6.毒と薬

⑴覆水盆に返らず

 Most people say that it is the intellect which makes a great scientist. They are wrong: it is character.

(優れた科学者を生み出すのは知性だと人は言う。彼等は間違っている。それは人格である)


 Albert Einstein





「私は甦りであり、命である」




 透明な液体が管を伝い、右腕の静脈に流れ込む。

 滴り落ちる液の音が聞こえるような静寂だった。




「私を信じる者は、例え死んでも甦る。また、生きていて、私を信じる者はいつまでも死なない」




 新約聖書、ヨハネによる福音書。

 柔らかなボーイソプラノが鐘の音のように厳かに響き渡る。立花は、一人掛けのソファに深く腰を掛けていた。室内はまるで透明な膜に包まれているかのように生温く、静かだった。




「貴方はこれを信じるか」




 天使の顔をした悪魔が、囁くようにして言った。

 湊は喪服のように上下真っ黒な服を着ていて、立花にはそれが牧師のように見えた。




「クソ食らえ」




 立花が吐き捨てると、湊が子供のように笑った。

 丁度、点滴液が最後の一滴を落とし終えた。


 立花蓮治は、日本の首都圏を中心に活動する殺し屋である。最速のヒットマンと呼ばれるハヤブサは、裏社会の抑止力の一つである。立花はその三代目に当たり、都心の繁華街近くに事務所を構え、ゴミみたいな依頼を熟しながら生計を立てている。


 エンジェル・リードの蜂谷湊と出会ったのは、今から大体二年くらい前の夏だった。或る犯罪組織に喧嘩を売った湊が母国に居場所を失くし、殆ど亡命みたいな形で立花が保護したのが始まりだった。当時、立花は26歳、湊は17歳だった。


 立花の師匠と湊の父親が知り合いで、立花は面倒なお荷物を押し付けられたのである。日本にやって来たばかりの頃の湊は、兎に角、面倒なクソガキだった。


 立花にとって湊は、血も繋がらない赤の他人である。

 表舞台から転落した湊が裏社会のルールを理解し、折り合いを付けるまで幾度と無く衝突し、捻じ伏せて来た。縛り付けたこともあったし、銃を突き付けたこともある。


 何処かで折れると思っていたのに、裏社会での立ち回りを覚えて、立花には理解出来ないコネクションを確立するようになった。翔太という野良犬を拾って来て番犬にして、いつの間にか立花の引いた予防線を飛び越えて懐に入り込んで、最終的には国家公認の殺し屋という狂犬を手懐けて、勝手に海外に消えた厄介者である。


 現在、湊はエンジェル・リードという個人投資家となって活動している。立花には全く理解出来ないし、理解出来る日も来ないと思う。




「CTも異常は無いね。Blancブランは問題無く効力を発揮している」




 薄いタブレットを操作しながら、湊が言った。

 濃褐色の瞳にブルーライトの光が反射して、まるで青白い灯火が宿っているみたいだった。湊は点滴液を片付け始めた。


 二月の冬空は透き通るような淡い水色をしている。透明な日差しに照らされて、窓の外に見えるポプラの枝先は寒々しく見えた。


 数十年前、違法薬物とテロリズムが横行した暗黒の時代。

 立花はこの国の崩壊家庭で生まれ、激しい暴力の下で育った。薬物中毒の両親は立花を徹底的に虐げ、勝手に野垂れ死にした。その後、立花は施設に預けられたが、其処はこの世の地獄を煮詰めたような最低水準のゴミ捨て場だった。


 職員による虐待と搾取、子供同士の陰湿な権力闘争。幼い頃の立花はいつも腹を空かせていて、野草や虫に手を伸ばしたこともあった。


 その施設では、孤児を対象にした薬物の人体実験が行われていた。


 海外の犯罪組織が作り出した違法薬物、ブラック。

 それは脳を破壊し、人を操り人形に変える悪魔の薬だった。薬物の効果はすぐには現れないが、症状が出たら間に合わないという時限爆弾である。立花、ペリドットこと天神侑とその弟は、人体実験の生贄だった。そして、そんな鬼畜の所業を行った犯罪組織こそが、湊が喧嘩を売った相手だった。


 その犯罪組織が壊滅したのは、去年の夏。

 現在は主要各国に国際犯罪組織と認定され、薬物もまた厳しく取り締まられており、ブラックの浸食を食い止める薬も開発されている。


 Blancブランと呼ばれるその薬は、脳科学の研究者である湊と、精神科医であった湊の父親によって作り出された。その薬のお蔭で、立花や天神侑の脳は今も無事に守られている。――しかし、間に合わなかった男もいた。


