⑸蟷螂の斧

 侑が帰って来る。

 湊はその知らせを聞いた時、夜空を朝日が切り裂いて行くような希望を抱いた。侑の落ち着いた声に、ささくれ立った神経が凪いで行くように冷静さを取り戻す。


 これから飛行機に乗るらしい。

 到着は夜になる。そんなの、全然構わない。深夜だって明け方だって良い。空港まで迎えに行って、寝ないで待っている。


 湊が通話を終えた時、霖雨くんはまだ電話中だった。スピーカーの向こうから微かに聞こえる声は、後見人である葵くんだった。電話の相手は葵くんらしい。離れていても、歳を取っても連絡し合える友達がいるのは良いことだ。


 けれど、喧嘩するような強い口調で、霖雨くんが言った。




「お前が君主論なんか読ませるからだろ!」

『いかれてるのは、血筋だよ』

「それは間違いなくそうなんだけど!」




 霖雨くんでも、こんな風に怒鳴ることがあるんだな。

 湊は通話が終わるまで椅子に座り、携帯電話を握って待っていた。


 霖雨くんは身体中の空気を出し切るみたいに、深い溜息を吐いた。




「湊って、どういう子なの?」

『頭の良いクソガキ』

「最悪だな」

『あいつのヤバさは、体感しないと分からない』

「アトラクションみたいだな」




 本人の前で話すことじゃないと思うが、そういう時もあるだろう。湊は素知らぬ顔で、机の上に積まれた六法全書を眺めた。


 少しして、霖雨くんは通話を切った。職場で話す声量ではなかった。仕事中の他職員が奇異の目を向けて来る。霖雨くんは申し訳なさそうに方々へ謝罪した。


 湊は、早く帰りたかった。

 家に帰ったら手巻き寿司の用意をして、空港まで侑を迎えに行かなくちゃならない。話したいことがいっぱいあるし、聞きたいこともある。何より、元気な顔が見たかった。




「もう帰っても良い?」




 訊ねると、霖雨くんが難しい顔をした。

 話はまだ終わっていないのだろうが、帰りたがっている未成年を止めるのもこの国では罪に問われる。湊はそのまま立ち上がり、ハンガーに掛かっていた上着を羽織る。霖雨くんが引き留めようとするので、湊は振り返って言った。




「今日は大事な用があるんだ。お話はまた別の機会に」




 霖雨くんは何かを言おうとしていたけれど、湊はそれを無視して事務所を出て行った。












 9.夜空に光る

 ⑸蟷螂の斧












 買い物を済ませて帰宅したら、もう午後三時を過ぎていた。

 朝から道場に連行されたせいで、何も食べていないし、身体中が悲鳴を上げている。けれど、一ヶ月振りに帰って来る相棒を精一杯持て成したいという気持ちが強かった。


 米を炊いている間に、玉子焼きと牛肉の時雨煮を作る。刻んだ胡瓜と沢庵、納豆を小鉢に移す。近所の魚屋で買った刺身を皿に並べて冷蔵庫に入れ、清汁を作っている間に米が炊けた。自分だけが食べる料理ではないから、何度も味見をして確かめる。


 普通の酢飯とは別に、大葉や生姜を混ぜ込んだすし飯も用意した。何が好みか分からないから、なるべく沢山の選択肢を用意する。


 あっという間に午後五時を過ぎてしまい、湊は慌てて家を飛び出した。翔太から着信が残っていたので、無事だったことと侑を迎えに行くことを告げた。


 大根おろしが無いことに気付く。

 スーパーまではバイクで五分も掛からない。湊は住居にしているマンションの駐輪場へ向かい、バイクに跨った。

 夕方のスーパーは利用客でいっぱいだった。大根を一本選んでレジに行き、現金で支払ってから急いで店を飛び出す。


 侑の乗った飛行機が空港に着くのは、午後七時過ぎだ。

 此処から空港まで二時間は掛かるから、大根を家に置いたらすぐに向かわないと間に合わない。


 湊がヘルメットの紐を締めている時、後ろから声がした。




「今日はよく会うな?」




 全身の血が引く音が聞こえた気がした。

 サイドミラーで確認すると、其処には買い物袋をぶら下げた桜丘が立っていた。この人も買い物するのかなんて思いつつ、湊はエンジンを掛けた。




「今日は忙しいんだ! じゃあね!」




 湊がギアを踏もうとした瞬間、後ろから首根っこを引っ掴まれた。桜丘の手が伸びて来て、エンジンを落とす。メーターが沈黙して行く様は、まるで心電図が患者の死を告げる様に似ていた。




