⑹竜の逆鱗

 暖房は点けっぱなしだった。

 帰って来た侑が寒い思いをしないように点けて行ったのに、食卓に並べた薬味が乾燥してしまっていた。


 でも、刺身は冷蔵庫に入れているし、冷めた清汁も温め直せば良い。まだ大丈夫。大丈夫。


 湊がコンロの前に向かったら、侑が肩を掴んだ。




「手当てが先だろ」




 でも、侑の為に作ったんだ。

 侑の快気と凱旋祝いの為に、精一杯作ったんだよ。

 口を開いたら、真っ赤な血が溢れた。口の中が切れて出血している。腕には裂傷があって、とても清潔と言える状態じゃなかった。


 どうして、何も上手くいかないんだ。

 桜丘にも言い返せなくて、やられっぱなしで、折角料理をしても食べられない。自分の身も守れなくて、マシな未来を選んだ筈なのに、どんどん深みに嵌っている。


 湊は口元を拭った。侑は目を細めて、尖った口調で問い掛けた。




「あれは、誰だ?」

「剣道家で、親父の知人で、航の恩人で……」




 だけど、他人だ。

 あの人は俺のことなんてこれっぽっちも分かってくれないし、分かろうともしてくれない。俺だって理解して欲しいとは思わないけれど、どうして放っておいてくれないのか。




「その怪我は全部、あいつか?」

「俺が弱かったんだ。俺の、力不足なんだ」




 侑が来てくれなかったら、俺はまたボコボコにされて、道場に連れて行かれて、霖雨くんに助けられて、説教されて。

 自分がどんどん削がれて小さくなって行くような気がした。

 俺が強くて賢かったら、こんなことになってなかった。両親も生きていて、新も無事で、航は安全で、侑も。




「それは、違うぞ」




 侑が、言った。

 エメラルドの瞳は春の日差しのように温かかった。

 侑は言い聞かせるみたいに、ゆっくりと言った。




「お前、ずっと一生懸命やってんだろ」




 侑はそう言って、鍋の蓋を開けた。

 犬みたいに匂いを嗅いで、美味そうだな、と微笑んだ。嘘じゃない本当の言葉だった。




「誰にだって得意不得意があるし、お前は自分に出来ることを精一杯やってる。だから、あんまり自分を責めるな」




 侑は明るく笑った。

 大きな掌が頭を撫でる。労るような侑の声が染みて、胸が軋むように痛かった。

 侑は鼻歌混じりに部屋を横切って、寝室から救急箱を持って来た。そのまま湊をソファに座らせて、黙って手の甲を消毒してくれた。


 視界が滲むのは、消毒液のせいなんだ。

 苦しいのは、思い切り蹴られたから。

 絆創膏が傷を覆い隠すと、胸の奥が温かくなった。




「夕飯は……まだ、だよな。パーティーだって言ってたもんな……」




 侑はリビングのテーブルと、無残な大根を見遣って、何故か泣きそうな顔をした。湊は立ち上がり、出しっ放しにしていた皿を片付けた。




「明日、航にアレンジのレシピを訊いておく。今日は出前を頼もう」

「いや、食うよ。俺の為に作ったんだろ?」

「じゃあ、用意するよ……」




 そう言った時、視界が滲んだ。

 喉が詰まって、苦しくて堪らない。怒りとも憎しみとも付かない激情が込み上げて、湊はその場に蹲み込んだ。声が漏れないように腕で顔を隠し、ただ、拳を握り締めていた。












 9.夜空に光る

 ⑹竜の逆鱗












「本当に、悪かった!」




 朝になったら翔太が来て、ベッドの横で頭を下げた。