 天神侑の実弟、新である。

 烏のような黒髪とエメラルドの瞳をした青年だった。

 ノワールと呼ばれる駆け出しの殺し屋で、湊とは仲の良い友達だった。犯罪組織に脳を破壊され、操り人形になり、殺された。確か、21歳。翔太と同い年だった。


 長生き出来るタイプには見えなかった。

 自然淘汰される自暴自棄なクソガキだった。だが、そいつがいなければ湊は裏社会では生きられなかったし、航は社会的に抹殺され、立花も無事では済まなかった。


 この世は理不尽と不条理が溢れ返っていて、奇妙な因果の歯車が複雑に噛み合っている。何でもかんでも救える訳ではないし、折り合いが付けられる訳でもない。




「次は半年後にしよう。少しでも異常があったら、すぐに教えてくれ」




 湊は荷物を纏め終えると、苦笑を漏らした。

 立花には時々、彼の目に青い炎が見えた。それは鬼火に似た狂気の炎である。出会った頃の子供らしさや甘さは消えて無くなり、今では手を汚すことに躊躇いすら無い。


 立花にとって、湊は血も繋がらない赤の他人である。

 けれど、倒れていたら背負ってやるくらいの情はある。今更、立花が保護してやる必要も無いが、墜落する様は見たくない。




「なあ、湊」




 立花が呼ぶと、湊は目を瞬いた。

 この子供の容姿が美しいのは、猛毒の生き物が鮮やかな色をしているのと同じなのだろう。そして、その毒で誰も死なせたくないと願っていることが、この子供の最大の悲劇だった。




「弟とあいつを連れて、海外の田舎に一軒家でも買って、引き篭もって暮らせ。野菜でも育てて、日が暮れるまで本でも読んでろ。そうすりゃ心安らかに過ごせるだろうさ」




 人は痛みが続くと、それを知覚出来なくなる。

 自分は、この子は、どうなのだろう。俺達の感じているものは一体何なのか。立花にはもう、よく分からない。


 湊はソファに座ると、肩を落として力無く笑った。




「それも、良いかもね」

「まだ、引き返せるぞ」




 先代ハヤブサである立花の師匠は、仕事を引退してからは田舎で隠居生活をしていた。誰に看取られることもなく、蝋燭の火が消えるみたいにして、布団の上で死んだ。だが、幸せな老後だったと思う。きっと、こんな世界でボロ雑巾みたいに使い捨てられるよりはずっとマシな最期だった。


 今の自分達には、それすら望めない。

 果たして、それはマシな未来なのか。


 湊は深呼吸をするように、深く息を吐き出した。




「俺の家族は、アメリカの田舎に住んでた。親父は医者で沢山の人を救ったし、お母さんは贅沢もせず俺達を育ててくれた。……でも、二人共、爆弾テロで死んだ。それも中東の代理戦争の一端で、俺の家族には何の関係も無かった」




 そういう世界なんだよ、蓮治。

 まるで自分に言い聞かせるみたいに、湊が言う。




「神も正義も、俺の家族を守ってはくれなかった。生身の俺はただのガキだ。殺し合いになったら真っ先に死ぬだろう。家族が守れるならそれでも良いさ。でも、俺が死んだ後は、誰が家族を守ってくれるんだ?」

「人間なんざ、死ぬ時は死ぬ。お前が何をしても、しなくてもな」

「それなら、足掻くさ。後悔しながら死ぬのは御免だ」




 それは、崇高な覚悟なのか。愚かな自己犠牲なのか。

 立花には、測れない。




「侑が言った。閉じ籠って心静かにいられるなら、誰も涙なんて流さない。俺は大切な人には、笑っていて欲しい……」




 そんな泣きそうな顔で、他人に笑えと言うのか。

 立花には、まるで一人芝居のように滑稽に思えた。












 6.毒と薬

 ⑴覆水盆ふくすいぼんに返らず












 外が薄暗くなって来たと思ったら、雪が降り出したらしい。


 立花が事務所で煙草を吸っていると、鼻の頭を赤くした翔太が帰って来た。肩には薄く雪が積もり、寒い寒いと両手を擦り合わせている。




「ただいま」




 翔太はコートをハンガーに掛けると、暖房の下に吊るした。

 古い空調が轟々と唸る。立花は特に答えず、灰皿の縁を煙草で叩いた。灰が粉雪のように舞う。崩れ落ちそうな吸殻の山を見て、翔太が溜息を吐いた。




「そんなに煙草ばっかり吸ってると、肺がおかしくなるぞ。侑は同居人を気遣って分煙してるらしいぜ」

「意味あるのか?」

「知らねぇ。でも、気を配れるのは良いことだ」




 翔太が笑った。

 神谷翔太は、立花の弟子のような存在である。元々は湊が拾って来たのだが、結局、最後まで世話をしているのは立花である。それでも、偶に帰国すると飼い犬みたいに尻尾を振って寄り付くのだから、随分と念入りに躾けられている。




「彼方此方に訳分かんねぇ銃器が出回ってるぞ」




 翔太が怪訝そうに言った。


 翔太は元々、空手を習っていた。この世界に来てからは道場に通わない代わりに、ストリートファイトの賭博場で喧嘩をしている。今日もこの寒空の下、持て余した体力を消費するように喧嘩をして来たらしい。