「アンタと遊んでいる時間は無いんだよ!」




 湊は大根を抱えて、頭突きした。ヘルメットを被っているせいで視界が悪い。横から凄まじい衝撃を受けて、湊はアスファルトの上に叩き付けられた。


 ヘルメットを被っていて、良かった。

 被っていなかったら、潰れたトマトみたいになっていただろう。湊はヘルメットを投げ付けて、桜丘を睨んだ。




「どうしてそんなに俺に構うんだ?! もう放っておいてくれよ!!」




 湊は懇願した。

 弟を助ける時に力を貸してくれたことには感謝している。自分が常識から外れた道を選んだことも自覚している。だけど、それが何だと言うんだ。




「お前、本当にそれで良いのか?」




 桜丘が言った。

 湊は奥歯を噛み締めた。この人とは一生分かり合えない。


 俺がやらかした結果は、今も裏社会のド変態の餌にされているし、マッドサイエンティスト共は自分を実験動物にしようとしている。平和主義者は両親の死を悲劇に自分を白い鳩にしようとしているし、ラフィティ家からは道具扱いされて、都合が悪くなったら切り捨てられるだろう。


 だけど、生きて行く。

 泥水を啜って、底辺を這いつくばって、誰に笑われ、後ろ指差されようが生きて行く。過去も罪も覚悟も全部背負って、地獄でも歌いながら歩いて行く。其処に貴賎を問うならば、そんな奴は部屋に篭って壁とお喋りしていれば良い。


 侑。

 湊は、胸の内でその名を呼んだ。

 今頃、空の上だろうか。無事に帰って来てくれ。

 葵くんの友人は、飛行機の爆破テロで亡くなったと聞いたことがある。この世界に平和で安全な場所なんて何処にも無い。


 時間が無い。

 桜丘に背を向けて、湊は走り出した。


 公共機関は使えない。以前、タクシーに乗って銃撃されたことがある。なるべく監視カメラの無い場所を選びながら、湊は下水道の入口を見付けた。けれど、其処には作業員がいて、とても突破出来るとは思えない。


 何処に逃げても、何処まで行っても、桜丘が追い掛けて来る。街中を追い掛けっこして、誰か助けてなんて叫べたならこんなことになってない。

 俺はルールの外で生きているし、ルールは俺を守らない。全部自分で乗り越えて行くしかない。そういう生き方を選んだし、後悔もしていない。


 空は真っ暗だった。

 空港の方に向かって走っていたつもりなのに、桜丘が先回りするから大きく迂回させられてしまった。ジェット機でも使わないと、飛行機の到着には間に合わない。


 肺が破裂しそうだった。

 喉がカラカラに乾いていて、汗も出ない。湊は路地裏に手を突いて、荒い呼吸を必死で整えた。




「逃げ足だけは速いんだな」




 後ろで桜丘が言った。


 ターミネーターかよ。

 湊は内心で悪態吐いて、大根を脇に抱え直した。

 喉の奥が張り付いて、声が出なかった。ひゅうひゅうと息の抜ける音がする。大通りから回り込んで来た桜丘は、繁華街の鮮やかなフィラメントに照らされている。




「いつもそうして逃げるのか?」




 桜丘の声は夜風のように冷たかった。




「お前のやっていることは、自己満足なんじゃないか?」

「……うるさい」

「自分の身を危険に晒すことを言い訳にしているんだろう?」

「……うるさい!」

「自分の命一つで落とし前が付けられると思うのか?」

「うるさい!」




 湊が叫んだ時、目の前に影が迫った。

 防御の姿勢も取れずに吹っ飛ばされ、混凝土の壁に背中が衝突する。喉の奥から熱が込み上げて、湊は激しく噎せ返った。


 桜丘の腕が伸びて、胸倉を掴む。

 切れ長な瞳にフィラメントの光が映り込み、まるで万華鏡を覗いているみたいだった。




「テメェの身一つ守れないクソガキが、他人の人生捻じ曲げて、偉そうな口を叩くんじゃねぇ!!」




 怒りを凝縮した怒号が路地裏に反響する。

 湊には、それが遠くに鳴り響く雷鳴に聞こえた。


 この人は、折れるところが見たいんだ。

 俺が頭を下げて、反省して、膝を突くことを望んでいる。


 燃え盛るような怒りが湧き上がって、頭の中が真っ赤になる。意識が切り離されて、上空から体を操縦しているみたいだった。


 友達も守れなくて、家族も助けられなくて。

 折れて、折れて、折れて。

 それでも此処まで生きて来たんだ。


 怒りで唇が震えた。湊は咳き込みながら、絞り出すように言った。




「俺は、謝らない……!」




 謝ったら、間違いだと認めることになる。


 俺は沢山の命の上に生きている。大勢の人に助けられて、守られて、生かされて来た。だったら、少しでも多くの人を助けて、少しでもマシな未来を選ぶ。誰に理解されなくても良い。