 湊は昨日の記憶が曖昧で、翔太がどうして謝っているのかも分からなかった。




「顔を上げてくれよ、翔太。どうして君が謝るの」

「侑にお前のことを頼まれてたのに、守ってやれなかったからだよ」




 噛み締めるように翔太が言った。

 そういえば、そんな遣り取りをしていたな。


 昨日は事務所で桜丘に待ち伏せされて、翔太は自分を庇って階段から落ちたのだ。湊は翔太の方が心配だった。




「翔太は怪我しなかったの?」

「俺は擦り傷だよ。そんなことより昨日の夜、大変だったんだぜ」




 この世の不幸を背負い込んだみたいな顔付きで、翔太が言った。




「ペリドット……じゃねぇや、侑から電話が掛かって来てさ、尋常じゃないくらいブチ切れてたんだぜ。寿命が縮んだと思う」

「侑は切れないでしょ」

「いや、凄かったんだって。怒鳴ってる訳じゃねぇのに、めちゃくちゃ怖かったよ。本気で殺されると思ったね」

「大袈裟だよ」

「立花と話してる時の空気はもっとやばかった。冷凍庫の中みたいでさ、生きた心地がしなかったぜ」




 あまり、想像出来ない。

 侑は伝説級の殺し屋だが、普段は穏やかで思慮深い人間だ。基本的に理性的で、感情に任せて動くタイプじゃない。




「なんて言ってた?」

「お前等には何も頼まないってよ」




 それは、悪いことをした。

 厄介事に巻き込まれてしまっただけで、彼等には何の非も無かった。

 湊が謝罪すると、翔太は首を振った。




「その怪我、全部あいつだよな? 幾らなんでも、やり過ぎだ。侑がブチ切れるのも仕方無ぇよ」

「悪気は無いんだと思う。俺の為だと思ってくれてんだ」

「その結果、お前の為になってないだろ」




 酷過ぎる、と翔太が嘆いた。

 誰かが自分の代わりに悲しんだり、怒ったりしてくれる。それがどんなに得難く幸福なことであるか、知っている。だから、謝罪するべきではない。




「心配してくれて、ありがとう」




 湊が言うと、翔太が苦しそうに笑った。

 桜丘と相対した時も、そう言えば良かったのかも知れない。謝るとか反省するとかではなくて、心配してくれてありがとう、大丈夫だよ、と。


 翔太や侑が相手ならすんなりと言えるのに、どうして肝心な時には言葉が出て来ないのか。湊にはそれが不思議で、情けなかった。


 湿っぽい雰囲気は好きじゃない。

 湊はベッドから降りた。




「昨日のご飯の残りがあるんだ。良かったら、食べていかない?」

「お前が夕飯を残すの、珍しいな」




 昨日は口の中が痛くて、食べられなかったのだ。

 湊は苦笑して、寝室を出た。リビングでは、侑がソファの上で雑誌を読んでいた。長旅の後に訳の分からないトラブルに巻き込んでしまって、肩身が狭い。


 侑は湊を見ると、柔らかな声で挨拶を告げた。昨夜は激怒していたらしいが、その気配は無い。翔太が大袈裟だったんだろう。湊は挨拶を告げて、冷蔵庫に向かった。


 冷蔵庫を開けたら、昨日用意した筈の皿が無かった。

 しまっておいたと思ったけど、夢だっただろうか。




「美味かったから、全部食っちまった。悪ィな」




 そんなことを言って、侑が笑った。


 侑は、どうしてそんなに優しいんだろう?

 決して恵まれた環境ではなかったのに、どうして当たり前みたいに他人に優しく出来るんだろうか。俺は身を守る為に棘を出して威嚇して、毒を持って立ち向かう。だけど、侑は全部包み込むみたいに笑ってる。