 恨まれてトラブルになったこともあったが、其処で情報を仕入れることもある。翔太にそういう遣り方を教えたのは、天神新だった。


 翔太は暖房に手を翳しながら、記憶を辿るみたいに言った。




「この前の殺し屋集団も色んな銃を使ってた。まるで武器の見本市だよ。裏でこんだけ出回ったら、表に流れるのも時間の問題だな」




 立花は煙草を咥えて、深く吸い込んだ。

 吐き出す煙は細く伸びて、暖房の風に消えて行く。


 最近、裏社会に多くの武器が蔓延している。殺し屋の台頭にしても種類が豊富だ。彼等の武器が何処から流れて、何の為にばら撒かれているのかは分からない。


 中国の青龍会が武器密輸を企てていたこともあったが、何度か失敗しているし、立花自身、そのルートを潰したこともある。それでも懲りもせずに武器密輸をしているとしたら、相当な馬鹿か、何かしらの目的があると言うことだろう。


 青龍会のトップである李嚠亮は、湊の大学時代の友人である。大の日本人嫌いだとも聞いているが、話の通じない相手じゃない。


 翔太は暖房の風に目が乾くのか、両眼をぱちぱちと瞬きながら言った。




「スパスに、ボウガン、手榴弾に散弾銃……。ああ、ドラゴンブレスも使ってたな」




 ドラゴンブレス弾は、散弾銃用に設計された焼夷弾である。致死性が低いので、威嚇や救難信号としても使われる。愛好家はいるが、殺し屋が持つ必要の無い銃弾である。




「どれも新品だった。武器のバーゲンセールでもやってんのかね」




 翔太が肩を竦めたので、立花は笑った。

 しかし、気に掛かる。近年の治安悪化は社会問題になっているし、銃を使った犯罪も増えている。銃を規制し、厳罰を定めようとする動きもある。尤も、いたちごっこになるだろうが。


 立花は煙草を灰皿に押し付けた。




「テメェ、喧嘩しに行って来ただけか?」




 立花が訊くと、翔太が振り向いて首を振った。

 翔太には或るお使いを任せていたのだ。散歩して満足しているようでは非常に困る。




「ちゃんと下見して来たよ」




 翔太は携帯電話を出して、建物の写真を見せた。

 硝子張りの箱のような巨大な建物である。千葉にある製薬会社で、社員数も業績も大したことのない中小企業である。


 名前は、エトワスノイエス製薬。

 早口言葉みたいだと、翔太が笑っていた。


 立花の元に依頼が来たのは、一月の下旬だった。

 依頼人は大手製薬会社の幹部社員で、やり取りは翔太がメールで行った。エトワスノイエスは傾き気味の製薬会社であったが、半年程前から急に業績が安定し始めた。


 これまで不治の病とされて来た先天性疾患に対する、特効薬の開発に着手しているらしい。それは科学の進歩として大変喜ばしいことだが、利益が絡むとこの国は相手を蹴落とそうとする傾向がある。


 大手製薬会社の幹部は、エトワスノイエスの科学者を暗殺して欲しいと大金を積んで来たのである。


 エトワスノイエスには大手のスパイが潜り込んでおり、研究データを盗もうとする動きもあったらしい。だが、その研究は件の科学者が単独で行っており、情報を盗む隙が無い。手中に収まらないのならば、殺してしまおうと言うのが依頼主の本音である。


 仕事に私情は挟まない。

 それは立花がこの仕事をする上で自身に定めたルールである。適切な報酬があれば、相手がどんなクソ野郎で、どんな馬鹿げた依頼でも受ける。そして、受けた依頼は必ず遂行する。




「エトワスノイエスの警備は緩い。入口の守衛室に爺さんがいるくらいだ。そもそも、襲撃なんて想定していないだろうしな」

「監視カメラは? 警備員の数は?」

「外からじゃ分かんねぇよ」

「周辺の建物は?」

「地図見れば?」




 立花は溜息を吐いた。

 偵察とは、見学ではない。俺達は其処にいる科学者を暗殺するのだ。狙撃ポイントや逃走経路、ターゲットの行動範囲やスケジュール。丁寧な下調べが仕事の成功率を上げる。


 立花の暗殺手段は、基本的に遠距離からの狙撃である。情報収集は欠かせない。脳味噌まで筋肉の飼い犬には出来ない細かな作業だった。




「もうお前には頼まねぇ」

「酷え!」




 立花が席を立つと、吸殻の山が崩れた。

 あーあ。翔太が嘆くように言う。立花はそれを無視して、コートを羽織った。近頃は尻拭いばかりしている気がする。


 窓の向こうは雪が降っている。

 雪は嫌いだ。足跡が残る。


 立花はマフラーを巻いた。

 今から千葉まで行くのかと思うと、うんざりした。

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