、必死に生き抜いた。侑には、生命の強さがある。何度折れても立ち直る、鋼の魂がある。




「俺のいないところで、散々好き勝手やってくれたらしいじゃねえか。今日は大人の話をしようぜ? 俺がいる限り、こいつには指一本触らせねぇ」




 侑が不敵に笑った。




「俺は逃げやしねぇし、負けもしねぇよ」




 侑が言うと、桜丘が立ち上がった。岩が動き出したみたいな威圧感だったが、湊は両足に力を込めた。侑が此所まで言ってくれているのに、怯えたり逃げたりするのは、失礼だ。


 桜丘は壁に掛けていた竹刀を掴むと、床の上に投げ捨てた。

 あの日、無理矢理握らされた竹刀だ。持ち手のところに血が染み付いている。


 侑は竹刀を拾い上げると、持ち手を見詰めた。




「お前の血か?」




 湊は頷いた。

 侑は曖昧に相槌を打つと、竹刀を握った。

 桜丘は傍に置いた竹刀を持ち、正眼に構えた。




「一本でも取れたら、お前の言い分を認めてやる」

「……こいつにも、そう言ったのか?」




 侑が問い掛けた。

 桜丘は鼻で笑った。この道場に連れて来られた日、湊はそう言われた。一本も取れないまま昏倒してしまったけれど。


 怒りが許容範囲を超えると冷静になるって、本当なんだな。

 侑は溜息を吐いて、そんなことを言った。




「話が通じないって意味がよく分かったよ。アンタ、人に教える立場なんだよな? 素人のガキを一方的に甚振って楽しかったかよ」

「そいつのやってることは、ガキの範疇じゃない」

「それは同感だが、アンタのリンチとは別の話だ。逃げ場の無い奴に選択を迫るのは、卑怯だ」




 侑は竹刀を肩に担いだ。




「つーか、得物はこれじゃなくても良いんだよな?」

「素手で来るか?」

「素手は流石に」




 侑は笑って、懐に手を入れた。

 銃が出て来るんじゃないかと思った。一般人の前で銃を出すのは流石に不味い。けれど、其処から出て来たのは一本の軍用ナイフだった。


 懐に軍用ナイフが入っているのもおかしい気がしたが、感覚が麻痺して湊にはよく分からなくなってしまった。

 侑はナイフを鞘に収めたまま、ジャケットを脱いだ。湊に竹刀とジャケットを押し付けて、侑はナイフを構えた。




「リーチの差はハンデにしてやるよ。さあ、来な」




 預かったジャケットが重い。

 銃以外の何かが入ってそうだ。


 どうやって飛行機に乗ったんだろう?

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