 侑と約束したんだ。

 死ぬな、殺すな、奪うな。自分の未来を諦めるな。


 言い訳はしない。謝罪もしない。

 何故か。




「俺が、決めたことだからだ!!」




 湊が叫んだ、その時だった。

 桜丘の瞳に激怒の炎が燃え上がり、顳顬に青筋が走った。拳が振り上げられる。殴られる。その瞬間、金色の光が瞬いた。




「おい」




 獣の呻くような低い声がした。

 闇の中から黒い刃が現れて、桜丘の首筋に突き付けられる。光を反射しない刃は首筋の薄皮を削ぎ、微動だにしない。




「俺の玉に何してやがる」




 感情を押し殺したような低い声だった。

 闇の奥でエメラルドの瞳が煌々と輝く。




「侑……」




 ぽつりと、何かが零れ落ちるような気がした。

 侑は、仮面のような無表情だった。桜丘にナイフを突き付けたまま、脅しでは出せない殺気の篭った声で言った。




「そいつから、手を離せ」




 桜丘の手が開かれ、湊はその場に尻餅をついた。距離を取らなければならないと分かっているのに、動けない。それは疲労の為ではない。侑から滲み出す濃厚な殺意が、脳への緊急指令となって体を強張らせた。


 一挙手一投足が死に直結するような緊張が走る。

 冷や汗が噴き出して、湊は言葉を発することが出来なかった。


 エメラルドの瞳は、猛禽類のような凶暴な光を宿している。




「こいつは、敵か? 玄人か?」

「……味方ではない。でも、一般人だ」




 襟元を直しながら、湊は咳き込んだ。掌に血が滲んでいる。

 桜丘は眉一つ動かさない。ただの武道家では無さそうだった。侑はナイフを突き付けたまま、桜丘に問うた。




「お前は、俺の敵だよな?」




 むしろ、そうであってくれ。

 侑が言った。


 侑の口調は、子供に問い掛けるように優しい。けれど、その目は微塵も笑っていない。桜丘が答える、刹那。

 桜丘の腕が侑の手を掴んだ。僅かな予備動作も無く身を翻すと、桜丘は侑の顔面に向かって腕を振り抜いた。

 空気を切る音が鮮明に聞こえた。侑は片手で往なし、軽やかに湊の前へ滑り込んだ。


 湊を背中に庇いながら、侑は抑揚の無い声で言った。




「何だ、その怪我」

「……」

「こいつか?」




 否定も肯定も出来なかった。

 ハヤブサは何してんだ、と侑が舌を打つ。


 桜丘は丸腰だったが、退く様子は無かった。侑はナイフを逆手に持ち替えて、ボクシングみたいに構えた。


 湊は逡巡した。この場所で戦闘になって、一体何が残る。

 苦渋を噛み締め、湊は精一杯の高い声で悲鳴を上げた。




「誰か助けて! 喧嘩だ!!」




 侑と桜丘が肩を跳ねさせた。表通りに向かって叫べば、通行人が覗き込む。桜丘は顔を顰めた。




「お前は弱虫だな!」

「何だと?」




 桜丘は湊に吐き捨てたのに、何故か侑が怒った。


 通行人が集まって、通報しようかと囁き合う。桜丘は舌を打った。去り際に何か恐ろしいことを言っていたような気がしたけれど、湊には聞き取れなかった。殴られたせいで耳の調子がおかしい。


 侑は、見たことのない黒いジャケットを着ていた。ニューヨークで買ったのだろうか。雑誌に出て来るモデルみたいだ。

 湊の眼前に膝を突くと、侑はいつもの優しい声で問い掛けた。




「立てるか?」

「……うん」




 バイクを取りに行かなきゃ。

 あと、大根。


 辺りを見回すと、買ったばかりの大根は真っ二つに折れていた。桜丘の蹴りの凄まじさを物語っている。剣道家だった筈だけど。


 力任せに折られた大根を見ていたら、鼻の奥が痛くなった。何かが胸を突き上げる。両眼が熱い。


 俯いていたら、侑が訊ねた。




「なんで、大根?」

「……玉子焼きを、作ったから」




 何かが零れ落ちそうで、湊は鼻を啜った。

 何一つ上手くいかない。足掻いても足掻いても、何も変えられない。俺は、ずっとガキのままだ。強くなりたいのに、どうしたら良いのか分からない。


 帰ろうぜ。

 侑が頭を撫でて、言った。


 返事をしたら、一緒に別のものが溢れてしまいそうだった。湊は頷いて、折れた大根を持って立ち上がった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る