 湊は笑って、冷凍庫から食パンを取り出した。

 凍ったままの食パンをトースターに突っ込んで、三人分の珈琲を煎れた。翔太と二人で遅い朝食を取る。口を動かすと唇の端が染みるように痛んだ。


 食事を終えた頃、侑は雑誌を閉じた。まるで、待っていたみたいだった。侑は、寒気がするような無機質な目で翔太を見遣った。昨夜は、本当に少なからず怒っていたのだろう。




「こいつに手ェ出した剣道家って、何処のどいつ?」

「それを言ったら、俺が殺人事件の共犯になっちまうだろ」

「殺しはしねぇ。落とし前を付けるだけだ」

「それは、俺がやる」




 湊が言うと、侑は目を眇めた。




「あれは、お前には無理だ。お前が悪い訳じゃねぇぞ? 俺の担当分野だってだけの話だ」

「でも、何も言い返せなかったんだ」




 喧嘩で負けることは仕方が無い。強くなるしかない。

 だけど、あれだけ否定されて、馬鹿にされて、何も言えずに誰かに助けてもらうなんて矜恃に反する。此処で折れたら、それはもう俺じゃない。




「こいつ、頑固だから曲げないぞ」




 翔太が侑に耳打ちした。

 侑は腕を組んで沈黙し、分かった、と低く言った。




「じゃあ、こうしよう。俺がそいつを負かす。お前はその後に好きなだけ言い返せ」

「めちゃくちゃ卑怯者じゃん」

「無作法な奴に礼儀を払う道理は無ェ」




 侑が言った。

 卑怯。――確かに、自分も夜道で襲撃されている。

 握ったこともない竹刀を持たされて、やったこともない剣道で一方的にボコボコにされた。礼儀を払う道理は無い。


 空になった皿を水盤に運ぶと、携帯電話が鳴った。

 仕事用の携帯電話はずっと留守電にしてしまっているので、プライベートのものだ。霖雨くんからの着信だった。


 裁判の公判は明日だ。

 連絡を取りたい気持ちは良く分かるので、湊は応えた。

 霖雨くんはエンジェル・リードの事務所の近くにいるらしい。話を聞きながら、湊は侑を見遣った。このまま放って置いたら、道場破りに行きそうだ。


 湊はスピーカーを掌で覆って、問い掛けた。




「事務所に行っても良い?」

「止めとけ、また待ち伏せされてるかも知れないぞ」

「どういうことだ」




 翔太が、藪を突いて蛇を出す。

 一から説明すると、何か良くないことになりそうだ。湊は曖昧に濁した。




「明瞭学園のイジメ裁判は知ってるだろ? 加害者側の弁護人が、俺の親父の友達なんだ」

「世間って狭いな」

「本当にね。その人が会いたがってる」

「会わない方が良いと思うぞ」




 侑が言った。




「加害者側なら、俺達の敵だよな。何の得にもならねぇよ」

「でも、恩人なんだ。両親が死んだ時、航を日本に亡命させただろ。その時に葵くんが色んな人に声を掛けてくれて、手を回してくれたんだ」




 侑は何かを察したみたいに頷いた。




「航の恩人って、そういうことか。あのクソ剣道家もその一人って訳ね」

「そう」

「それ、お前の恩じゃなくね? 義理堅いのは結構だが、それで皺寄せ食ってんのは理不尽だろ。お前が貧乏籤引き易いのは、そういうとこだと思うぞ」




 そんなことを言いながら、侑は既にコートを羽織っていた。

 隣で翔太が笑っていた。侑が良い奴だと思うのは、そういうところだ。


 家の前で翔太と別れて、バイクで事務所に向かった。

 待ち伏せされて道場に連行された記憶が蘇る。掌で潰れた肉刺を見ると、新しい皮膚が薄く張っていた。人間の体が思うよりも頑丈に出来ていることに感動した。


 信号待ちをしている時、侑が訊ねた。




「あいつに何を言われた?」

「軟弱者と、臆病者と、卑怯者と、あと弱虫と……」

「ふうん」

「俺がやってるのは自己満足で、他人の人生を捻じ曲げてるって言ってた」




 侑は少し黙った。

 信号はまだ変わらない。




「どんなに誠実に尽くそうが、合わない人間は必ずいる。そいつ等の為に自分を押し殺す必要は無いさ。合わない奴は、通り過ぎちまえ」

「向こうからやって来たんだけどな」

「そういうのは、俺に任せとけ」




 信号が青に変わる。

 掴まっとけよ、と侑が言った。

 侑の右手が思い切りアクセルを回す。前から重力が掛かって、見えない掌を押し付けられているみたいだった。侑は素手でハンドルを握っていた。寒そうだ。何処かのタイミングで、手袋を贈ろうと思った。


 事務所の前に霖雨くんが立っていた。相変わらず安そうな紺色のスーツを着ている。弁護士は儲かると聞いていたが、差があるのだろうか。


 侑がバイクを駐車場に入れる前に、湊はシートから降りた。霖雨くんは寒そうに両手を擦り合わせて、侑を見遣った。




「どちら様?」

「仕事仲間。いや、友達?」

「なんで俺に訊くんだ」




 霖雨くんが笑った。

 関係性に名前を付けるのは、苦手だ。


 侑が駐車場から帰って来て、営業用の顔で微笑んだ。




「エンジェル・リードの窓口係をしております。天神侑と申します。留守の間、大変ご迷惑をお掛け致しました」




 侑が手を差し出すと、霖雨くんが応えた。

 ビジネスマンみたいな挨拶をしてから、侑は手を掴んだまま声を低くした。




「何かお話がある時は、まず俺に話を通して下さいね?」




 口調は問い掛けているが、否定を許していない。

 霖雨くんの顔色が悪い。彼は何も悪いことをしていないので、気の毒だ。侑はぱっと手を離すと、先陣切って事務所へ案内した。


 霖雨くんは、握られた掌を呆然と見詰めている。

 ごめん、霖雨くん。今日の侑は機嫌が悪いらしい。

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